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 ●  アラン (哲学者) のことば

  そして、真の過失は常になにものも信じないところにあるのだ。悪を成就するのは鎖を解かれた精神だが、悪に手をかけるのは鎖につながれた精神だ。だが自由な精神は、行きあたりばったりに酩酊することができる、だが、どうしてもまた酔わずにはいられぬほど酩酊に未練をもたぬものだ。楽しみを分ちながらでも他人を害することができるし、破廉恥に従えばことごとくの人を害する、そうなると節制を破る過失もまた恐ろしいものになることを言い添えておく。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  「空」 とは ヘブライ 語では、「直ちに消ゆるもの」 という意味である。日本ではこれが仏教から来ていることは周知のとおりで、「無常感」 というかたちで日本人には普遍的な感情になっている。それは人生と人間を凝視する一種の リアリズム と云ってもよかろう。対象の実態の推移変転の相を見究めようとするのである。しかしこの叡知は、同時に 「常住真実」 なるもの──即ち 「仏」 においてはじめ叡知である。「常住真実」 なるものが一方に在って、はじめて 「無常迅速」 なるものが語られるのである。


/ 2022年 1月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  尋常な生活の規約に従い、一般の風俗習慣をも受け入れて、そういう機会から遠ざかっているのが賢明だということになる、もっとも精神だけは別の仕事をもっていなければならぬ。(略) 月並みな習慣を賛美するよりむしろ、さようなものを頭から判断しない方がよろしい。そこにこの世の別の一つの純潔があるわけだ、眠りのように美しい純潔が。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  裸形の描写はいかなる意味でも、キリスト 教においては悪魔の誘惑として斥けらるべきものかもしれない。しかしいかなる宗教も、ポエジー を斥けることは出来ないであろう。これはむずかしい問題だ。悪魔の誘惑とすれすれのところに存するからだ。大きく考えるなら宗教と芸術との関係あるいは相剋の問題になる。(略) 宗教の世界は云うまでもなく神の愛を説くところだ。しかし神の愛は人間性の微妙性への明確な透視でなければならない。その微妙性に通ずる道として ポエジー は大切な役割を果すのではなかろうか。たとえ多くの危険を伴っても。宗教感情の生硬化を防ぐために必要なのではないか。


/ 2022年 1月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  心にうかんだところを口に出すという僕らの要求を誤解すまい。この要求は動物の要求だ、衝動にすぎぬ、情熱にすぎぬ。狂人は心にうかんだことをみなしゃべる。(略)僕は気分をすぐ面と向かってぶちまけるおしゃべり熱というものを好まぬ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  生の悦びを圧迫するところに宗教の一つの危険がある。病気や罪悪や死の危機において宗教的覚醒は起るし、また人間の実体はここに求められるであろうが、しかし、「生」 を明るく大らかな喜びに絶えず導こうとしないかぎり、宗教は陰惨なものになる一方であろう。「ソロモンの雅歌」 は、異教的ではあるが、むしろそれ故に旧約の一節として入れたことは、旧約の魅力を一層深からしめたと云えよう。宗教に固有の ストイシズム に対し、華かな一種の ニュアンス をもたらすものと云うべきではなかろうか。「伝道の書」 と併せて、人間及び人生の両面がここにあらわれている。


/ 2022年 2月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  人々の他人に関する意見というものは、断固として人を処罰するほどに断固としたものではない。どんな処罰も苦痛をもたらす。子供というものは感心しないという意見を持ったからといって、子供にそれを白状するやつは困りものだろう、子供のいちばんいいところだけを信じてやるに越したことはあるまい。大人だってそうだ。だれにもいやな思いをさせずに話をしなければならぬという事態に立ち至ったら、自分のことも他人のことも話さず、事物について口をきくことだ、事物をどう判断しようが事物をどうするわけでもない。
 いろいろな効果を経験してみて、教育と礼儀とがこういう思慮に導く。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  まず悪魔の第一の試みは、「汝もし神の子ならば、この石に命じて パン とならしめよ」 である。即ち人間にとっても切実な生活の問題、パン の問題が提出される。いかに信仰を説き、高遠な理想を語っても、今日自分たちが生きるための パン が保証されないかぎり、その一切は無意味ではないか。神の子ならば、この石を変じて パン となし、まず パン を保証せよ、それが出来ないかぎり、汝の信仰、汝の理想とは空悟にすぎないのではないかと悪魔は言う。おそらく万人の心の中ににある 「現実的な」 要求にちがいない。


/ 2022年 2月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  礼儀上隠さねばならぬ判断はいっさいあえて表に現わさずうやむやにしておくというかぎりで、礼儀のうちに道徳がある。したがってさまざまな情熱をもち、これを追求する者には、礼儀は誠実なものだ。要するにうそをつかぬ方法に二種あって、一つは心にうかぶことをみな口にだす方法、これはむろんなんの価値もない、一つは気分しだいの即興というものを過信しない方法。こう考えれば、礼儀正しい会話というのも悪くはない。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  人間が パン だけで生き得るものならば、どのような政治形体、あるいはどのような職業であろうと、パン が保証されるかぎり満足するだろう。口先でどれほど理想的なことを言っても、現実に与えられる パン がないかぎりは何も出来ない筈だ。(略) 飢えているときは、自分の魂と身を売ってでも パン を手に入れようとするだろう。それが現実的な態度である。悪魔のこの叫びには永遠性がある。人間の弱点としてそれは永遠なるものだ。


/ 2022年 3月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  正しい意味での思想、研究を積み、読書によって固められ、あらゆる道を探索し比較し、要するにあらゆる試練に耐えてきた思想にしても、やはりこれを口にしようという要求の一つを義務だと考えてはならぬ。義務ではない、強い喜びだからこそ、僕らは作家のうちあけ話にことを欠かないのだ。うちあけ話をせずにいられないのなら常に作物によるべきだ、記憶に頼ってはゆがんだものになってしまう。しかも、常に読み飛ばすことができないようなすきのないものを書くべきだ。あらゆる ニュアンス を盛り、あらゆる疑惑を盛るべきだ、立派な古典的言語が、これを愛する人々に報酬として与えてくれるような幾多の意味をたたえた調和を盛るべきだ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  悪魔のこの 「現実的」 な叫びに対して、キリスト のまず念頭に浮かんだものは、人間の自由とは何かということではなかっただろうか。パン のために、人間は何ものかの奴隷になることがゆるされるか。奴隷から神の選民へという 「出 エジプト 記」 にみられる モーゼ の苦悩を、このとき キリスト は味わったにちがいない。「人の生くるは パン のみに由るにあらず」 とは、人間の奴隷状態からの人間解放の叫びではなかったか。
  「現実的なるもの」 は、汝に パン を保証するから汝の魂を売れというかもしれない。また、人間にはそれに応ずる永遠の弱点のあることも述べた。キリスト はこれに対して、魂の自由を第一義として、そこに人間の尊厳をおこうとしたことはあきらかである。


/ 2022年 3月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  思うに、正しい精神とは、小さな事物や小さな不幸をたいしたこととは思わぬ、人間のそうぞうしさとか不幸とか阿諛とか軽蔑さえもたいしたこととは考えぬ精神だ、そういうことはまっすぐな精神がどう扱っていいか知らぬものだ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  自由とは何か。パンを得る自由もそのひとつにちがいないが、同時に魂を束縛されないという条件を伴わなければならない。しかし現実的には、パンの保証のあるところ必ず制約がある。それが働くときの義務であるならよい。逆に人々の信仰や思想への制約を伴うとき、人は名目の如何にかかわらず奴隷となる。制約をもたらすものは、国家権力である場合もあり、職業機構であることもある。強制力とはみえない強制力もある。


/ 2022年 4月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  正義は外からの助けをなに一つ借りないで、ただ自己の力で、会ったこともない知らない人間を相手に、作ったり作り直したりしなければならぬ或るものだ。
  力は不正そのものと思われがちだが、じつは力は、正義にとってはあかの他人だと言った方がいいので、狼が不正だとはだれも思わぬ。だが、お話に出てくる理屈を言う狼は不正だ、この狼には他人の承認がほしいからだ、そこに不正が現われる、つまり不正とは精神のある主張だということになる。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  悪魔は、人間を決していきなり堕落させない。「現実的なるもの」 が人間に迫る第一のことは、まず妥協することである。人間は屈伏することを好まない。彼の自尊心はそれをゆるさない。しかも彼を屈伏させる一番いい方法は、屈辱感を与えることなしに屈伏させることだ。そのためには妥協の観念を発達させることが必要だ。妥協とは、自分の理想が完全に受入れられないが、幾分かは受入れられ、それで一応の面目が立つという状態を指すのである。


/ 2022年 4月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  弁護するとは論証することだ。正しいと認めるとは裁くことだ。道理を吟味するので、力を測るこではない。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  キリスト 自身は様々の奇蹟を行っている。しかし自分自身のことについては奇蹟を求めない。これが重要な点だ。エホバ への信仰が自分をどこへ導いてゆくかわからないが、しかもなお自分はその信仰を掲げて進まざるをえない。そこに彼の祈りがあった。「一粒の麦地に落ちて死なずば」 といいう祈りが。


/ 2022年 5月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  正義は、相互の自由な率直な是認がおこなわれる僕らと他人との関係という一つの状態を仮定する、ということを記憶しておこう。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  彼は悪魔たちによって十字架にかけられた。その十字架の下に集まった悪魔たちは口々に彼を嘲笑しながら最後の声を放った。「汝もし神の子ならば己を救え。十字架より降りよ」 これに対する キリスト の答えは、人の子として最も悲痛をきわめたものであった。わが神、わが神、何ぞわれを見捨て給いし」 と叫んで十字架上に息絶えたのである。キリスト は完全に敗北したようにみえる。が、先にも述べた 「一粒の麦地に落ちて死なずば」 という言葉は、これによって成就した。キリスト を殺した当時の ローマ の強大な権力や栄華は今日ことごとく消え去ってしまったが、キリスト の教えは今もなお人々の心に生きているということである。


/ 2022年 5月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  金持になったことで満足しているがいい、正しくなることはあきらめたまえ、と。この場合、諸君を処罰したのは諸君自身の判断だ。ここから次の鉄則が生ずる、だれも承知のものだが、「どんな交換や契約にあっても、相手の立場に自分が立ってみること、しかもできるかぎり自由な見地から、あらゆる君の知識に相談の上、相手の立場に立ったとして、はたして自分はこの交換なり契約なりを是認するかどうかを見きわめること」、人生はこの種のみごとな交換に満ちている、ただ人々はこれに注意を払わぬだけだ。しかし、明らかに富は、常に他人が価値を知らぬ物を買った、あるいは他人の感情や不幸を利用したところに由来する。僕は自分の畳句に還る、金持になっただけで満足しろ、と。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  キリスト の信仰、あるいはその理想精神は、敗北のかたちで最終の勝利を得たと云ってよい。悪魔の悪魔たる所以は、敗北することが出来ないということの裡にある。悪魔は永久に地上に残される、地上において不死なるものである。つまり現実的なるものはいついかなる場合においても地上的であり地衣類のように強烈に生きつづけるものだ。そして常に信仰を疑い、理想精神をためしてみるものなのだ。ところが人生において、試練という言葉がほんとうに生きるのは、この場をおいて他にない。「現実的なるもの」 と妥協し屈伏してゆくのが人間の実情にちがいないが、それだけであるか、それで満足かと問われるなら、誰でも 「否」 と答えるであろう。長いあいだには 「あきらめ」 ということもあるが、生きる意志はつねに何らかの形で理想を求め、信仰を求めている。それは挫折するかもしれない。恐らく挫折の方が多いであろう。しかし挫折のない人生とはどんなものであろうか。敗北の経験のないということはどういうことであろうか。


/ 2022年 6月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  正義とは平等である。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  たいせつなのは試練、すなわち、人生という荒野における修業ということだ。いかに堪えるかが問題なのである。堪えるという言葉は平凡に聞えるかもしれない。しかし堪えるとは祈りを宿した行為である。祈りとは意志の持続である。あるいはその持続の与えられんために祈りがあると云ってもよかろう。

 

/ 2022年 6月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  慈愛とは正義の予感にほかならぬ。完全は正義とは、正義の紀律と基礎とを仮定するにある、つまりすべての人々に自分と同様な見識を備えてほしいと望むところにある。むとんじゃくな男だとか、なんでも信じられるやつだとか、いつも満足しきった人だとか、と他人を苦もなく考えるのは正しくないことはだれでも承知している。正義はまず設けられ、次に仮定され、しまいに是認された平等である。やさしさにも阿諛にも、虚偽の威厳にも、あるいはこれも一つの職務といった態の入念に仕上げられた狂気ざたにもつまずかず、警察官の傲然たる判決のまえでも、みじめな罪人のまえでも、これらを高い平等の観念のもとにながめるのをよしとするあのまなざし、人々の信ずるよりはるかに尋常一般なあのまなざしを知った人が、裁く人とはなにを意味するかを知っている。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  (略) 云わば生の無限定の状態である。そういう意味での楽天主義である。自由を失うことは 「思い煩う」 ことだ。執着が人間を限定し、人間を束縛する。(略) こうした自由の境に達することは人間として至難のことである。不可能と云ってもよかろう。(略) 果して執着を断ち切れるものかどうか。(略) 同時に凡人としての自己のむざんな執着が一層実感されてくる。不可能なことを敢えてすすめているようにみえる。キリスト の ポエジー だ。同感しつつ、実行不可能の前にたじろぐのである。

 

/ 2022年 7月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  どんなに金をためようとしたところで、だれからも生産物を奪うわけではなし、一時交換の手段を壟断するにすぎないからだ。この種の悪は小さい、人間の情熱をどんなに控え目に見積ったところが、人々が情熱に負う悪にはとうてい抵抗できないものだ。不正はそこにはない。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  「空の鳥を見よ」 (略) 一日の労苦という本来 ペシミシズム にみたされている筈のものを、それにとらわれることなくそのまま放下して、「空の鳥」 に帰れと言っているのだ。この一節の妙味は、キリスト が 「心の工夫」 を独得の表現で教えた点にあると私は思う。「心のもち方」、その転換の微妙な方法を告げようとしたものではないか。悪魔の最後のこころみの前に キリスト は十字架上で倒れたが、受難の悲劇の背後に、むしろそれをかえりみないような、空の鳥、野の百合の大らかな イメージ があったように思う。

 

/ 2022年 7月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  無駄に働くことは、共有の財を乱費することにほかならない。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  キリスト の教えは十字架によって完璧なものとなる。それはたしかなことだ。しかしあの流血の悲劇だけを強調するのは正当であろうか。仏教には十字架はない。むしろ空の鳥、野の百合の比喩にみられる自然同化に救いをみる。キリスト の心にもそれのあったことを、マタイ 伝のこの一節は示しているように思われる。それともこれは私の異教徒としての空想であろうか。

 

/ 2022年 8月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  要するに、こういう金持の目じるしのようなそらぞらしい装飾物は、軽蔑されるよりむしろ羨望の目でながめられている、(略) しかし、僕は、虚栄心や人に喜ばれようとする迷いにまっこうから反対する努力には多くを期待しない、むしろ ダイヤモンド や レース をながめて失われた パン を思う聡明なまなざしに期待する。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  「なんじら人を裁くな」──これは、キリスト 教の厳粛な原則である。神の律法である。普通の法律では人間は必ず人間を裁かなければならない。実際に犯罪が起ったとき、刑罰をもって社会の秩序を維持しなければならないのは人間社会の約束である。しかしさらに一歩を進めて、その犯罪の起った根本の理由をたずね、またそれを裁く自分自身の心を反省してみたとき、人間として人間を裁くことがいかに困難であるかは直ちにわかると思う。どのように明確な証拠があっても、犯罪者と裁判官とのあいだには、微妙な心の葛藤は絶えないのではないか。罪と罰することへの懐疑は去らないのではないか。少なくとも裁判が人間性をおびているかぎりは。

 

/ 2022年 8月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  正義の認識が、不正をこらそうとするある怒りなしにおこなわれることはまれだ、あたかも正義などにはまったく盲目的なある種の人間がこの世に存し、そういう連中は地上から追い払わねばならぬといった調子だが、これはむろん子供じみだことだ。あらゆる情熱は不正であり、すべての人間は情熱におぼれる。この正義のための怒りが、あらゆる行為の上で正義の道連れだということもやはり本当ではない。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  モーゼ の十誡によれば、姦淫を犯した者は石をもって撃ち殺さなければならないことに定められてあった。そのことを学者や パリサイ 人が持出して、キリスト がどういう態度をとるか、試みようとしたのである。キリスト はむろん モーゼ の十誡を厳しく守ったが、しかしそれを極度に内面化することによって、一大変革を加えたことが一節によって明らかであろう。それは 「汝のうち罪なきもの」 という一言に出る。罪を外面的なものから内在的なものに転化させ、その点において姦淫の女を捕えた人々に問うたのである。

 

/ 2022年 9月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  常に正しくありたいと願い、認められぬ権利のために戦うすべての暴君の口実を偽善だとは僕は決して考えない。なぜかというと、彼にいちばん嬉しいのは所有ではなく、所有権だからだ。同様に横領者というものも、要するに人々の承知を求めているのだ。彼がどんなに詭計を弄したりうそをついたりしたところが、プラトン がすでに洞察した深い人間真理、つまり隠れた正義がなければ不正も無力だという真理を覆うことはできぬ。野心は一つの理想だ、講和条約でよくわかるように、戦争は常に説得を目的とし、相手の要求をなだめようと骨をおるものだ。だから不屈な義人は強者なのだ。思想の見つけるものは常に思想だ、正義の皆無な思想とはもはや思想ではない、考えるとは認めるということだ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  さきに述べたように 「罪なきもの」 という一語が決定的なのだ。姦淫の罪を犯したものはこの女一人だけではない。あらゆる人間が、外面はともあれ心の中でそれを犯しているのではないかという暗黙の詰問がある。「色情を抱きて女をみるものは、心のうちすでに姦淫したるなり」 という言葉がここに明確に自覚されていたであろう。内在的な意味での罪の意識を、周囲の人々に一瞬にして呼び起したのである。
  聖書は訴えた者らが良心に責められて一人々々立ち去ったことをしるしているが、内在的な罪の自覚のうながしによって、各人は自己の内部に 「偽善者」 を感じたのである。このとき彼をとりまいていたのは群衆だが、群衆を一人々々に分断し、個人に復帰させ、一個の孤独な人間としての反省を一瞬にしてうながしたところに キリスト の権威があったと云ってよかろう。

 

/ 2022年 9月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  世には、気のきいた侫人の嬌態というものがあり、ことのならぬまえに先決すべき判断を、ことがなってからとやかく言っては自由な態度をよそおう。勝ち誇った力が、常に他人を説得しようと試み、しばしばこれに成功したと信じこむのもそのゆえだ。だが、これはむちをふるって定理を証明しようとするにひとしい。自由な承諾と真の平和とを目的とするあらゆる誠実な説得の仕事はすべて、自分に敵対する精神に完全な自由を許すにある、これは、ユークリッド の精神が他の諸精神に話しかけるのと同様なやりかたで、つまり、承諾を盗もうとは思わないのだ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  ところで、キリスト 自身も女に向って、「われも汝を罪せじ」 と言っている。何故か。この場合 キリスト 自身も一個の人間として罪の可能性を自覚し、その自覚によって自ら罪を負うという態度をとったからである。これを キリスト における内在化せる十字架と呼んでいいのではあるないか。(略) 宗教的に言って決定的な点は、その犯人の自発的な悔改にあるにちがいないが、これは至難なことである。そのために現実の法律と裁判が存在するわけだが、しかしさきにも述べたように、それを越えてなお深い宗教的態度のあることを常に念頭におかねばなるまい。根本は人間性に対する信頼の問題ではなかろうか。

 

/ 2022年10月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  権利は論証と証拠との力で発見される、他のものの力に頼るのではない、ただ思想の力によって発見されるのであって、その以外のものに助力を仰ぐのではない。その点、真の反抗は、追跡されようが投獄されようが、死を求められようが自分の意識の命ずるところにしたがって誇りあるいは書くことになる。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  しかし真の怒りとは何か。罪悪感に発した祈りによって支えられたゐ怒りこそ真実であり、純粋である。私は パウロ の叫びの中にそれを見る。同時にこうした怒りが、現代には失われていることに気づかざるをえない。現代ほど怒りの材料にみちているときはない筈なのに、却て真の怒りは見失われているようである。宗教や道徳が、「怒るなかれ」 と教えるのは、人間においてそれはつねに恣意的な憎しみや復讐心に変るからである。個人の嫉妬心や野心から発し、一時の激情となって相手を傷つけるからである。かかる怒りは避けなければならない。しかし真の怒りを忘れてはならぬ。奴隷とは真の怒りを忘れたもののことだ。私がいま述べたような神の怒りとは、人間にとっては大切な倫理であり、美徳だと云ってもよい。

 

/ 2022年10月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  知恵は本来悟性の徳だ、だからと言って、他の道徳がみな知恵という言葉で一括できるというふうに解してはならぬ。知恵だけにたよる道徳には、大胆さとか物をつくり出そうとする熱とかが欠けている、知恵の真反対の悪は、愚かさ、つまり軽率や偏見による過失だ。だから賢明だというにすぎぬ知恵の徳は、要するに過失に対するさまざまな警戒の総括であって、過失から生れぬ真理は、少年時をもたぬ大人のようなものだ。ただ、知恵、あるいは慎重といってもいいが、それがないとなにものも成熟しないだけだ。年をとっても子供のような人がいくらもある。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  真の怒りは罪悪感と祈りによって支えられなければならないと言ったが、このときの祈りとは持続する意志である。それは対象を明確に凝視する能力でなければならない。人間の転落の実相を冷静的確に指摘し弾劾してこそ怒りは美徳でありうる。パウロ の中に私はその純粋な一典型をみたかったのである。純粋という意味は、「我」 の怒りでなく、「信仰」 に由る怒りという意味である。

 

/ 2022年11月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  知恵の最初の果実は仕事だ、といって精神の仕事という意味ではない、そんなものはいったいどんなものだか僕は知らぬ、仕事というのは判断に対して物を準備する手か目の仕事の意味だ。なにもかもはじめから発明したいと思うのはなるほど立派なことだし、予想したり予言したりするあの性急な心の動きにしてもかけがえのないものだが、学校に上がって、本に書いてあること、著者の仮定したこと、結論したことを、わかりきったものでも真実として受け入れるのがやはり賢明だ。だから、物をたくさん写したり、習字をしたり、くりかえし本を読んだりすることはみなよいことで、ことに精神の努力と間違えられる緊張感、常に横道で働いているあの緊張感にとらわれずにやるようにするとよい。学校の勉強はすべて知恵に発するもので、勉強を軽蔑するのもこれにあまり関心をもちすぎるのも同様に危険である。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  「地獄篇」 第三曲の一節で、「怯懦の群」 に対して放たれた ダンテ の言葉だが、彼の深い怒りが背後にあるように思われる。怯懦の群とは何か。対決しなければならないときに、それを放棄した人間のことだ。むろん根本は神への信不信に発しているが、自分の直面したあらゆる問題に対して、それを己の身にしみて考えようとせず、傍観したり回避したりする人間の怠惰を弾劾しているのである。地獄に堕ちたものの中でも、最も侮辱すべき存在として描かれている点に注目したい。

 

/ 2022年11月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  精神が道化者然と芸当を演じたり、賦役労働のようなことに甘んじているとき、じつは人は無秩序の頂上にある。だが、僕が考えているとき、その効果だとか条件だとかに注意を払わぬものだ、ということを見抜いておくべきで、人間には自分は考えていると反省すると同時に充分に考えることはできないものだ。自己修練とか努力とかではなく、むしろ暫時の逃走、あるいはすべての物からの超脱、万事を抛棄して一事に専心する必要もここに生じるので、真の観察家は放心したように見えるといわれるゆえんだ。要するに、ラ・ブリュイエール が言ったように、なにごとにも拘泥せずなにものにも駆られない、ということが必要だ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  怯懦の群に堕さないための三つの原則を、私は人生の根本問題として考えてみたい。
  第一は、困難の設定である。たとえば神を肯定するか否定するかといった問題は、言うまでもなく短時間で決することは出来ない。一生かかっても解決することの出来ないような永続性あるテーマである。人生を人生として確立させるためには、必ずこうした性質の課題を一つでいいから背負うことが必要だ。私はそれを困難の設定と呼ぶ。怯懦とはこうした困難の回避である。「神に逆ひしにもあらず、また忠なりしにもあらず」 と言っているのがそれである。

 

/ 2022年12月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  こういう気の短い人は、自分で指揮をとって考えないような人は自由な人とはいわれないと断ずるが、そう断ずる人こそ、おのれの要求に従って考えている以上、自由な人とはいえぬと僕なら言いたい。だから、自分とはなにものかと探索してはならぬ、そんなものはみな対象であって君ではないのだから。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  第二は拒絶の精神である。拒絶の精神とは、肯定するにしても否定するにしても、そこで自己に対しきびしくあることである。様々の問題に対して、我々はどうしても決断しなければならないときがある。しかも人間の決断にはさまざまな欠陥が伴う。ともすれば独断と化しやすい。そうかと言って、あれもこれもわかると言った風に、不決断のまま動揺していいだろうか。たとえ動揺はやむをえないにしても、そのために八方美人的に、事を曖昧にしておいていいだろうか。決断というものの、悲しいほどのきびしさに思いを致さなければならぬ。
  人生を生きてゆく上には、一つのもののために他のものを拒絶する精神が必要である。拒絶のないところに精神の形成はありえない。

 

/ 2022年12月15日 /  ページ の トップ /
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