2004年 9月16日 作成 読書のしかた (「わかりやすさ」 の嘘) >> 目次 (作成日順)
2009年10月 1日 補遺  


 
 TH さん、きょうは、「わかりやすさ」 について考えてみましょう。

 
或る概念を理解するためには、他の概念と対比しなければならない。

 TH さんは、財務管理の専門家ですから、財務管理の専門用語を正確に知っていることが当然でしょうが、コンピュータ 用語に関して、詳細な知識を習得しなくても良いでしょうし、逆に、私は、コンピュータ (データベース 設計) の専門家ですから、データベース 用語を正確に知っていても、財務管理の専門用語を知らない。

 たとえば、データベース 設計の領域では、「モノ (事物)」 を記述するために、以下の用語が使われています。

 (1) エンティティ (entity)
 (2) オブジェクト (object)
 (3) セット (set)
 (4) クラス (class)
 (5) タイプ (type)
 (6) テーブル (table)
 (7) ファイル (file)

 以上の用語 (概念) は、「モノ (事物)」 を指示しているのですが、こまかな違いがあって──そして、こまかな違いが、それぞれの概念の特徴になっているのですが──、簡単に割り切ったり、一口で言ったりできない中身です。
 或る概念の内包 (性質) を明らかにして、他の概念との相違を記述することが 「定義」 ということになります [334ページ参照 ]。すなわち、或る概念が属する 「類 (クラス)」 を考えて、「類 (クラス)」 のなかに帰属する 「種」 を挙げて、「種」 のあいだに生じる相違点を、「命題」──真となる叙述文──として記述すればよい、ということになります。
 とすれば、或る概念を理解するためには、他の概念と対比しなければならない、ということになりますね。

 2つの概念 (集合) を──たとえば、A と B としましょう──対比すれば、以下の関係が成立します。

 (1) 集合 A は、B の メンバー を、すべて、ふくんで、さらに、ひろがっている。
 (2) 集合 B は、A の メンバー を、すべて、ふくんで、さらに、ひろがっている。
 (3) 集合 A の メンバー と 集合 B の メンバー は、いくつか、同じである。
 (4) 集合 A の メンバー と 集合 B の メンバー は、すべて、同じである。
 (5) 集合 A の メンバー と 集合 B の メンバー は、すべて、ちがう。

 概念を的確に検討する──あるいは、定義を正確に検討する──というのは、2つの概念のあいだに成立する (上述した 5つの) 関係を、まず、検討する、ということになります。前述した 「モノ (事物) を記述する」 概念も、これらの関係のなかで検討すれば、これらの関係のいずれかであることを理解できるでしょう。

 
「わかりやすく、てっとりばやく」 というのは、「思考 (正確に考えること) の欠落」 と同義語である。

 TH さんの専門領域でも、たとえば、「『資産』 と 『財産』 は同じである、と思って良い」 と言う人がいたら、TH さんは、異議申し立てをするでしょう、きっと。

 専門領域以外の知識を習得するには、「おおまかな」 知識にならざるを得ないのですが、専門領域のなかで、「おおまかな」 知識を覚えて──いっそうの調査をしないで──、概念を知ったつもりでいる人たちを観ると、そういう人たちとは的確な討議ができないので、私は苛立ちを覚えます。そういう人たちに対して、概念を問い正すと、概念が曖昧であることが明らかになってくるのですが、彼らは、とうとう、「でも、そういう やりかた で、いままで、やってきた」 というふうに開き直る (so-what attitude) ことが多い (苦笑)。こういう状態では、「建設的な」 討議などできない。

 入門書を多く読んでも、正確な概念を習得できないことを、かって、述べましたが [ 302ページ参照 ]、「わかりやすさ」 とは──専門領域以外の人たちを対象にして、概念を提示するなら──、どうしても、専門的な正確性を犠牲にしなければならないので、入門書を数多く読んでも、学習が進む訳ではない
 「わかりやすく、てっとりばやく」 というのは、「思考 (正確に考えること) の欠落」 と同義語です。

 



[ 読みかた ] (2009年10月 1日)

 本 エッセー のなかで、「わかりやすく、てっとりばやく」 という やりかた を非難しているのは、あくまでも、専門領域を学習するときの態度に対してであって、それを超えて適用するつもりは私にはないことを断っておきます。ただ、いかなる場合であれ、「わかりやすく、てっとりばやく」 習得した知識をもって──言い換えれば、(入門的知識を) 「ただ知っている」 という状態で──熟知したつもりになって知識 [ 他人からの ウケウリ ] を一家言のごとく振りかざす輩を私は反吐が出るくらい毛嫌いしていることも明記しておきます。

 私は、システム・エンジニア を職にしていて、かつ、「文学愛好家」 という性質が強いので、どうしても、(「普遍性」 に較べて) 「個々の」 事象・事物を重視して、事物・事象の抽象化も 「第一階」 (実 データ と、その集合) を超えないような思考的抑制が強いようです。ただ、そういう性質だけであれば、「報告文」 を綴ることができても、「論説文」 を綴ることができないでしょうね。だから、事象・事物に対して、なんらかの 「分析」 をして、じぶんの 「意見」 を述べるのであれば、当然ながら、「高階の述語」 も使います。それでも、じぶんが主張したことが 「真」 であることを証明するには、「導出的な」 証明と 「事実的な」 指示がなければならないでしょう。そして、「高階の述語」 を 「第一階の述語」 に降ろして 「事実的な」 事物・事象を指示できるようにするのが 「わかりやすさ」 だと私は思っています──勿論、現実的事態との対比では、直接的な指示ではなくて、アナロジー を使うこともあるでしょうね。そして、証明された 「妥当な構造・真とされる値」 を、以後、いちいち証明しないで、「定理」 として使うのが 「てっとりばやく」 という やりかた だと私は思っています。ただし、「定理」 を 「てっとりばやく」 使うためには、「定理」 を適用する対象的事態は、「定理」 が構成された対象的状態と同じ 「前提」 でなければならないのは勿論のこと。「てっとりばやく」 理解したことを 「てっとりばやく」 使うためには、適用対象は 「『前提』 が同じ」 ということが a must です。

 「わかりやすく」 書き下す ちから、そして、「てっとりばやく」 使う ちから は、上述したように、実は、そうとうに高度な ちから がいるのです。ちゃんとした専門家の綴った 「わかりやすい」 書物は、信を置いて大丈夫ですが、それを読んで得た知識を 「てっとりばやく」 使うには、そうとうな ちから がいるでしょうね。「てっとりばやく」 理解しても 「てっとりばやく」 使える訳ではない、という点が学習の難しい点なのですが、それらを同一視してしまって 「法則 (証明された定理) を使った科学的な態度」 だと思い違いしている人たちが多いようです。「法則」 の適用において問われるべきは、つねに 「前提」 です。そして、この 「前提」 の確認を はしょって法則を適用する態度を 「思考 (正確に考えること) の欠落」 として私は本 エッセー のなかで非難したのです。





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  佐藤正美の問わず語り