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 ●  アラン (哲学者) のことば

  習慣の力のおかげで、行為は不必要な運動なしにすぐに判断にしたがうのだ、というべきである。少しでも横道のことを反省したり考えたりしたら、体操家はたちまち失敗を演ずる。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  芸術に対してはすべて性急は禁物である。それは一種の、極めて忍耐ふかい労働と云つていゝ。制作者の場合も、鑑賞者の場合も。


/ 2020年 1月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  よく考えなければならなぬということがすなわち思想の身代金なのだ。考えなくてはどうしていいかわからない以上、よく考えなければよく行為することはできぬ。周知のように、まずいことをしでかしはしないかというおそれが、ここでも重大な障害となるのであり、この種のおそれが、また常にあらゆるおそれのうちでいちばん幅をきかせているものである。しかし、このおそれは、動き始めようとして互にかみあう無数の行為の感情にすぎない。このおそれに打ちかって、望むところをおこなうには、望むところだけをおこなうようにしなければいけない。(略) いちばん簡単な練習も情熱に対する戦い、とくに恐怖や虚栄心や焦燥に対する戦いなのである。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  たつた一枚の絵でもいゝ。自分の好むものの前に立つて、五分間これを凝視すること、たゞそれのためにだけ博物館は訪れるものだといふことを、私は忘れがちなのである。五分間とは実に短い時間だ。しかしその間全身全霊を傾けて眺めつゞけるといふことは、容易なことではない。(略) 一流の作品に対しては、鑑賞者は汗を流すべきだ。芸術とはまづ汗を流すものである。大急ぎで博物館を巡つて、労力なく多くのものを観て、たしかに見たと思ふその錯覚から離れなければいけない。美術に対しては眼の訓練が必要である。思考力も感覚もすべて眼に集中される。落着いた凝視、そのくりかへしといふ当然のことを、今の我々は実行しない。


/ 2020年 1月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  善は信じなければならぬ、なぜかというと、そんなものは存在しないのだから、正義もまたそうだ。正義は愛せられ望まれると信ずるなかれ。そう信じても正義になにもの加えることにならぬからだ。ただ、自分は正義をおこなうと信じたまえ。正義は、僕らの手をわずらわさずとも、力によってなる、とある マルクシスト は信じている。この思想をたどってみるがよい。成るものは正義ではない、事物の一状態にすぎぬ。僕自身に関する正義の思想も同じことだ。すべてのものが、僕の思想もまた、ひとりでにできあがるなら、およそ思想の価値に高下はないわけだ、力によって得るものしか思想は持っていないのだから。(略) なおろうと欲しない病人は放っておかねばならぬ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  たとへば仏像は、元来仏殿に安置されて拝むものであり、茶碗は茶を飲む道具であり、刀剣は人を殺す武器であるか護身用のものである。各々その本来在るべき場所、即ち日常の信仰とか生活から隔離されて、博物館の ガラス の ケース の中に陳列されることは、それに対する鑑賞に制約をもたらす。これは重大なことだ。茶碗は手にとつて眺め、愛撫し、それで茶を飲むことによつて、はじめて我々と親しい肉体的関係に入る。さういふ美的鑑賞の態度が日本では発達した。
 絵は、ふすまもあり、屏風もあり、掛軸もあるが、すべて日常の生活にとけ入つたものとして愛好されてゐた。新しい絵にしても、自分で買ひ求めて、自分の座右においたとき、はじめて真の愛着が湧くだらう。この愛着以外に芸術の 「わかる」 方法はないのだ。


/ 2020年 2月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  天才とは、思案せずしかもあやまたぬ、予見しがたい流暢な行為である。(略) 美しい音楽の中には、なにか非常に自然はつつましいものがあり、音を聞いている歌手は、他物に注意をひかれず、音という対象のうちに順次に現われるものを見守っていると信ぜざるを得ないが、こういう充実した注意は、反省とか懸念とか先入観があっては不可能である。ここでは問題は予見することにはなく、ただおこなうことにある。(略) 忠告とか計画とかによらず、ただ対象によって事を決してしまう、自由な仕事というものはそういうものだ。画家にあっても同様だ、画筆の一刷けが次の一刷けを生む、作家にあって言葉が次々に流れ出すように。(略) 他の戦争の モデル によって戦争を指揮する将軍というものが考えられるだろうか。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  私は入門書や解説を否定しないが、それは読者がそれにとらはれず、一の参考ぐらゐに考へて接する場合にかぎる。詩や小説に対しては、たとひ難解であつても、素手でとびこみ、翻弄され、迷ひ、自ら額に汗してつきつめてみることが大切である。解説がなければ不安心だと思ふのは心の一種の衰弱ではあるまいかと私は思ふ。尤も解説の性質によつては、読書の上に大へん役立つこともあり、また古典や外国作品の場合、説明や註解の必要なのもたしかだが、それをみても、心の中で一応それを捨てることが大切である。


/ 2020年 2月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  デッサン の技術は、なるほど モデル にしたがうが、この技術のなかにも常に デッサン 自体にしたがって デッサン を続けたり止めたりするある運動が存するので、デッサン の非常な美しさが、モデル との類似には由来しないゆえんなのである。(略) この事情はたとえば モリエール、ことに シェクスピア など書き方に一致している。彼らの仕事の美しさは、主題もなければ、あらかじめ定められたものにもない。むしろいわば筆の勢いというものにある。すなわちあやまたずに持続する、行為であり同時に自由な判断であるものにある。(略) 必然と自由とをともに表現している点で、音楽に似ている。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  私のとくに強調したいのは、文学史に屡々みられる分類と限定と定義の虚妄である。一作家は一個の独自な運命である。社会的条件や文学思潮の影響はまぬかれないが、彼をして独自のものたらしめた原因をさぐり、彼がどのやうな固有の テーマ を提出し、いかに答へようとしたかを、個人に即してみつめなければならない。


/ 2020年 3月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  主観などというものは、正確な分析によって、とっくり見こしていなければならなかったものだ。それをせずになにか巫女の霊感のようなものを天才のうちに求めるのは要するに一つの メカニスム、さらにもう一つの物を主観のうちに捜すことだ。人間は自省すると同時に、正しく物を考えられるものではない。文筆の奴隷は、つくりたいと思う作品よって、おのれを知ろうとしがちなものだ。芸術家は、できあがった作品のみによっておのれを知る。そしてまた次の作品におどりかかる者は幸福である。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  批評の原理は様々あるにしても決定するのは愛着といふことである。そして一作家の全集をよみ、その出発、成育、成熟、死を凝視し、そこにその作家の肖像を再現しうるならば、それだけでも大へんなことであり、芸術鑑賞を深めるにも拡大するにも、畢竟はかういふ点から出発する以外にない。個人的な恋愛の深さから、世の多くの愛の深さを知るやうに、一個の美術品、一つの作品、それへの愛着からすべては発する筈だと私は考へてゐる。


/ 2020年 3月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  だれでも自分のいちばんよく知っていることをいちばんよく疑うものだ。これをみて傍人は、彼の証明の弱さを感じたからだと言いがちだが、当人にしてみれば、反対に、証明の強さを感じたからこそだ。作った人はまた壊すことができる人だ。証明が、その細部にいたるまで、力強い充実した懐疑によって試みられたことは経験によって明らかだ。懐疑を恐れていては、証明の力も展びもないものだ。ユークリッド は、自明に対して疑いがいだけた人であり、非 ユークリッド 幾何学は、いっそう強固な言葉でもう一つ懐疑を表現した。僕は、この懐疑について疑いをいだく。こうして次々に思想は生れ変わるのである。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  芸術の世界は広大無辺である。各人の好みといふものがあり、そこに執着することはもとより大切だが、それだけが絶対だと独善的になつては危険である。東西古今にわたつて、どれだけ我我の知らない美があるかわからないし、これからまたどんな美が創造されるかも予想出来ない。一つのものに愛着するとともに、眼を広く開いてゐなくてはならない。


/ 2020年 4月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  思想の記憶というようなものはこの世にない、言葉の記憶があるだけだ。だから常に証明を新たに見つける必要がある。また、そのために疑う必要があるのだ。「苦労だけが立派なのだ」 とはある古人の言葉だ。自分の書いたものをひきずっている人々に僕は多くを望まない。ジャン・ジャック は、書き終われば、すぐ忘れることにしていた、と語っている。だが、これはおそらく、最後の判断の眼前で、すでに書かれたものはことごとく倒壊したという意味だ。それでこそ同じ粘土が、新しい像を作る役にも立ったのだ。(略) 思想の対象にはただ事物あるのみだ。そしてそれだけで充分なのだ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  教養といふ言葉は、大正期から用ひられたもので、その以前には、修養といふ言葉が主として使はれてゐた。文化といふ言葉の前には、文明開化といふ言葉があつた。時代によつて言葉は変化し、またその時代の様々なニュアンスを帯びてゐるのは当然である。修養といふ言葉は、修身の教科書を思ひ出させ、古風な道徳を感じさせる。教養といふと、それから解放された自由な知性を感じさせる。それだけの新鮮味があつたのだが、その知性が強烈な徳性によつて支へられてゐないこと、云はば背骨の喪失が、大きな欠陥としてあらはれてゐるのではないかと私は思つてゐる。


/ 2020年 4月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  世には上すべりの懐疑がある、不安にすぎぬ。そういう心がけで本を読んではならぬ。ジャン・ジャック がしたように、愛と信念とでもって疑いたまえ。まじめに疑いたまえ、悲し気に疑うな。(略) まじめということについては、いろいろ言うことがありそうだ、悲しげな顔をすることはむずかしいことではないからだ。それは坂を下るようなものだ。しかし、幸福になることは困難な美しい仕事だからだ。常に、さまざまな説明に負けぬ強い人間でいたまえ。諸君を襲撃するいろいろな思想は、とくに諸君が武器を取りに走るようでは、少しも有益なものではない。そういうときに ソクラテス は笑ったのだ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  熟練性こそ教養だと言ひたいのである。またそこにこそ道徳の基礎があると思つてゐる。道徳とは文字どほり道の徳である。道とは一つの職業に熟練した人の道であつて、さういふ人は道徳をあらはに説かずとも、おのづからにして道徳家ではないか。私はさう考へてゐる。そして一つの道に精通するとは、その道に関する知的努力の極限を示すことであつて、かゝる累積が彼の人格を磨き、在るがまゝのすがたで、何か底光りを発してゐる。(略) 生産者あるひは創造者としての苦しみの汗からにじみ出たものが教養だと私は思ふ。


/ 2020年 5月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  人々は富をもてあそびたがる、ある者は音楽を、ある者は学問を。しかし富を愛するのは商人であり、音楽を愛するのは音楽家、学問を愛するのは学者である。アリストテレス のたくみな言葉をかりれば、現実的 (en acte) にそうなのだ。だから、ただじっとして受け取るだけでおもしろいことはない。(略) あらゆる苦労は、幸福の一部だといえる。庭は自分で造らなければおもしろくない。くどきおとさなければ、女もおもしろいものではない。権力を苦もなく得た者は、権力にさえ退屈するものだ。(略) 競走する者には走る幸福がある、見物人には楽しみしかない。(略) 子供がよく運動の選手になりたいというときに、正しい手段に事を欠いているわけではないが、やってみるとすぐ失敗する、苦労をはぶいて成功したと思いこむからだ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  思想をもつということも、畑を耕すことと同じである。疑問をもち、考へつゞけ、日常の様々な出来事の裡に体験し、時には失敗したり、いまひと息のところで挫折したり、七転八倒して、やつと収穫したやうな、さういふいかにもその人らしい思想といふものにふれることは稀である。今日の教養人は、外国輸入の、或は国産の、思想の缶詰を食べてゐるといつた具合だ。(略) 思想の生産者でなく、その収穫だけをあれこれ喰べちらして、味覚を楽しみ、饒舌してゐるのが今日の教養人ではあるまいか。


/ 2020年 5月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  遠くから想像しているうちは、幸福もいいが、幸福はとらえようとすれば消えてしまうものだ、とよく人はいうが、これはあいまいな言葉だ。なるほど、競走の選手は、休息しながら、想像裡で幸福になろうと思えばなれる、しかし、この場合、想像は、働くのに適した肉体の中で働いているのだ、彼は月桂冠とはどういうものか知っている、ただもらうものではない、力を賭して獲得するから美しいのだ、というようなことを知っている。つまりこの場合想像とは、そういうふうにすべてを秩序だててみる行為の一つの効果である。(略) はじめての経験は苦痛しか与えぬものである。だから、トランプ を知らないものは、なにがそんなにおもしろいのだといぶかる。もらう前に与えねばならぬ、希望は常におのれに寄せ、事物に寄せてはならぬ。報酬として幸福を得るが、幸福を得る人は、これを追った人ではない、これを得る価値のあった人だ。要するに、僕らが喜びを得たのは僕らが望んだからであり、僕らの喜びを望んだからではない。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  過剰なものへの鋭敏な反撥、これは教養の最大のしるしではないかと私は思ふ。


/ 2020年 6月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  行為の発端というものはなにもおもしろいものではない、それは、僕らになにごとかを教えようと強いる必然にすぎないのだ。だから僕らに、将来所有する喜びが決められる道理はあるまい、まして幸福は決められない、幸福は僕らを強いはしないのだ。もし決めてしまえば万事がおしまいだ。「あそこに喜びが見つかるだろうと確信したい」 というのもむろん愚かだが、「喜びなどは決して見つからぬと信じる」 という人はあわれである。そこで、退屈している人間とは、まず、たくさんいろいろな物を苦もなく得ていて、苦労して得た人たちはうらやましがっているだろうと思っている人だ。ここに、「僕は幸福なはずなのだが」 といういたましい観念が生まれる。(略) こうしてある性格ができあがり、むろん、これに似合った経験が応ずる。彼の目はすべての喜びをからす。喜びが多すぎるからではない、喜びには人は倦きやしないから。食べすぎて食事を拒むような人間ではない、むしろみずから摂制の地獄におちた、想像力の病人である。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  兼好法師が、もし今の世に生きたならば、あらゆるものについて、その過剰性露骨さどぎつさに対して、毒舌をふるふであらう。この点からすれば、今日の都会風景や風俗の多くは、本質的に無教養そのものだと云つてよい。つまり 「いやしげなるもの」 が多いのだ。
 かういふ状態に抵抗するためには、繊細な感受性を養ふことが大切である。繊細な感受性とは、ニュアンス への鋭敏さとも云へるだらう。日本語でいふなら陰翳への愛だ。(略) 人間は、語り難いところで親しくなるものである。愛情とはさういふものだ。(略) 教養の真のあらはれは、その人の 「はにかみ」 にあると。


/ 2020年 6月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  実際の世界は、短気者が望むように、しかりと否とでは答えてくれぬ、信念のもとに希望をおく、厳格な指令に従って、答えはおのれのうちから引き出さねばならぬ。しかし賭博は、いつもしかり、否で答えてくれる、賭博者は仕事を継続しない、くりかえしやりなおすのだ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  人生とは何ぞやといふ広漠たる問題に私は答へることは出来ない。しかし自分の半生をかへりみて、成るほどこれが人生といふものであらうかと、確と感じさせられたものはある。それは私を一人間として育ててくれたもの、現に育ててくれつゝあるその条件である。私は自分一個の力で生きてゐるわけではなく、自力で成長してゐるわけでもない。書物を通して接した東西の先師、或は現存してゐる先輩友人の導きによつて成つてきたわけで、条件とはつまりこの相伝相続を云ふのである。


/ 2020年 7月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  世間では、自分に満足した人間がいるということをいうが、僕はそんな人を一度も見たことがない。くりかえし他人からほめられる必要を感じているのは、ばか者に限る。成功は一種の安心をもたらすものだ。しかしことごとく成功した場合でも、この成功をささえる必要から、やりきれぬ思いをするのがふつう人の感情である。だれでも人を不快にするのはいやだ、人の気に入るのはうれしい。ただ自分の力で、人から好かれる自信のあるような男女がはたしているだろうか。ずいぶん確信の強い人でも、身のまわりに装飾や礼儀をつけている、友人の力で元気をつけている。無為な社会の悪習と自己反省に対する嫌悪とに押されて、世をあげて、阿諛追従を求める、金を払ってまで。そして、一種の安心に達する。だが、これは自愛ではない、虚栄心である。(略) しかし、この装飾は長持ちしない、虚栄はついに虚栄である。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  人生とは広大な歴史と云つてもいゝ。歴史とは無数の人間の祈念の累積だと云つてもいゝ。或は果さうとして果しえなかつた様々な恨みを宿すところとも云へるだらう。私はそれを学びつつ、やがて自分も束の間にしてその歴史の中に埋没してしまふことを知る。人間の一生は短いものだ。しかし自分は生きてゐると、たしかに感じさせるものがあるわけで、(略) したがつて人生における一大事、人生を人生として私達に確認させるものは、一言でいふなら邂逅であると云つてよい。


/ 2020年 7月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  だが、すべての愛は、人が自分のうちには持っていないなにかである。愛するとは、自分の富を、自分の外に見つけることだ、僕は心の富をいうので、装飾物をさすのではない。自分が愛するのだから、自分を愛することができるわけはない。人は他人に作ってもらった自分の姿を愛するのだ。その点で、もしこの姿が愛すべきものだったら、社会は好ましく、安泰なものとなるだろう。しかしこの姿は自分ではない。どんな対象も事物も自分ではない。僕とは主語だ。属語ではない。飾りつけの余地はない。僕がするもの、それだけが僕のものだ。僕のうちにはなにものも残ってやしない。習慣だとか才能だとかをあてにするのは、つまり他人をあてにすることにほかならぬ。僕のうちにあるものは勇気だけだ、(略)

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  青春時代とは第二の誕生日である。自我の覚醒する日であるが、そのとき 「我」 を誕生せしむる機縁が即ち邂逅である。書物でもいゝ。師匠でも友人でも恋人でもいゝ。誰に出会っつたかといふことが重大だ。


/ 2020年 8月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  成熟してくると、自分についての確信、いろいろな事物に対する軽蔑や無関心な態度が見とおしのよくきいた精神に働きかける。(略) 成り上がり者は、自分のたどってきた道を忘れることができないものだ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  もしこのとき、この人 (あるひは書物) に会はなかつたならば、自分はどうなつてゐたであらうと思ふことがある。そこに生ずるのは謝念である。人生に対する謝念とは邂逅の歓喜である。(略) 邂逅の歓喜あるところに人生の幸福があると私は思つてゐる。私はそれ以外の人生の幸福を信じない。


/ 2020年 8月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  神の職業はむずかしいものではない、まにあうだけの威厳さえ備えていればよいのだ、そして大なり小なりの恩恵を人々に期待させていればよい。神さまを作るのは、礼拝者たちだ。彼らの側に、神さまの気に入るものがなくなったらどうしようという美しい恐怖があれば充分である。気楽さとか率直さとかいうものは、たとえ単なる礼儀に由来したものでも、野心の苦しみをへらす、がまた、楽しみもへらす。これに反して、野心に少々野蛮さが加わると、野心の成功もめざましくなるが、惨憺たる敗北も味わう。(略) 志願者や俳優などの恐怖もそこからくる、とくに俳優に固有な恐怖はみとめられたいと思うところからきている。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  邂逅によつて却て反撥が起ることもあるが、それでもいゝ。納得出来ないものは、たとひ世から尊敬されてゐる権威であつても、納得出来るまで追究したらいゝ。謝念は追従であつてはならない。自分の生命をのばすための苦しい戦ひである。しかもそれを通して謝念をもつならば、そこに人間の真の協和が可能だのではあるまいか。和して而して同ぜずという孔子の言葉がある。(略) 我々は多くの場合、同じて而して和せずである。妥協し外見上仲よくしてゐるが、心の中では反撥したり、ひがんだり嫉妬したりしている。人間の悲しむべき状態だが、そのために私は人生を否定的にみようとは思はない。


/ 2020年 9月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  しかし、そんなものをまったく要求しないのがいちばん事が楽ではないか。要求したら、やがてそれを望むようになるものだ。なにもしないすべを知っていれば、情熱も遠くまで行かぬものだ。生き生きとした欲望だと信じているのも、単に行為が欠けていさえすれば、それは考えるだけで、たちまち消えてしまう。それにしても、最初の行為というものは、どんなにたくさんの欲望を生むだろう。かつて賛成した意見だという唯一の理由で、執拗にその意見を固持する人がよくあるものだ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  人生は悪意にみちたものかもしれないが、どこかに善意はある。どんな人間の裡にも、一片の善意はひそんでゐるものだ。それに邂逅することは喜びであり、たとひさゝやかな喜びであつても、そのことが我々に生き甲斐を感じさせる。人生に対し、あまりに大きなことを望んではならない。自分の努力を忘れて、大きな期待だけをかける虫のよさが我々にはある。虫のよさのために欺かれ、人生に失望する人は多い。


/ 2020年 9月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  が、また あらゆる情熱には野心が存する。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  人生の様々な事に出会ふたびに、美しい夢をもつた人ほど失望するところも大きいであらう。絶望は人生に必ずつきまとふものだ。(略) 何らの努力も考へこともしない人に、絶望は起りえないからだ。絶望は彼が一個の まじめな人間であることの証拠だと云つてもいゝ。


/ 2020年10月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  貪欲家は、事物よりむしろ自分の権利を楽しむ。他人の同意を強いる動かしがたい勝利の確立、これが貪欲家に固有の勝利なのだ。(略) 所有や利用を享楽し、富や力を得る、言ってしまえば、見かけの権利を粧っているので、これが彼らをだます。(略) 見せびらかしたい権利だ、だがじつは彼がいちばん持っていないのが権利なのだ。(略) こういう種類の人間については、これだけ述べれば充分であろう。病気からなおりたかったら、自分が軽蔑されていることを知るがよい、自分が仲間だけの社会を作っていることを知るがよい。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  しかし自己に絶望し、人生に絶望したからと云つて、人生を全面的に否定するのはあまりに個人的ではないかと私は思つてゐる。こゝでさきに述べた邂逅といふ事実を思ひ出して頂きたい。人生は無限にひろく深い。我々の知らないどれほどの多くの真理が、美が、或は人間が、隠れてゐるかわからない。それを放棄してはならぬ。自分中心だけで考へると狭くなるものだ。その狭さからくる人生否定を私は好まないのである。


/ 2020年10月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  人間がだれでも、疲労から、気まぐれから、心配から、苦労から、退屈から、あるいは単なる光線のたわむれからでも、各自かってなごたくを並べているものだ。けわしい目つきだとか、なごやかな目つきだとか、あるいは焦燥の身ぶり、まの悪い微笑などというが、そういう記号くらい人をまどわすものはない。元来が生命というものの効果にすぎぬ、いわば蟻の運動のようなものだ。いったい人間は、他人のことなど心配する暇はまずないもので、相手が、同じ原因から、自分と同じくらいな疑心を当方に対してもいだいているという場合に限って、諸君には相手のことがとやかく気にかかる。この場合に現われる、さまざまな記号の上に孤独と反省とが働く、疑心暗鬼を生ず、ということになる、暗鬼を判じて腹をたてれば、暗鬼は本物になる、そして敵を作る。記号がどういうものであれ、そこには常に分別などはない。人間は、そう奥の深いものではない。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  人生をして人生たらしめる条件として、私は邂逅と謝念を挙げた。それを愛といふ言葉であらはしてみたが、それとともに死といふ事実のあることを忘れてはならない。人間は有限なるものだ。死によつて確実に限定されてゐるものだ。どんな人間もこれから免れることは出来ない。我々は平生健康なときには、死を忘れてゐるが死の方は一刻も我々を忘れてゐない。いついかなるとき、それがふいに襲ひかゝつてくるかわからない。我々が生きるといふことは、さういふ死に対して準備することだとも云へるだらう。邂逅のあるところ、やがて別離がある。愛のあるところ死がある。


/ 2020年11月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  しかし、頭でばかり人を観察していると、いつも人を見破りすぎていることに、やがて気がつくだろう。このよくない観察術は、自分自身が対象になる場合には、かなり危険な無分別に導くことは人の知るところだ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  死の観念は我々の心を浄化してくれるであらう。「死」 を自分の前にはつきり据ゑたとき、はじめて自分のぎりぎりの生がみえてくるのではないか。つまりは自分の本音の存するところ、心からの願ひがみえてくる筈だ。そのときいかに多くの自己欺瞞や他人への思惑によつて自分が生きてゐるかを悟るであらう。「私」 とは 「他人」 の複合物ではないか。あれこれと他人の眼をおそれ、他人の思惑のみ気にして、小心翼々と生きてゐるのだが、人間は、いざ死ぬときはたった一人で死ぬものだ。


/ 2020年11月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  告白には、話しながら作りごとをいう夢の話と同じうそがあるものだ。人を許す真の道は、その動機によってその過失を理解してやるところにはない、むしろその原因によってその過失を理解してやるところにある。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  しかし今ふりかへつてみて、自分の感性を養つてくれたものがあつたとすれば、それは故郷の自然ではなかつたかと思はれる。(略) 自然と風景の影響は思ひの外我々の心に 「文学」 を植ゑつけるのでなからうか。


/ 2020年12月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  だから、僕はおのれをあまりきらいすぎてはいけないと忠告するのだ。人間ぎらいが自己嫌悪までいく例は、一般に考えられているよりはるかに多いのである。僕らは他人を裁こうとすればするほど、自分自身の態度や言葉や行為につまずくものだ。言わなければよかったと後悔するような言葉のなかに、熟考された言葉がいったいどれだけあるか。そんな言葉をあとになって詮議だてするからいけないのだ。詮議だてして自分の心のなかに、ありもしない悪意だとか、よくない性質だとかを探ろうとする、いよいよいけない。諸君をしばるものはなに一つない、諸君の欠点も美点もありはせぬ。要するに、人間は元来親切なものだと信ずる間違いが一つ、意地の悪いものだと信じる間違いが一つ、この二つの誤りはたがいに手を取り合ったものだ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  私は十年毎に、その十年間の自分をかへりみて、精神の自伝といつたものを書くことにしてゐる。さゝやかではあるがそれは私の道標である。同時に、自分の尊敬する人物の人間像を再現することを、主要な仕事としてきたのである。
  したがって私は文芸評論家とみなされてゐるが、それにとらはれてゐるわけではない。宗教評論家と呼ばれることもある。要するに人生いかに生くべきかを問うて、宗教へ赴いたり、文学へ赴いたりしてきたわけである。芸術一般は好きで、文学作品についての批評や作家論も興味がり、自分なりに全力をつくしてやつてきたわけだが、私の裡には、いま述べたごとく、宗教と芸術の二つが互に争ひながら住んでゐるといつていゝのである。


/ 2020年12月15日 /  ページ の トップ /

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