2001年 3月31日 作成 アフォリズムを読む >> 目次 (作成日順)
2006年 6月 1日 補遺  



 THさん、私は、「問わず語り」 を、あなたに捧げようと思います (あなたが、誰であるか、ということは、誰にもわからないでしょう)。大学生の頃、講義が終わってから、あなたとは、毎日のように、喫茶店にて、他愛もない世間話をしゃべ りながら、あるいは、ときどき、「人生論」 を真摯に語りあったりして、「学生」 という 「人生の猶予期間」 を、お互いに愉しんでいましたね。

 さて、私は、きょう、あなたに 「読書」 についてお話しようと思います。
 あなたは、「(仕事が) 忙しくて、なかなか、読書ができない」 と嘆いていましたが、社会人になってからの読書量というのは、ほとんどない、というのが、「健全な」 日常生活である、と私は思います。社会人として、一日のほとんどを仕事と通勤に費やして、それ以外にも、つきあいや家事や趣味があるので、読書のための余裕などあろうはずがないというのが 「健全な」 社会人だと思います。専門の仕事に全身全霊で打ち込み、2つの趣味を (仕事と同じ程度に) 一生懸命にやれば、そして、家族や友人たちといっしょに愉しく過ごす配慮をこまめにしていれば、それが満ち足りた人生ではないでしょうか。

 仮に、 社会人が、一ヶ月に3冊読むとして、(退職するまでの) 40年間では、1,400冊程度が読むことのできる限界ではないでしょうか。しかも、歳をとるにつれて、新しい本を手に取ることが少なくなって、若い頃に読んだ好きだった本を読み返すことが多くなるでしょうから、生涯のなかで 1,000冊も読んだら 「読書子」 に値するでしょう。
 「良書」 とは、読む人々が 「 思想」 を借りることができ、しかも、「問い」 を借りることができる書物である、と私は思います。言い換えれば、我々の 「透徹した思考力」 を養うことができる書物が 「良書」 だ、と思います。そういう本を一ヶ月に3冊も読めば、極めて疲労感が遺るでしょう(だから、本を 「読み過ぎた」 人々の顔には、陰湿な疲労感が漂っているのでしょうね)。

 もし、そういう本を読む余裕がないのなら--あなたが言うように 「(仕事が) 忙しくて、なかなか、読書ができない」 なら--「格言集」 を常に携帯して拾い読みしたらどうでしょう。そういう本のなかにアフォリズムの形として収められている文章は、いわば、「なぞなぞ」 のような 「問い」 なので、一つの文章を読んだら、(本を閉じて) 考える、という読みかたをしたらどうでしょう。以下の2冊をお薦めします。

  (1)芥川龍之介、「侏儒の言葉」
  (2)亀井勝一郎、「思想の花びら」

 それらに記述されている断章を、自らの立っている所から、自らの体得したやりかた (仕事や趣味のなかで自然に体得したやりかた) を使って考えてみたらどうでしょう。下手な多読より意味がある。□

 


[ 補筆 ]

 アフォリズム集として、以下の本もお薦めします。

 ● ことばの日めくり、トルストイ 著、小沼文彦 編訳、女子パウロ会

 ● 定義集、アラン 著、森 有正 訳、みすず書房

 ● 定義集、ちくま哲学の森 別巻、筑摩書房

 ● 反哲学的断章、ヴィトゲンシュタイン 著、丘沢静也 訳、青土社

 ● 修訂 道元の言葉、大久保道舟 編、誠信書房

 ● 有島武郎 愛の言葉、高山辰三 編、春洋社

 ● 数学名言集、ヴェルチェンコ 編、松野 武・山崎 昇 訳、大竹出版

 ● 世界教養全集 2、平凡社 [ 以下が収録されている。]

    - M. モンテーニュ、随想録
    - ラ・ロシュフコー、箴言と省察
    - B. パスカル、パンセ
    - サント・ブーヴ、覚書と随想

 



[ 補遺 ] (2006年 6月 1日)

 私は、アフォリズム を読むのが好きです。アフォリズム は主張のみを提示する短い文章なので、「その主張が妥当である」 と説き明かす証明が省かれているので、その主張を鵜呑みにはできないのですが、逆に言えば、その主張を妥当であるという証明は読み手のほうに委ねられています。したがって、上質な アフォリズム は、読み手のほうに思考を迫ってきます。

 上質な アフォリズム は、対象を一撃で撃ち抜いているので、往々にして、記述の見事さに驚嘆して 「そうなんだよなあ」 と納得して終わりになってしまう危険性があります。アフォリズム を記した人物が歴史に遺る天才であれば、われわれの思考を超えているので、ただただ、賛嘆するしかないという状態に陥るのですが、そういう アフォリズム を読んだら、押し倒されないように、一寸、踏み止まって、アフォリズム を起点にして、みずからの思考を膨らますようにしたい。アフォリズム を読んで単なる 「ウケウリ」 にしないためにも。
 「表現は芸術のすべてである」 (スタンダール) という アフォリズム を読んだ若者が、それをそのままに、「ウケウリ」 したら--しかも、もし、その若者が芸術家でないのであれば--、その言いぐさを聞いた人は苦笑するでしょうね。「あんたに言われたかあないよ」 と。

 アフォリズム は、喩えれば、濃縮された原液です。したがって、その原液を飲みやすいように水を足さなければならないのですが、その水が読み手の思考です。
 あるいは、アフォリズム は、喩えれば、読み手の人生を映す鏡です。どのような アフォリズム に感応して、どのような意見を持ったかは、年齢を重ねるにつれて、変移します。私は、大学生の頃に読んだ アフォリズム 集を再読したときに--大学生の頃に読んだとき、感応した文に対して、鉛筆で下線を引いていたのですが--、当時、感応しなかった文 (下線を記していない文) に対して、改めて、賛嘆して思考を促されたことも、多々、経験しました。

 専門的な仕事に従事していると、読書は、どうしても、専門書が主体になって、専門以外の書物を読む余裕が少なくなってしまうのですが、そして、ときには、仕事のなかでしか通用しない論理を普段の生活のなかに強引に適用してしまう頑迷さに陥ることもあるので、「しなやかな思考」 を育てるためにも、様々な アフォリズム を読んでみることは、みずからの思考にとって役立つのではないでしょうか。




  << もどる HOME すすむ >>
  佐藤正美の問わず語り