2005年 5月 1日 作成 読書のしかた (宗教書) >> 目次 (作成日順)
2010年 5月 1日 補遺  


 
 TH さん、きょうは、「宗教書」 について考えてみましょう。

 
 宗教的聖典とか哲学的文献というのは、いちぶの人たちには、愛読書であっても、多数の人たちにとっては、「うさん臭い (怪しげな)」 書物である、と思われているようです。そして、人々の集まりのなかでは、話題として、「政治と宗教」 を避けたほうが良い、とされています──というのは、それらの話題は、きわめて、個人的な選択・判断が占めるので。

 ぼくは、「禅」 に関する文献を、多数、読んでいます (「読書案内」 を参照されたい)。「禅」 は、ぼくの人生観を作っている 1つの柱でしょうね。「禅」 に対する思いを綴る際に、英語を使うことに躊躇いがあるのですが、英語の或る語句を使ったほうが、「禅」 に対する ぼくの思いを述べやすいので、英語の或る語句を使って、述べてみましょう。「禅 (あるいは、広い意味では、宗教と言ってもいいでしょう)」 に対する ぼくの態度を述べる際、ぼくが使いたい英語の語句は、「believe in」 という語句です──「I believe in Zen」。

 「Believe in」 は、「...を信じる (...を良いと信じる)」 という意味ではないので、ぼくは、わざわざ、使った次第です。「Believe」 は、「信じる」 とか 「信じない」 という批評語ですが、「believe in」 は、「師 (手本) として仰いでいる」 という積極的な行為を示す語句です。かって、「I believe in music」 という歌が風靡しましたが、前述した 「believe in」 の意味を知っていれば、音楽に対する思いを謳っていることが理解できるでしょう。

 ただ、「believe in」 は、個人主義の伝統のなかで成立した概念なので、(「一即多、多即一」 という考えかたを底辺にしている) 「宗教」 を説明するときに、的確ではないのではないか、という疑いを、ぼくは、少々、感じながら使っていますが、、、。「禅」 に対する態度として、使ってみた次第です。日本語を使うなら、「信仰 (信じ尊ぶこと)」 という語を使って良いのかもしれない。「信仰」 という日本語を使わなかった理由は、──「信仰」 は、そもそも、神聖な物 (「仏」 とか 「神」 と云ってもいいでしょう) に対する 「親和感」 を起点にしているはずですが、(「地獄に堕ちる」 などという 「罰」 を対比概念として用いて、) 「畏敬・畏怖」 を混入して、神聖な物を、まっすぐに観る、という点が曖昧になってしまったので、──「信仰」 の思いが、自然に生まれるのではなくて、「作り物」になったしまった、という点を、ぼくは嫌うから。

 「宗教」 は、そもそも、「逆上 (のぼせ) を下げる」 ことを宗旨としています──言い換えれば、つねに、「覚醒している」 ことを宗旨としています。したがって、「狂信」 などという妙な現象は、「宗教」 とは無関係です。「宗」 という語は、「おおもと (根本思想)」 という意味ですから、「(「知・情・意」に関して、) 歪みがとれて、つねに、覚醒している」 ことを示すのですが、わたしたちが、日々、生きていれば、妬み (ねたみ) や憎しみなどの歪んだ感情も起こりますので、「宗」 という状態を体得するのは、なかなか、むずかしい。とすれば、「宗」 を体得した人たちを 師と仰いで、指導を仰ぐことになります。したがって、「宗教」 では、「宗」 に帰依する人たちが集まって、精神的共同体を営み、「宗」 を継承することになります。そのときに、「邪宗」 が生じる あやうさ があるのでしょうね。精神的共同体のなかで、「狂信」 をそそのかす 「宗」 を 「邪宗」 だと、ぼくは思っています。「覚醒する」 ことを願いながら、間一髪、「狂信」 に陥る あやうさ がある理由は、「覚醒するためには、そして、祈るためには」、集中しなければならないからでしょうね。

 「狂信」 が 「宗教」 と思い違いされて、「宗教」 が 「うさんくさい」 と思われるようになったのかもしれない。しかし、「宗教」 の宗旨は、「覚醒」 であって、「狂信」 ではない。したがって、宗教の精神は、科学の精神にも近い、と思います。科学が前進する際──そういう仕事をした科学者・数学者・哲学者を観ていて思うのですが──、思考が及ぶ極限の所では、宗教が関与しているようです。

 
 「覚醒」 とは、いかなる状態を云うのか、という点は、仏典や聖書のなかに記述されています。仏典や聖書のなかには、喩え話や道徳律や法典などがでてきますが──それらは、「宗」 の現象を述べたにすぎないのであって──、それらの底辺となっている 「宗」 を読んでみたら、どうでしょうか。「殺すな」 という戒律は、「殺さない」 という誓いから導き出されますが、「殺さない」 という誓いは、「殺せない」 という自覚 (「宗」) を起点 (源泉) にしているはずです。宗教は、法律でもないし、道徳でもない。しかも、宗教は行為です。



[ 読みかた ] (2010年 5月 1日)

 宗教は書物を読んでも訳が立たないでしょうね。宗教は、実践において できあがる、と云っていいでしょう──私が信仰している 「禅宗」 では、「本証妙修」 (修行が そのまま悟りであること) が宗旨です。その宗旨が実践されていれば、具体的な態として、「作法」 を守った 「威儀」 として現成するはずです──「威儀即仏法、作法是宗旨」。澤木興道老師曰く、

   本尊は行仏。教理は非思量。これが道元禅師の宗旨である。

 宗教が 「うさん臭い」 と思われる理由の ひとつ は、「悟り」 という得体の知れない キーワード にあるのかもしれない。澤木老師曰く、

   修行して ボツボツ さとりをひらくのではない。修行が サトリ であり、この サトリ を行ずる──
   仏祖の坐禅を坐るのである。

   うっかりすると仏法を階段のぼることのように思うてしまうが、そうじゃない。いつでも今、一歩ふみ
   だしたところが一行一切行、一切行一行である。

 「空」 という概念も難しいように思われていますが、澤木老師曰く、

   ユガミ のとれたところを宗といい、ひっきょう空という。

 ユガミ とは 「我欲」 のこと。澤木老師曰く、

   心身脱落と言うたって、ただ 「おれがおれが」 ということを捨てるだけじゃ。

   みな胸算用で忙しゅうて仕様がない。これを ヤメル のが坐禅である。

 ただし、老師は、次のことも忠告なさっていらっしゃいます。

   何も自分が美味いものを食わんでもいい。また、出世せんでもいいが、しかし、人の美味いものを
   食いたがる気持ち、出世したがる気持ちもわからんような アホ では ダメ だ。

 「我欲」 を捨てるのは、難しい、、、私は 「出世欲」 「金銭欲」 を ほとんど持っていないつもりだけれど、「じぶんは、ほかの人たちから 『良いひと』 だと思われたい」 という愛名欲や、愛欲 (肉欲) を捨てがたい、、、。仏法の 「作法」 をなぞっって、そのとおりに振る舞えば、外見上、「徳ある」 ひとに見えるかもしれないけれど、じぶんの 「内なる声」 を騙すことはできないでしょうね。まして、「こころの内なる声」 を聴く感覚の鋭い 「文学青年」 は、じぶんの 「染汚」 な状態を強く意識するしかない。私のような我欲に満ちた凡夫が 「仏」 になれる訳がない。澤木老師曰く、

   人間をちょっと一服したのが仏じゃ。人間が エラク なったのが仏じゃないぞ。

 「人間をちょっと一服する」 のが難しい。「一服する」 とは、「修行 (仏法を行ずる)」 ということ──「人間を一服する」 のであって、「人間が一服する」 んじゃない。私が坐禅を どれほど打ち込んでも、私は仏法を知ることはできないでしょう。道元禅師曰く、

   在家の帰依者で、男女とりまぜて少しは仏道を学ぶ者もあるが、得道した例はまだない。仏道に達する
   のには、必ず出家するのである。出家しおおせない連中は、どう して仏位が受け継がれよう。

   知るがよい、心身にもし仏法があるならば、在家にとどまることはできないということを。

   釈迦牟尼仏は言う、「出家受戒、コレ 仏 ノ 種子 ナリ、スデニ 得度 ノ 人 ナリ」。こういうわけである
   から、知るがよい、『得度』というのは出家である。まだ出家していない者は、生死苦界をさまよって
   いるのである。悲しむべきことよ。

                                          「正法眼蔵」の三十七品菩提分法
                                          (高橋賢陳 訳)

 「頭剃って、袈裟かけて、坐禅して お終い」 (澤木老師) という ことば が 「仏法 (あるいは、禅)」 を言い尽くしているでしょう。宗教は、修行を装った奇行の末に見える幻想じゃないのであって、「覚醒している (逆上せを下げる)」 状態に至る作法です。ただ、私には、「出家」 する覚悟がない、、、「出家」 という一点こそ、仏の門です。

 文学を愛する私は仏法に踏み込めない、、、そして、仏法を なまじ囓った私は、文学に徹することもできない、、、私は文学からも仏法からも同時にひっぱられてきて、私の精神が裂けそうな気がしています──いままで、そういう状態を堪えてきたのですが、、、文学のほうに足を向けるのだけれど、背中に担いだ 「正法眼蔵」 (道元禅師著) の重みで足は重い、それでも、私は足をひっぱって歩を進めようとしている、、、。このままでは、私は、道元禅師の足下で項垂 (うなだ) れて泣くしかない。





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  佐藤正美の問わず語り