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But keep away from foolish and ignorant arguments (2 Timothy 2-23)

 



 小林秀雄氏は、かれの エッセー 「文芸批評の科学性に関する論争」 のなかで、以下の文を綴っています。便宜上──後で参照するために──、それぞれの段落に番号を付与しておきます。

    [ 1 ]
     私は、「文藝春秋」 の正月号に、「マルクス の悟達」 という感想
    を書きました。予期した通り、色々な人から様々な誤解を聞かされ
    ました。勿論 (もちろん) あの感想文は、大変拙 (まずい) いもの
    だったのでありますが、言い方が拙かったために誤解された、と
    いう明らかに思えるような誤解を、私は一つも聞かされませんで
    した。と言うのは、たとえうまく書いたとしても、誤解の数は同じ
    であっただろうと考えないわけにはゆかぬ、という意味であります。
    ところで私は今同じ問題を、出来るかどうか疑問だが、もっとうまく
    言えたらと思うので、つまり同じ事を言うために他人の誤解を利用
    したいと考えるのです。

    [ 2 ]
     私は、あの文章で文芸批評の科学性の問題について述べました。
    この問題に関しては最近の諸雑誌にも色々な議論が戦わされて
    いるのを見ます。どれをみても、要するに文芸批評には厳とした
    科学性が存するというのです。科学性が存するという結論に達する
    ために、人々にはどうしてそんな沢山な言葉が入用なのでしょうか。
    不思議な事です。私はこの事について一と言しか喋 (しゃべ) り
    ませんでした。今日まで文芸批評が連綿としてうち続いて来たと
    いう事実が、文芸批評の科学性を証して余りあるというのです。
    これ以上に直接な簡単な証明があろうとは私には思えません。
    でも、人々はこういう言葉だけでは満足しません。特に批評家と
    いうものは、事実があんまり平凡だと旋毛 (つむじ) を曲げます。
    そして色々複雑な事を言っています。だが言ってみるだけだ。
    何故かというと、こんな単純な問題は言葉の上の遊戯でもして
    みなければ、何も言う事はないからです。

    [ 3 ]
    (略) この論争は、ただ、科学性という言葉が、ある人に与える
    不安と、科学性の否定という言葉が、ある人に与える不安とから
    起こったものに過ぎぬ、という風にしか私には考える事が出来
    ないのです。誰だってそう考えたくなるではありませんか、誰が
    一体この論争でお座なり以上の事を書いていますか。

    [ 4 ]
    (略) 私が、エンゲルス にならってと書いたのは、たまたま、
    「反 デュウリング 論」 の註の 「無限の認識に関する ネエゲリ
    の無能について」 という一文に、彼が、上述の 「文芸の科学」
    という文字を、「無限的なものの認識」 という文字で置き代えて
    いる底の文章があったからです。この註で、人間の自然認識は、
    本質上絶対的なもので、われわれは、われわれの認識の範囲
    内に、有限的な諸対象のみが這 (は) 入 (い) って来るという
    理由で、有限的なもののみを認識し得ると断ずる事は出来ぬ。
    同時に、根本においては、人間は無限的なもののみを認識する
    事が出来るのだと言わねば正しくないという事を彼は説いており
    ます。

    [ 5 ]
    (略) 「可能であると同時に不可能だ」 という言葉は、ただ率直
    な事実の認識です。しかも、「それが必要なすべてである」 とは、
    懐疑に対する決定的な侮蔑ではないのですか。(略) それは、
    「可能であると同時に不可能である」 とは、理論上の表現だが、
    「それが必要なすべてである」 という言葉は、様々な色合いを
    孕 (はら) んだ実践的表現であるという事です。

 以上の文は、かれの批評の最初のほうで綴られた文です。これらの文のあとで、批評の中核が述べられるのですが、他の文については、次回以後に扱いましょう。ちなみに、以上の引用した文は、すでに、かれの批評の中核を まとめた 文になっています。なお、「マルクス の悟達」 については、「反文芸的断章」 の 2010年 8月 1日付 エッセー および 2010年 8月 8日付 エッセー を参照してください。

 [ 1 ] で小林秀雄氏は、「文芸批評の科学性に関する論争」 の執筆理由が、「マルクス の悟達」 に対する様々な誤解に起因することを表明しています──そして、かれは、世間で誤解されるだろうことを 「予期して」 いました。小林秀雄氏は、「マルクス の悟達」 で かれの述べた意見が間違っていないという自負を抱いていますし、かれの批評に対して様々な誤解が生じた理由は、かれの意見を 「ちゃんと読んでいない」 からであるという憤懣・侮蔑が込められているはずです。それが 「予期した通り」 という ことば で表されていると私は思います。

 そういう態度は、かれの独断な意見から起こっているのではなくて、かれが 「マルクス の悟達」 で述べた意見は、今まで、だれも気がつかなかったような 「奇抜な・向こうを張ったような」 意見ではなくて、だれでもが知っている [ 平凡な・自明な ] ことを述べたが故に、かえって、反論されるか (あるいは、かれが書いてもいないようなことを) 深読みされるかの いずれかが生じることを かれは事前に覚悟していたはずです。批評家連中に向かって 「当たり前のことを述べる」 危険性を かれは覚悟していたはずです。その気持ちが [ 2 ] で吐露されています。

 そして、[ 3 ] が かれの意見 (結論) を揺るぎない座標点に置いている前提 (前件) です──あるいは、[ 3 ] が、そもそも、「文芸批評の科学性」 に対する 「結論」 (後件) と言ってもいいのかもしれないですね。

 [ 4 ] では、かれの結論の中核概念となる 「無限的なもののみを認識する事」 を示しています。そして、かれは、この 「無限的なもの (のみを認識すること)」 を かれの他の批評のなかで使っています。たとえば、「反文芸的断章」 の 2009年12月 1日付 エッセー を参照してください。あるいは、「科学」 (数学) を前提にするのであれば、「有限は無限のなかで定義される」──(無限を前提にしないで) 有限そのものを定義するのは難しい──、と。

 そして、[ 5 ] では、文芸とは、[ 4 ] で示した 「無限的なもの」 を作品として産む──したがって、作家の 「多様な視点 (認識)」 を前提にした──「実践的活動」 であることを暗示しています [ この暗示は、「文芸批評の科学性に関する論争」 の後半で明示されます ]。

 以上に私が説明してきたことを振り返ってもらえば、小林秀雄氏の論法が見事である [ 確固たる ロジック で構成されている ] ことがわかるでしょう。そして、小林秀雄氏の見事な文体に惹かれてしまうと、往々にして、かれの見事な ロジック に対して不感症になってしまう危険性があるようです。「文芸批評の科学性に関する論争」 を私が読み始めて、上に引用した 「序」 を読んだとき、「さてさて、これほどの ロジック で論じられると反論できないわなあ」 と感じた次第です。そして、もし、小林秀雄氏に反論するならば──小林秀雄氏の謂っていることを気にくわないと思う連中が、かれに対して、なんらかの抵抗をするのであれば──、(かれの ロジック を追跡できないまま、かれから逸 (はぐ) てしまって、) かれが記述した いくつかの概念を文脈 (ロジック) から切り離して玩ぶしかないのだろうなあ、と感じた次第です。それにしても、小林秀雄氏の逞しい ロジック は恐懼 (きょうく、[ 恐れいること ]) ですね。

 
 (2010年 9月16日)


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