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Coffee should be black as Hell, strong as death, and sweet as love. (Proverb)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション drinks のなかで、以下の文が私を惹きました。

    Coffee which makes the politician wise,
    And see through all things with his half-shut eyes.

    Alexander Pope (1688-1744) British poet.
    The Rape of the Lock, V

 
    I think it must be so, for I have been
    drinking it for sixty-five years and I am not
    dead yet.

    Voltaire (Francois-Marie Arouet; 1694-1778) French writer.
    On learning that coffee was considered a slow poison
    Attrib.

 
 大人が drink と言えば、たいがい酒の事なのですが、Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations には alcohol の セクション が設けてあるので、drink の セクション には酒に関する quotation は一つも記載されていないし、See also alcohol, drunkenness, water という footnote が記されています。drink の セクション では、tea や coffee に関する引用が幾つか記載されています。

 さて、coffee ですが、私は コーヒー [ 珈琲と綴ったほうがいいかも ] が大好きで一日のうちに数杯を飲みます。珈琲を好きだと言っても飲むのが好きなだけであって、珈琲豆を買ってきて豆を挽いてその香気を聞いて味わうというほどの愛飲家じゃない──私は気が短いほうなので、そういう丁寧な味わいかたができない (苦笑)。私が まいにち 飲んでいる珈琲は、インスタント・コーヒー です。一日に数杯も飲むので、簡単に用意できるほうがいい。それでも、飲むからには味は美味いに越したことはないので、貧乏ながらも、やや高価な MAXIM (AGF 社の モカ・ブレンド) を飲んでいます。寝起きには、大きな コーヒーカップ で二杯飲まないと眼が醒めない。

 中学三年生の時、高校の受験勉強のために夜おそくまで起きていたので、その時に 珈琲を飲みはじめました。珈琲は カフェイン をふくんでいるので、中学生の私が珈琲を飲む事を両親は禁止していたのですが──引用文の二番目の注書きで slow poison と綴られていますが、私の両親もきっとそう思っていたのでしょう──、「受験勉強のため」 という私の口実を黙認していました──当時は、「四当五落」 (四時間しか眠らないで受験勉強すれば合格するが、五時間も寝たら不合格になる) という様な事がまことしやかに云われていた時代でした [ 「受験地獄」 という ことば が生まれた時代です ]。それ以来、今に至るまで 40数年のあいだ──引用文の二番目で 65年と綴られていますが、それほど長いあいだではないにしても半世紀弱のあいだ──私は珈琲を喫してきました。そして、I am not dead yet. 珈琲に関する医学的所見は私にはわからないのですが、カフェイン に興奮・覚醒作用があるのならば、煙草と同じように珈琲にも常習性があるのかもしれないですね。

 私は珈琲も煙草も酒も大好きです──英語の俗語には cold coffee (ビール) という言いかたもある。健康志向の人たちから観れば、私は身体に害を及ぼす嗜好品を好んでいる中毒患者なのかもしれない──「中毒」 という言いかたは多分に自虐的なので、自己弁護するのであれば、「ちょい不良(わる) オヤジ」 とでも云ったほうが カッケー (格好いい) かも (笑)。ちなみに、カッケー という言いかたは、愚息 (三男、高校二年生) が テレビ で歌番組を観ていて、ヴォーカル&ダンス・ユニット の Exile に対して言っていたのを真似てみました。健康を維持する事は社会人の義務である事くらいは私にもわかるのですが、「ちょい不良 オヤジ」 には 「ちょい不良 オヤジ」 の言い分もあって、珈琲も煙草も酒もやらないという人たちは、それはそれで立派なのですが、私は いっしょに話していても居心地が悪い──不良が優等生を嫌う現象と同じなのかもしれないのですが。病人は健康な人に較べて自分の魂にいっそう近く迫る様に、羽目をはずさねば見えぬ真実も人生にはあるのではないか。しかし、不良が持ち出す言い訳は、たいがい引用文の一番目に類している (笑)── see through all things with his half-shut eyes などという誇張は錯覚だと云えば錯覚なのでしょうが、私は、考え事をしている時、珈琲を飲んで煙草を燻らすと、妙案が浮かぶ様な気がします。この エッセー も、そうやって 「心にうつりゆくよしなし事をそこはかとなく」 書きつくっています。

 富士山を まいとし 八月に登山して──過去 12年 登山していますが──、御来光を拝した後で、寒空に震えながら雲海を見下ろして、温かい珈琲を飲んで煙草を燻らす時、言い難い幸福感を覚えます。山小屋で買う珈琲は インスタント・コーヒー の粗物なので、平地で飲めば不味いのだけれど、野外の、しかも高山で喫すると絶品の味がします (値段も高い!、紙 コップ 一杯 400円)。寒々とした空気に触れて、身体の温かさがいっそう意識される──「生きている」 という事を実感する一時 (ひととき) です。その時に、私の頭の中で、クラシック 音楽の 「ペール・ギュント」 組曲第一の中の 「朝」 の旋律が流れました。ちなみに、「ベール・ギュント」 は、山に係わりのある曲です。

 昔──私が小学校二年生の頃──、「コーヒー・ルンバ」 という曲が流行 (はや) った。西田佐知子さんが歌っていました──「♪ 昔 アラブ の偉い御坊さんが、恋を忘れた 哀れな男に 痺れるような香りいっぱいの琥珀色した飲み物 教えてあげました。やがて、心うきうき (略) たちまち男は若い娘に恋をした ♪」。当時、東京の様な大都会では珈琲は珍しくもなかったのかもしれないのですが、私が育った村では、珈琲を飲む機会は先ずなかった。だから、子どもの私にとって、珈琲は 「大人の雰囲気」 がしました。海辺の村から富山市に引っ越して、高校生の頃に初めて喫茶店に入った時、大人びた気がしました。大学受験に落ちて 「浪人」 になった時、親友といっしょに喫茶店で珈琲一杯で数時間もねばって文学論を語っていました。そういえば、(大学生の頃、帰郷した時に) 彼女との デート の場所は、喫茶店が多かった。そして、「歌声喫茶」 という現象も大学生の頃に盛んだった──ただし、私は参加した事はないのですが。昔は 「名曲喫茶」 が大学の近くにあったのですが、店を閉じました。新宿の 「滝沢」 も閉めましたね。喫茶店が減った訳じゃなくて、STARBUCKS や Tully's など──珈琲を出す ファースト・フード 店もふくめれば──、そうとうな数に及ぶでしょう。私は、一時期、喫茶店を書斎にしていました。「名曲喫茶」 の様な落ち着いた喫茶店が少なくなった事を嘆く人たちもいますが、私は珈琲さえあればそれでいい。

 冬に地方へ出張した時、駅の喫茶店に入りました。外 (そと) は雪が降っていました。喫茶店の中は暖房が入っていたのですが、それでも肌寒かったので、私は コート を着たまま珈琲を飲みました。窓から眺める風景は一面に雪化粧です。その風景を眺めながら珈琲を飲んでいたら、昔の 「熱く悲しい思い出」 が甦った──私は還暦近くになったのですが、過去が思い出されて、思慕の情 止み難いものがある。珈琲の香りがそれを嗾 (けしか) けるのかもしれない、「恋を忘れた 哀れな男に 痺れるような香りいっぱいの琥珀色した飲み物」 を、、、。消えゆく若さへの渇仰かもしれない。

 
 (2012年12月 8日)

 

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