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 ●  ゲーテ (詩人) のことば

  あたらしい真理にとっては、古い誤謬ほど有害なものはない。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  元来宗教は、人に対して露骨に説くべき性質のものではない。これはさきに、「ものの見方」 でもふれたが、そこにだまって存在していて、逆に人の方から慕い寄ってくるような性質のものでなければならない。宗教だけでなくすべて思想の最も深い魅力は、そういう受動的なすがたに存するのではなかろうか。積極的であるということは、必ずしもその思想の深さをあらわすものではない。現代の政治も思想も宗教も、すべて自己を誇示することにのみ専心しているが、それは根柢において薄弱だからである。「弱さ」 は逆に 「積極的」 外観を呈するものである。


/ 2013年 1月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  ドストエフスキー (小説家) のことば

  本当の真理というものは、つねに真理らしくないものである。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  私の最も好まないのは、自己の確信と称するものを、つねに外面にあらわそうとするときの、その 「厚顔」 である。説教とか宣伝の中には、必ず一種の厚かましさがある。人を説得してやろうという下心と言ってもよい。そして宗派でも党派でもまず自分の集団へ 「入れ」 と勧誘するが、私は思想の客引を好まない。


/ 2013年 1月23日 /  ページ の トップ /


 ●  イプセン (劇作家) のことば

  大衆というものは、キリスト が十字架におもむくとき、いったいどんな態度をとったか? 大衆というものは、地球が太陽を廻るという真理に反対し、ガリレオ を犬のように四つん這いにして曳きずり廻したではないか? その真理を肯定するのに、大衆は、五十年もの歳月を要した。多数が正しいのではない、真理そのものが正しいのだ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  (略) もし熟練した思想家であるならば、自由という言葉を一つも使わずに、自由について語るだろう。平和という言葉を一語も用いずに、平和について語るだろう。そうしてこそ言葉は生きてくる。即ち思想も生きてくる。社会的に絶対的権威をもつ言葉を、符牒のようにもち出さなければ自分の思想を語りえないということは、一種の弱さではあるまいか。画一主義におちいっている証拠であり、画一主義というものは弱い人間に安心感を与えるものである。


/ 2013年 2月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  デカルト (哲学者) のことば

  正しく哲学するためには、一生に一度は、自己のあらゆる持説を棄てる決心をしなければならぬ。たとえその中に真実なものがあるとしても、それらをもう一度一つ一つ取り上げてみて、疑問のないもののみを認めるためには、そのくらいの決心をしなければならぬ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  愛とは思いつめる能力のことだ。


/ 2013年 2月16日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  眼の前にない物の外見を喚起する力などというものは、人のいうほど、また人の信じるほど、強いものではないこと、換言すれば、想像力はそれ自身の性質についてもわれわれを欺くものだということを、認めておくことである。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  むしろ一つの テーマ を根づよくくりかえし、探究し、深めて行くこと、これが精神の形成のために大切なことである。この同一の問題の持続的な探究ということ、これがやはり マンネリズム から免れる一つの道ではなかろうかと思う。そして持続ということの裡には、必ず 「初心」 があるにちがいない。初心にかえることによる持続と言ってもいいだろう。


/ 2013年 3月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  プラトン がわかるなどというのは、べつに大したことではないので、自分自身が プラトン になり、えっちらおっちら、つまずきながら考えるのでなくてはだめです。網は魚をとるだけです。しかし、海から引き離された魚とは、いったい何ですかね。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  政治でも社会問題でも、何か異常な事件が起るとき、我々の関心は、殆んどその面にのみ集中してしまう。そこだけが極度に拡大される。そして一定の期間を過ぎると、全くそのことを忘れて、今度は別の問題に対して関心を深める。こういう関心とは一体何だろうか。私はそれを現代に固有の 「無関心」 のあらわれだと言いたい。


/ 2013年 3月16日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  パルザック と スタンダール が見付けたことは、あたまのいい読者にはあまりに単純に見える。だが、うれしいことに、あの二人には、それが単純なものではなかった。というのも、人間の持ちまえの愚かさから出発して考えたからだ。彼らはおのれの生を解きほぐしていったのだ。これは私の考えだが、彼らはつねに一から始め、また、何事に関しても、あらかじめ理解しているということをしない。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  職業による制約は決定的であり、同時に現代にはもはや閑暇という時間は消滅した。複雑な社会組織の中にあって、その メカニズム の一員として、自発的というよりはむしろ他動的に働かされている。動くのではなく動かされている。間断なく動かされているというこの受動性から、独特の多忙さが発生する。絶えず何かを為していなければならないのである。それが パン のためであってもなくても、静止の状態が苦痛となってきたのだ。何もしない時間のもつ充実性を、現代人は失ったらしい。


/ 2013年 4月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  彼ら (マラルメ と ヴァレリー) は謎をゆさぶり、その妙音をたのしんでいる。若い人たちはそういうところから出発するのだ。ソクラテス も プラトン も、まさにそんなふうに ホメロス の謎をゆさぶったものである。(略)
  明るい謎、つまり解くことの可能な謎、いいかえると数学的な謎、解けなければわれわれが怠慢だということになるような謎が、いまでは求められている。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  誰もが、同じような言葉で、同じような表現をとって、それが社会的に一つの威力となってあらわれる場合がある。(略)
  人間の自由には限界はあるにしても、「私は自由であるか」 という疑問を失ってはならないのは、この画一性への抵抗のためである。いかなる意味での画一性に対しても、つねにめざめているのが人間の自由というものであろう。出家遁世も、同一型のくりかえしになったときは明らかに堕落した。私は兼好や芭蕉の言葉から、「自由」 という観念を出来るかぎり明らかにしようと思ったが、「本音」 というものは、昔の人も今の人も容易に吐かないものである。「本音」 の自由はただ仏道に向ったときと、中世人は考えつめていたようである。人間の口にする自由の虫のよさに、失望していたのかもしれない。


/ 2013年 4月16日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  人をよろこばそうとして工夫し、また人の気に入るものをかき集めようと無理をするのが、間違いのもとなのだ。そうするうちにも、ミケランジェロ のような人たち、ベートーヴェン のような人たちは、めいめいであの防波堤の石組みを築いている。そして、人間たちは思わず立ちどまる。彼らはうっとりしているのでもなければ、魅了されているのでもない。彼らは去りがたくてじっとしているのだ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  これだけ娯楽が発達して、人は却ってほんとうの楽しみを失っているのではないかという疑いを私は抱く。楽しそうな外観を呈しながら、却って深い不安におびえているようにさえみえることがある。とくに大都会ではそうだ。つまり疲れているのだ。疲労の深さは刺戟を求めるものである。より強い刺戟によって疲労を痲痺させるわけだ。


/ 2013年 5月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  思想を変える唯一の方法は行動を変えることだということを、いっこうに知らない人が少なくない。情念に駆られている人間は例外なく、思想によって思想を祓 (はら) い浄 (きよ) めようとかかる。もちろん、これはうまくいかない。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  色ごのみとか恋愛は、本来 「知的」 な行為である。(略) 兼好法師の言葉全体にみられるのは 「瀟洒 (しょうしゃ) な知性」 とも言うべきもので、彼はいかなる場合でも感情に溺れていない。頭の冴えきった人だ。(略) 元来すぐれた感情とは知性の原動力なのだ。兼好のそれを 「潤いのある知性」 とよんでもいいと思う。「色このまざらむ男はいとさうざうしく」 と言ったときの 「さうざうしさ」 とは潤いのない知性のことだと解してもよかろう。


/ 2013年 5月16日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  彼が アカデミー 会員に選ばれ、会員席の立派な椅子に坐ると、ごくしばらくのあいだは、手のたしかさ、てのしなやかさを、思い出したようにとり戻るが、ほどなくそれを失う。ペン を王笏 (おうしやく) みたいに構えてにぎるから。
  人を小馬鹿にした態度、地位名声を得るとすぐさま生まれるあのおろかさは、筆致に重くおしかかる。輪郭はきちんと取れていても、デッサン は卑俗になる。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  すべて一流の作家とは、何らかの意味で人間の化物性を摘出し描写する才能をもった人である。そうでなくても、数多くの人間を描き、年月を経て行けば、化物性にぶつかる筈だと私は思う。作家だけではない。どんな人間でも、長年月にわたって人間と交際してゆくかぎり、化物性に直面し、自分もまた化物となる。謀略の中に生きる政治家、実業家などの中に、時折そういう人物をみかける。あるいは人間は老齢に達するにつれて、次第に妖怪性を帯びると言っていいかもしれない。彼がもし一事に徹した人であったならば。


/ 2013年 6月 8日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  だれだって、危い賭けをするおそれがなくなったとたん、巧みに考えるくらいなことはする。文体は、あえて危地に身を置くことを私に強いる。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  宣長は何故 「あはれ」 をこれほど重んじたか。言うまでもなく人間の言動に対する従来の価値判断への不信に発していた。儒教風の 「善悪」 で判断することを極度にきらった。あるいは仏教的な立場から、悟りを得たとか得ないとか、そういう面から判断することにも強く反対した。「古事記伝」 の 「直毘霊」 でも述べているように、「おのづからのまにまに」 という人間性の在るがままの相に直入しようとしたのである。すべての偏見や先入観を捨てようとした人の、端的な感動を 「あはれ」 に見出したのである。そこに人間性の複雑な ニュアンス を、はっきりみようとしたと言ってもよかろう。


/ 2013年 7月23日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  単なる可能のうちからどれが最も美しかろうなどと捜しあぐむのは時間の浪費というものである。いかなる可能も美しくはなく、ただ現実のもののみが美しいのだから。まず制作せよ、判断はそれからのことだ。これこそあらゆる芸術の第一条件である。(略) それは、現実の対象をもたぬあらゆる瞑想は必然的に不毛だということである。(略) しかし、人は存在するものしか考えることはできない。まず君の作品を作ってみることだ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  しかし物語や詩歌に接する態度とはその割りきれないものの中で翻弄され、感動をうける以外あるまい。ある分別をこころみ、または理論化しなければ、理解したと思えない人がある。それも一つの理解ではあろうが、口に出して表現出来ず、ただ沈黙のままに心に感ずるという理解もある。


/ 2013年 8月23日 /  ページ の トップ /

[ END ]


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