2002年 7月15日 作成 詩集を読む >> 目次 (作成日順)
2007年 9月 1日 補遺  


 
 TH さん、きょうは、「詩集」 について、お話しましょう。

 小生は 49歳である。その年齢の 「社会人」 が 「詩集」 を読んでいるとなれば、「なにをいまさら、青臭い (書生ぽい)」 と嘲られるか、あるいは、50歳になる男の顔のなかに 「にきび」 が吹き出た 「ぬるりとした」 不気味さを感じられるかもしれない (笑)。まず、以下の詩を読んでみてほしい。

    石もて蛇を殺すごとく
    一つの輪廻を断絶して
    意志なき寂寥を踏み切れかし。

 この詩が萩原朔太郎の作である、と知っている人は、以下に綴られている駄文を読まないでもいいでしょう (笑)。

 詩を読むことは、若い頃に、「文学青年」 が患う麻疹のように考えている人がいれば、いちどは、萩原朔太郎の詩を読んでみればよい。この詩は、「憤怒 (憂悶)」 を的確に撃ち抜いている。

 以下の詩も萩原朔太郎の作である。

    彼等みな忍従して
    人の投げあたへる肉を食らひ
    本能の蒼き瞳孔(ひとみ)に
    鉄鎖のつながれたる悩みをたへたり。

 これは 「動物園にて」 という詩の一節である。もし、読者が組織の枠内で労働している会社人であれば、この詩に綴られている寂寥を感じないほど鈍感な人々は多くはあるまい。

 プロ の詩人は、日本語を駆使するために苦労している 「言葉の専門家」 である。したがって、詩集を除いた読書というのは、a missing link である。

 萩原朔太郎は、日本語に関して、以下のように指摘している。
 (1) 大和言葉は意識的に拗音や促音を排斥した。拗音や促音が多くなるほど、言葉は アクセンチュアルになり、...
 (2) これに反して、仮名の多い詩は非印象的である。その代わりに情緒的、音楽的である。

[ 参考 ]
 萩原朔太郎の言葉の使いかたを調べたいなら、以下の文献をお薦めします。
  ■ 萩原朔太郎全詩集語用例索引、菅 邦男 編、風間書房
 ただし、萩原朔太郎の全詩集を読んでから索引を使うべきで、詩集を読まないのに索引を使ってはいけない。

 小生も、哲学書や数学の本を読む傍ら、愛読している詩人の詩集を、いつも、座右に置いている。
 小生が愛読しているのは、八木重吉の詩集と良寛の歌である。

[ 参考 ]
 良寛の歌語・俳語を整理した索引として、以下をお薦めします。
  ■ 良寛用語索引、塩浦林也 編、風間書房

 さて、八木重吉の詩を一つ引用して、きょうの話を終わりにしましょう。
 「植木屋」 という題を附与された詩です。

    あかるい 日だ
    窓のそとをみよ たかいところで
    植木屋が ひねもすはたらく

    あつい 日だ
    用もないのに
    わたしのこころで
    朝から 刈りつづけているのは いったいたれだ

 
 「植木屋」 を、どういうふうに読みましたか。
 この詩は 「宗教的な意思」 を綴っています。 □

 



[ 読みかた ] (2007年 9月 1日)

 John Betjeman (British poet) は、雑誌 The Observer (1974) のなかで、以下のように言っています。

   Too many people in the modern world view poetry as a luxury, not a necessity like petrol.
   But to me it's the oil of life.

 「人は--すべてのひとではないでしょうが--、どうして、詩趣・詩的感興を抱くのか」 という問いに対して、私は、巧みに説明することができませんが、アリストテレス (ギリシアの哲学者) は、以下のように言っています。

   For this reason poetry is something more philosophical and more worthy of serious attention
   than history.

 人類の至宝とまで云われる・明晰な頭脳の持ち主であった アリストテレス にして然り。

 詩について、なんらかの感興を綴ることができても、詩を定義することは、芸術を定義するのと同じように、なかなか、難しいのではないでしょうか。「詩」 というのは、そもそも、中国の韻文体であって、わが国では、江戸時代まで、「詩」 と云えば 「漢詩」 のことでした。その後、明治時代になって、西洋文芸の poetry が入ってきて、新体詩が作られるようになって、いまでは、「詩」 といえば、言語芸術のなかで、散文芸術に対する韻文芸術を包括的に云うようです。ただ、わが国の伝統的な韻文は、「詩」 と云わないで、歌とか句というふうによばれています。

 近代詩は、押韻・韻律・字数などの律格がない散文的な詩が多いですが、それでも、「歌う」 という リズム 感が込められているようです。叙事詩・叙情詩であれ、事物・事態に対して詩人が感じた感興を 「歌う」 のが詩なのでしょうね。「詩に別才あり [ 詩有別才非関書也 ]」(滄浪詩話) と云われるように、詩の上手下手は、文を綴る力とはべつの特殊な才がなければならないようです。私には、その別才がないので、詩を作ることができませんが、詩人たちの作品を詠んで鑑賞しています。「鑑賞」 と言っても、作品の芸術的価値を見極めるというのではなくて--そもそも、そういう鑑賞眼は私にはないので--、私の気質に近い詩人を選んで、かれらの作品を詠んで味わっているのみです。
 詩を詠んで その詩から感じた みずからの気持ちを述べることは良いと思うのですが、その詩に対して、いっぱし批評家みたいにふるまうことに対して、私は嫌悪感を覚えます。

 私は、近代詩では、八木重吉の作品を愛読しています。かれの作品のなかで、私は、以下の作品が大好きです。これらの詩は、本 ホームページ 「反文芸的断章」 で、かつて、引用しました。

    「かなしみ」

     このかなしみを
     ひとつに 統ぶる 力はないか

 
    「ほそい がらす」

     ほそい
     がらすが
     ぴいん と
     われました

 
 Lord Macauay (British historian) は、以下のように言っています。

  Perhaps no person can be a poet, or can even enjoy poetry without a certain unsoundness of mind.




  << もどる HOME すすむ >>
  佐藤正美の問わず語り