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 ●  アラン (哲学者) のことば

  謙遜は、自分になにごとも約束しない、つまり自分を他人からかれこれと期待される思考器械と考えないというところに成立する。(略) 真の思想家は、むしろ試練のうちに睡眠がくるようにあるいは喜悦と快活とが得られるようにと沈黙して祈念する、これは、自分には自分自身が必要だと思ったときに、ソクラテス がみごとにやってみせたところだ。たとえば、手をこまぬいて待っているより仕方がないのがれようのない危険に面接する場合のように、僕らの力や企図を超越した自然の巨大な光景を眼前にするということも、真の思索には有益なことだ。そういうのが試練というものの意味だ。諸君の孤独、諸君の僧院は、人々のまっただなかにあるものであってほしい。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  第三は、未完成という自覚である。様々な困難を設定し、そこで決断し、しかもそれで完璧であるかというと、人間の行動としてそういうことは絶対にありえない。ある場合には決断し拒絶するが、しかしそこで自己を固定化したとき、決断も拒絶もその生命を失うであろう。自分のこころみていることの一切は、永久に未完成だという自覚を伴わなければならない。(略) 怯懦の群の特徴は、あたりさわりのない生存をつづけるところにある。だから何びとにも喜ばれず、憎まれもしない。「我らも彼らのことを語らず、ただ見て過ぎよ」 と言っているのがそれである。完全に無視され黙殺される以上の悲劇があるだろうか。


/ 2023年 1月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  デカルト は、僕らが僕らの自由意志についてもっている情操を寛大とよぼうとしたが、これは非常にたくみな名づけかただ。だが魂の立派さとはただなにか立派なものを所有しているというところにはない、すべての物の審判者であり、自然、すべての物の征服者である、さらにまた、人間の弱点についても正確な尺度を持ち、これに対して寛にも酷にも偏することなく、最も深い意味で正しい態度をとるものでなければならぬ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  困難の設定、決断あるいは拒絶の精神、未完成の自覚、この三つが人生を形成する基本ではないかと私は思っている。この三つのものを回避したところに ダンテ のいう怯懦の群が生ずるのではないか。しかし考えてみると、我々の心の中にはこうした怯懦の状態が常に起りやすい。「地獄篇」 のこの一篇を、ただ特殊な人間の落ちる地獄とはみずに、すべての人間に普遍的な、内在する悪として正視すべきであろう。「地獄」 に堕ちた人々とは、実は我々自身である。その中でも最も侮蔑された存在である 「怯懦の群」 を、自分もそのひとりと考えてみることだ。やりきれないほどつらいことだが、まさにその故に ダンテ は最も激しくこれを撃ったのではなかろうか。「神にも神の敵にも喜ばれない卑劣者の群」 とは、いつの世にも地衣類のように執拗に生きているものである。


/ 2023年 1月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  多くのことを大目に見なくてはならぬとはだれでもよく知っている。情熱のゆえに許せなくなったり、他人の言葉もゆだんも意図もことごとく勘定して見のがせない人は意地の悪い人だ、不幸な人だ。だが、許すとはどういうことかをよく知らねばならぬ。もう以後しないとか、悪かったとか、要するに意見が変わったところを見せてくれなければ、寛大になれぬ人がある。僕に言わせるとそういう人は物を値切るようなつまらぬところがあるのだが、とくに、あらゆる衝動に思想を仮定する性癖、しばしば言うことだが、精神を獣の手に渡す性癖があるのだ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  (重複削除)


/ 2023年 2月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  告白というものも、立派といえば立派でないこともないが、どうも自分の怒りに準じて自分を考えを整理し、告白に重みをつけようと思いたがるものだ。いったい自分の気分を大事がるというのがそもそもつまらぬことだ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  (略) キリスト の殆ど沈黙のうちに十字架にのぼったのに対し、ソクラテス は長時間にわたり堂々と弁論を展開し、相手を論破しなければやまないといった冷徹な態度をとっていることである。しかもそこには受難者らしい凄惨な面影はすこしもない。弟子を教えさとすというような静かな調子すらある。死を前にしてのこの静けさ、そこに宿る真理のためへの情熱の流露は実に見事である。


/ 2023年 2月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  スピノザ があの無類な正確な表現でこう言う、危惧の念から食うものも食わずにいるくらいなら、食べたいだけ食べた方がよほど病気にかからぬ近道だ、と。僕も彼にならって言おう、僕らの悪徳をいやすものは僕らの道徳以外にはない、と。魂の立派さがめざすのはそこだ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  死刑を宣告されたとき彼 (ソクラテス) は七十歳の高齢に達していて、一種の悟りを得ていたのであろうことは明らかだが、ここでも東洋的悟りのもつ沈黙はない。徹頭徹尾、明晰な頭脳を以て死の何であるかを弁明している。彼の信仰は最後まで透徹した証明力をもっていたことに注目しよう。


/ 2023年 3月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  精神の諸作品には、常に多くの弱点があるものだ。幸福そうな表情にも、偶然がたくさんまじっている。つまらぬ精神はそういうところばかり目をつける、つまらぬものはやりすごし、天才と自由との光を待つということをしない。(略) だが、名著傑作から最良部分を抜粋し、そればかりを学ぼうと、くりかえし読みたがったという、やや粗暴だが、見識あるこの人物が行ったほど遠方まではおそらく僕は行くまい。反対に、まじめな音楽家のいわゆる整調 (プレパラシオン) とか音程 (ランプリサーシュ) とかいうものが、遠くへ行かないうちにおもしろくなってしまうだろう、そういうもののなかに、僕は一種の楽しみを感ずるし、そういうものが平気で受け入れられる瞑想の立派さというものもあるのだから。思想がまだ昏睡のうちにありながら、意識界に出ようとして、単純な形式あるいは全然それに無縁の事物をすでに取り扱っているという消息を知っている者は、文体とはどういうものであるかが、ややわかっている人だ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  それは言うまでもなく彼 (= ソクラテス) の信仰と知恵に発しているが、私がここになによりも痛感するのは、精神の豊かな活動の連続状態である。活動という概念が根本にあることである。死が深い眠りであり、熟睡の幸福として考えられるほどにも旺盛な活動を ソクラテス がつづけたことを意味しているのではないか。逞しい知的実践者によって 「想像された死」 というものがここにある。また熟睡でない場合は、彼世に遍歴して諸々の半神や賢者に逢う楽しみがある。そういう楽しみとして死が考えられている。云わば知的遍歴の連続としての死というものがここにある。
  即ち晩年の ソクラテス にとっては、死は日常化されていたと云ってもよかろう。生における熟睡と知的遍歴と、それにひとしいものとして、あるいはその延長として死が想像されている。陰惨な影は微塵もなく、むろん恐怖観念もない。改まって悟った風もなく、つまり私のいう 「活動」──その充実現象として死が考えられている。これは驚嘆すべきことである。


/ 2023年 3月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  諸君をここに生活させよそには生活させない自然の強制だ、諸君をこの町に生れさせた、あるいはこの小さな学校に閉じこめた自然の強制である。連帯関係とはこの自然のきずなだ。意気のあった仲間同士の間のきずなではない。無遠慮な和解しがたい敵同士の間のきずなだ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  キリスト も ソクラテス も罪あるものとして死刑を宣告されたわけだが、この二人の死のあいだには極めて興味深い差異がある。キリスト の死はいうまでもなく十字架である。万人の犯した罪を自分で担って、云わば万人の罪の贖主という形で十字架の上で死んだ。ソクラテス の場合にはこうした意味での罪悪感はない。人間精神の豊かな活動、知恵の純粋性、その積極性の極点としての 「死」 である。むろん根柢には神への信仰があるが、その信仰はすでにくりかえし述べたように知的活動の持続と切り離しては考えられないものである。


/ 2023年 4月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  きずなが堅ければ、そこに生れる友情はいよいよ強く長続きのするものとなる、因人とか学生とか兵士とかの間に生れる友情のように。だが、なぜか。もし僕らが自由な身なら、まず拒絶せざるをえないものを、強制が受諾させるからだ。そしておたがいの親切は、たとえ強制された親切でも、明らかないろいろの記号によってまた新たに親切を目ざます。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  あわせて、東洋の思想家には受難がないということも、私の注目をひく。受難ということばの内容にもよるし、またまったく無かったとも云えないが、たとえば釈迦にしても孔子にしても、長命を保って自然死をとげている。死刑という異常死はここにないという意味で、私は受難がないと言うのだが、自然へ寂滅してゆくすがたと、十字架や毒杯といった異常なあかたちで生命が断たれるのと、死におけるこの二様の相の裡に、東洋精神と西洋精神の特徴を考えることも出来るのではなかろうか。

 

/ 2023年 4月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  信義はどうあっても愛したいというところに成立する。ここで順序を転倒しないように注意しなくてはならぬ。愛着の力で愛着が信義あるものとなるのではない、愛着を強くするのが信義の力なのだ。だから、必然の僕らを信義ある人にする事実の強制というものに、あまり不平を言わぬようにもしなければならぬ。ただ、強制された信義はあまり目先がきかぬものだし、みずから欲するものを生む力も弱いし、要するにずるずると満足してしまうものだということは言っておく。持っている愛を、手をつくして利用しなければならぬ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  エロス は、「産む」 という観念を無視して存在しない。プラトン の饗宴に出てくる恋愛の神であるが、まず注目すべき点は、プラトン はここで恋愛の基礎として、人間は死ぬべきものであるという大前提を置いていることである。人間は死ぬべきものであるが故に不死性への憧れをもつ。恋愛とはこの不死性への憧れだというのである。ここに プラトン の恋愛論の核心がある。したがって不死のための生の連続として 「産む」 という行為が中心になるのは当然である。

 

/ 2023年 5月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  恐慌や熱狂の動き、あの人間の海の高鳴る力、人々はおよそ人間のいるところならどこでもこの力に従う。この力が母国にうず巻くとき、いや自家の戸口に押しよせるとき、僕らはもういやも応もない。(略) 恥辱感とはこの強制された判断と他の判断との間の戦いである。たとえ、この群集の動きに負けないとしても、僕は大きな怒りにとらわれる。こういう群集のいろいろな動きは、常に群集の狂気を僕に与えざるを得ぬ。そうでなければ群集の動きに挑戦する狂気を僕に与えざるをえない。僕はとらわれの身だったのだ。そしていま怒りに身をふるわしている。こう考えてくれば、社会集団というものは痙攣的な狂信者たちの集団だけということになる。そして、事実、あらゆる社会は結局そういうものだ、戦争をみればよくわかる。こうして情熱が倍加すれば別個ができあがる。どうしてレヴィヤタンとして生活したらよいか。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  ここに青春というものが、明確なすがたでとらえられている。何よりもまずそれは 「産む」 状態である。青春の魂と肉体とが満ちあふれている状態、あるいは一つの陣痛と云ってもいいであろう。しかし産むための生殖慾は、醜いものにおいては起こらない。必ず美においてでなければならない。エロス とは美においての生殖、妊娠への媒介者である。この意味で恋愛の目的は産むことであり、しかもそれは人間の不死性につながるものとして、神聖視されているわけである。健全な古典的恋愛観がここにある。またこれが プラトニックラブ と云われるものの本来の姿である。後に キリスト の影響を受けた プラトニック・ラブ のように、肉体と魂とは分離されていない。

 

/ 2023年 5月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  礼儀は、ある思想なり意図なりを隠すところに成り立つより、むしろわれ知らずみずから願わぬ意味を相手に感じさす身ぶりや表情を整頓するところに成立していることがわかる。自分の言行を危ぶんだり筋肉の自然な反応をおさえようとしたりすることは、礼儀としては甚だ拙劣なものをもたらすということも注意しなければならぬ、なぜかというと、そういうことは身体がこわばるとか顔が赤くなるとかいうさまざまな徴候となって現われるもので、だれでもなにか隠しているなと感づく、要するに明瞭な侮辱と同じように相手の感情をかきたてる始末になるからだ。だから礼儀とは、おのれの欲するところ以外は相手に知らさぬようにする表現の体操のようなものだ。礼儀は言語と同様に国々によって異なるが、平静と適度とはあらゆる国々の礼儀である。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  エロス は成熟した肉体に子供を産ましめるだけではない。成熟した魂に芸術や哲学や道徳をも産ましめる。この双方を同時的に促す力である。そして、特に魂の妊娠が重くみられ、恋愛論の核心がここにおかれている点に理想主義哲学者としての プラトン の面目がうかがわれる。恋愛は肉体を動機として起るが、同時に高度の精神現象として語られている。

 

/ 2023年 6月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  礼儀は親切ではないことを注意しておく。礼儀を欠かないで、意地悪くもなれば不愉快なこともできる。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  エロス の役割はここに全的に語られている。死ぬべき人間の不死性への憧れである故に、それは 「創造」 という高度の芸術的行為となる。恋愛とは全人格的な創造行為だということが、これによって明らかであろう。同じ 「饗宴」 の中で、アガトン が、「エロス に触れる者は、『たとひそれまで芸術心なくとも』(エウリピデス の断章)、人はみな作家になる」 と言っている。むろん芸術だけではない、恋愛は宗教へ、道徳へ、哲学への入門であり、美を通して相互に為される教育作用である。

 

/ 2023年 6月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  だが知らねばならぬところに通暁する人はいかにもまれなもので、そんなことに努力しているうちに新しいことはなにも言わぬという始末になる。なるほど言葉がいよいよ簡明になるが、だれでも同じことをしゃべるようにもなり、退屈がやってくる。この退屈をささえる強い野心とか恋愛の情熱のおかげで、人々はさまざまな表現に力をこらすようになり、いきおい声の規則的な抑揚とか言葉の順序だとかを重んずる話し方わからせ方が生れてくる。音楽にも同じ性質が現われる、まず安定感を与えるありきたりの規則的な転調を使用すると同時に、規則を破らぬ程度の不意打をくわして、聴衆をたのします。この点、詩は、音楽に似ている。(略) そうなると、感情の動きは、肉体が着物のひだから判じられるように、節奏による規律的な変化から判じられる。情熱は判じることによって育つものだから、礼儀正しい社会の快楽は、感動を情熱に変形させる傾向がある。しかしことわざにいうように、病気より薬の方がこわい。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  古来古代 ギリシャ においては、道を求むるものはまず友情を求めた。友情とは肉体と魂が妊娠状態にあるものが、美しく気高く素性のいい魂にめぐりあって、そこでの結合を自覚することである。人生における最も重要なことはこの種の邂逅である。そこに師弟に交りも結ばれるが、古代 ギリシャ においてはその場合でも友情的要素は極めて濃い。
  教えるものと教えられるものとは、共に道を求める者として友情の裡に対話を試み、対話を通して魂の悩み──陣痛状態を明らかにし、それによって真理を産ましめるように導いたのである。つまり ソクラテス は妊娠せる魂の産婆役を勤めた最高の哲人であった。

 

/ 2023年 7月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  二人がどんなに仲がよくても、なんらかの礼儀が強制されていなければ、平和は維持できないということを理解すれば、はっきりわかることだ。礼儀を強制されることは必要だ、思うことをみな言おうとして人間は思うこと以上をしゃべるものだから。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  エロス は愛の神だが、その 「愛」 は 「考える」 という行為とひとつだという点が大切であろう。考えることによって 「産む」 のである。だからすべての思索の根柢には エロティシズム がある。また エロティシズム を伴わない思索は不毛だと云えるだろう。学者と呼ばれる人々を判断するときの、これは一つの基準になる。何ものをも産ましめない学者というものがある。

 

/ 2023年 7月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  結婚とは、成立した瞬間からおこなうべきあることであり、成就したあることではない。人は選んでもらった相手であろうとみずから選んだ相手であろうと、はじめの愛があにも明らかにしてはくれない以上、知らない人間とこの上なく親密な関係で一生をすごさねばならぬのに変わりはない。だから手をこまぬいているわけにはいかぬ、おこなわねばならぬ、性格を支配するのを目的とするあの性格の観察というものを僕は信用しない。(略) そういう観察は絵空ごとにすぎないのだが、不幸にして観察する人や、観察される人の法令によって現物となるのだ。「彼はああいう男」 という不吉な法令に 「いかにも自分はそういう男だ」 と答える。だがこんなことはうそなのだ。愛すべき性質の芽ばえはいつもそこにあるものだし、なごやかな気分はあらゆる装いをして人を楽しますものだ。もし真の愛が最もいいものを見抜く術でなければ、真の愛とはいったいなんであろうか。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  モンテーニュ の 「随想録」 (第一巻) の中で、私は 「哲学する目的は死に方を学ぶにあること」 という一章を最も愛読してきた。人は死について語るとき、必ず渋面をつくって深刻になるか、悲哀の眼差しを装うものだが、モンテーニュ はむしろ愉快そうに、時には意地わるげな微笑を浮べて死を語っている。それは彼にとっては快楽の真の味いを語ることと同じであった。

 

/ 2023年 8月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  芸術の場合でも、喜びがまずやってくる、だが彫刻家や画家や音楽家になるには喜びだけでは足りぬ、仕事の力がいる、なんでも美しいものはむずかしい、とことわざにもいうが、幸福になるのも一つの仕事だ、夫婦でも同じことだ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  「キケロ は、『哲学するとは死に備ふることにほかならぬ』 と云うた。けだし、勉学と静観とは、いはば、われらの霊魂 (たましひ) をわれらの外部に引出し、之を肉体と別にはたらかすことで、結局死のけいこ・真似事みたいなものだからである」 こう語りはじめながら、結局世の中のあらゆる知恵も哲理も死を恐れないよう、我々に教えるという一点に帰着するだろうと言っている。換言すれば、それはいかにして生を楽しむかということと同義である。人間はみな幸福に、楽しく暮すことを望んでいる。死によって限定されてはいるが、その故にこそ、死の姿をはっきりみることは、快楽の真の味を知る上に大切である。しかし快楽と云っても、いわゆる普通の意味での快楽ではない。彼がここで強調しているのは、最上の快楽としての 「徳」 である。

 

/ 2023年 8月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  困難な仕事は忠実を要求する。天才の条件はいろいろあるが、自分自分に対する誓言をもち、そしてこれを守るということが必須の一条件だ。(略) だが、誓言は予言ではない、誓言するとは自分は欲しまたおこなうということを意味する。それについて 「愛を約束することはできぬ」 と人はいう、それは最初の感激を経験したときから間違いのないことだ、だからだれも感激などを約束したりしてはならないものだが、完全な愛とか幸福とかは、誓うことができるばかりでなく、誓わねばならぬものだ、音楽を学ぶ場合と同じことである。またよく腹に入れておかねばならぬことだが、みずからおのれの誓言にしばられると考えはならぬ、むしろ運命が誓言にしばられて馴らされるのだ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  「徳」 を快楽の名によって呼んでいるところに、モンテーニュ の特徴がある。彼はそれに伴う苦業意識をみとめない。「徳」 は求めらるべきものだが、ここで 「求める」 といふこと自体が快楽であって、求道者のもつあのしかめ面に彼は反発し、からかっている。およそあらゆる哲学も、快楽を目的としなかったら、一体どこに価値があるのか。哲学の目的が死に方を学ぶことにあるということは、直ちに快楽の何であるかを知ることでなければならない。我々は 「死」 に対し、すぐ 「恐怖」 という観念を抱くが、モンテーニュ は 「死」 に対して 「快楽」 という観念を直接的にむすびつけている。あるいは快楽の中に死の姿をつねに見定めることをすすめる。

 

/ 2023年 9月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  誓言は決して自由意志を束縛するものではない、それどころか自由意志を使用するようにうながすものだ。だれでも、なにかであると誓言するのではなく、なにかをする、なにかを望むと誓うからだ。すべての誓言は情熱に負けまいための誓言だのだ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  「何処で死が我等を待ってゐるかわからない。だから到る処で之を待たうではないか。死の準備は、自由の準備である。死を学びえたものは、屈従を忘れる。死の道(さとり)は、あらゆる隷属と拘束とから我等を解放する」
  私の心ひかれるのは、モンテーニュ は死を語ってそこにいささかも厭世的なひびきのないことである。むしろ愉快そうに、死を直面し、死に呼びかけ、死をためし、死をくすぐっているようにさえみえる。愛と戯れるように死と戯れている。これこそまさに 「自由人」 というものではなかろうか。しかも悟ったような顔は全然ない。軽やかに、時には陽気に死を語っている。興味をもって彼は死を語っている。

 

/ 2023年 9月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  礼拝の原則はいろいろな衝動を訓練して情熱や感動を静めるにある。祈りの態度とは、まさしく烈しい衝動はいっさい許さぬようにする態度だ。肺を充分に安静にして、あわせて心臓も安静に保とうとする態度だ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  すべての宗教は、死に対して深刻な表情を与えた。人間の恐怖の中で決定的なのは死の恐怖にちがいない。それからまぬかれようとして宗教は祈りを教えた。ところが、モンテーニュ は死に対し、快楽的な表情さえ与えている。彼は何ものにも祈っていない。死を克服するために神を必要としなかった。これは彼の最大の特徴と云っていいだろう。(略) 観念的なもの、意識過剰、内省癖、これらすべては モンテーニュ にとって無縁である。死に対して憧れるわけでもなく、恐れるわけでもなく、人生に遊ぶように自然に遊んでいるといった風だ。

 

/ 2023年10月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  困難な事態に立ち至って、じっと待っていなければならぬようなとき、いちばんいいのはなにも考えないことだ、そういうとき礼拝は人をいら立てたり疑心をおこさせたりするあの忠告などという術はいっさい使わず、なにも考えないようにたくみに人を導いてくれる。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  人生の各時期において自分の年齢にふさわしいような行動を試み、決して背のびしない。人間が自然として生きるとは、人生の春夏秋冬、つまりその四季を的確に生きるということだ。我々の多くは、自分の四季をあまりに人口化しやすい。青年時代に老成ぶろうとし、壮年時代には静かな成熟をまたずに投機心を起す。老年になると急に執着心が増し死を恐れたりする。様々なかたちで自分に人工を加える。宗教や道徳によって自己を鋳型にはめこみ、歪めてしまうこともある。

 

/ 2023年10月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  適当な体操の力で一瞬にして魂を清めうる、(略) 実行が信仰に人を導く。やってみてうまくいかない人には、僕はやりかたが悪いのだと言ってやる、つまりただ単純に実行しないで信仰しようとばかり念ずるからだ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  宗教人に対して、モンテーニュ は典型的な自然人である。そこには祈りもなく苦行意識もない。罪悪感もない。悠々として人生を楽しむ人がいる。「私は人生の若草を見、花を見、果実を見て来た。そして今や私は、その冬枯の様を見ている。幸福なるかな。何となればそれは自然であるからだ」(「随想録」 第三巻二章) 自己の生涯に向って幸福なるかなと言いうる人はまことに少い。死もまた彼にとって自然である。生きる時に我々は様々な習慣に従うが、モンテーニュ は同様に死ぬことに対してもこれを習慣化しようとした。死をあたりまえの習慣とする人はまことに少いものである。

 

/ 2023年11月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  僕らの習慣は僕らしだいというよりもはるかに物に依存している。(略) 僕らの思想を暗示するのは物だというが、それではとても言い足りないのだ、僕らの対象こと僕らの思想なのだ。だがとくに人間の手が扱うものが、順序や相称やさまざまな類似や反復によって、僕らの思想を混沌のうちから引き上げてくれる、そして思想は認識するとか計算するとかいう思想固有の機能に導かれる。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  宗教について語るということは、それを信じない人に対して語るということである。少なくとも無信仰の状態、あるいは信仰の危機の状態が念頭になければ語ることの張合いはない筈だ。そのとき神の教を上から説くのではなく、逆に人間の実態を明確に分析して、それがいかに不安定で不安にみちたものであるかを示し、その具体的な姿から逆に神の方へ赴かざるをえないように仕向けることが大切ではなかろうか。云わば人間の悲惨な状態への明晰性が前提である。信仰とはそもそもこうした明晰性を与えるものでなければならない。人間の悲惨へのそれは開眼である。この点で私に多くを教えてくれたのは パスカル の 「瞑想録」 であった。

 

/ 2023年11月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  いきおい寺院にある人の心は神をおそれるよりむしろ神を求めるように働く、しかも、夢想はやはり常に人間の土地にあらゆる人間の秩序に連れもどされる。人間となった、という言葉の意味は明瞭である。並べられたさまざまな絵は精神を同じ道に連れもどす、外的な神をたのまず人間の希望をかたどるのにいかにも適切な聖母の絵はことにそうだ。こういう筋道の通った知恵と外的ないろいろな怪物との対象が効果をいっそう大きくする。したがって寺院にはいってくる人は安心と救いとを感ぜざるをえない。だが同時にいかめしい礼儀が強制される。声を出しても身動きをしてもその音は四方に反響し、見上げ見下す目の動きとともに丸天井にはねかえり石畳の上に落ちてくる、ただでさえびくびくしている人をおどかす。要するに寺院ではなにものも気まぐれにはできていないのである。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  人間と人間との真の結合は可能だろうか。結合するための 「理解」 とは、表面上の一種の契約かもしれない。何びとも真の理解に達することは出来ず、理解しえたという錯覚の上に安心しているのかもしれない。「理解」 という唯ひとつの言葉をとりあげても、人間の存在はこのように不安である。大切なのはそれを自覚することだ。あるいは信仰とはこうした不安を自覚させるものでなければならない。無自覚に過すということは人間として一つの悲惨ではなかろうか。

 

/ 2023年12月 1日 /  ページ の トップ /
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