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a law that fights against the law which my mind approves of. (Romans 7-23)

 



 小林秀雄氏は、かれの エッセー 「文芸批評の科学性に関する論争」 のなかで、以下の文を綴っています。便宜上──後で参照するために──、それぞれの段落に番号を付与しておきます。

    [ 1 ]
     何故人々は作品には本来の自律的な価値があるものだ、それ
    だけで批評家には必要で且つ充分であると、率直に認めないの
    ですか。ある作が、何故に、どの程度に、どんな具合に、人々を
    感動させるか、という事実だけで何故不足なのです。私には解ら
    ない。芸術はどまでも芸術です。何か他のものなら他の名で呼べ
    ばよろしいのです。

    [ 2 ]
     だが人々は、作品の印象の多種多様である事で色々と文句を
    言います。文芸批評の科学性に対する懐疑は、この文句から
    始まりました。これは議論にも何んにもなりません。敢えて高名な
    経験派哲学者たちの名前をならべずとも、常識でかたがつきます。
    次のような事実を、ちらりと見るだけでいいではないですか。では、
    物理学者は印象の多様性をどう始末しているのか、と。物理学者
    には印象の多様性なぞない、などとは飛んでもない事です。直接
    な印象がなければ、何にも始まりゃしません。(略) 文芸批評の
    科学性の有無などというお粗末極まる問題を論ずるに当たって
    乱暴だなどと言えた義理ではありますまい。本当に乱暴だと
    思ったら、併せてこの問題を論ずる愚を悟るべきものです。

    [ 3 ]
     作品はいつも眼前に、何らの価値概念も附加されず、客観物と
    して在るのです。作品の機能は、作品自身がみんな持っており
    ます。(略) 批評家には、ただ批評実践の困難だけが問題である
    はずではありませんか。この困難を悟らなければ、空言を吐く
    だけです。

    [ 4 ]
     人々は、この事実の上に思弁的な方法論を築こうとかかるの
    です。無理です。つまり、或る人は、この事実を認めると同時に、
    印象の多様性の波にまきこまれてしまう。印象を直観の世界で
    受け入れるだけで、印象とは、その生き生きとした形では、実践
    的活動だという事を忘れるから、印象の錯雑から、方法論の混乱
    を導き出してしまうのです。印象の錯雑から、方法論の懐疑に
    至るとは、印象を享受する前に、これを思弁的に分析しようと
    かかるからです。もうこうなったら、作品評価の問題なぞ、這入
    る余地はありません。こういう懐疑派に、食ってかかる人があり
    ます。(略)

 [ 4 ] の中の 「こういう懐疑派に、食ってかかる人があります」 という文に続いて、小林秀雄氏は、返す刀で、「現代唯物論」 を斬るのですが、「現代唯物論」 については、次回、扱いましょう。

 さて、上に引用した小林秀雄氏の意見に対して、私 (佐藤正美) の所懐を述べるとすれば、私が以前に 「反文芸的断章」 (2009年12月16日付) で綴った所思を超えることはないでしょうね──「作品は、自立した存在 [ なんらかの範囲のなかで なにがしかの事態を物語っている構成物 ] である」 と考えて、それ以外の概念を外から持ち込まないで読むのが 「解釈 (あるいは、解析)」 の前提ではないかしら。ただし、そういう作品を作った作家に興味を抱いて、その作家の生きかたを調べたいと気持ちが起こってもいいのだけれど、そういう興味は、作品に対する 「解釈」 とはちがう評でしょう、と私は綴りました。私の意見は、小林秀雄氏の意見を借用したのではなくて、私が システム・エンジニア として仕事において ユーザ の事業を分析する際に、ユーザ が使っている言語を変形しないで、言語を一種の記号列として考えて形式化する──すなわち、モデル を作る──ことを心得ているからです。だから、小林秀雄氏が、マルクス の やりかた について、「「困難を深刻に悟って」、「一つの現実を率直に捨てた [ この世の経済機構を生ま生ましい眼で捕えるために、文字の生ま生ましさは率直に捨てた ] 」 と綴ったこと (「反文芸的断章」 2010年 8月 8日付 参照) を私は痛いほど実感できます。これほど当たり前のことを人々 (小悧巧な批評家連中 ?) がわかっていない点を小林秀雄氏は指弾していますが、私も小林秀雄氏と同感です。[ 3 ] で述べられている点こそが批評の原点でしょう。

 そして、いわゆる 「業務分析」 と云われている仕事において、「印象の多様性の波にまきこまれて」 しまった連中が、「方法論の混乱を導き出してしまうのです。印象の錯雑から、方法論の懐疑に至るとは、印象を享受する前に、これを思弁的に分析しようとかかるからです。もうこうなったら、作品評価の問題なぞ、這入る余地はありません。」──だから、そういう連中には 「モデル」 がわからない (苦笑)。「頭が眼を欺 (あざむ) かない」 ということが、どれほど難しいことか を かれらはわかっていない。はて、「反 コンピュータ 的断章」 の口調になってきたなあ (笑)──尤 (もっと) も、「反文芸的断章」 と 「反 コンピュータ 的断章」 は、ひとつの事態を 「違う視点で観た」 two side of the same coin にすぎないのですが。この 「困難を深刻に悟る」 ということが どういうことかを 私は、じぶんの戸惑いとして、以前の 「反文芸的断章」 で正直に綴りました。言語における この ふたつ の性質を親和した天才が ウィトゲンシュタイン 氏でしょうね。

 
 (2010年 9月23日)


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