2001年12月16日 作成 一人 ディベート >> 目次 (テーマごと)
2007年 2月16日 補遺  



 TH さん、きょうは ディベート について お話しましょう。しかも、一人でやる ディベート です。

 前回、アリストテレス の以下のことばを引用しました。
   There are only two parts to a speach:
   You make a statement and you prove it.

 ディベート は、提議された 1つの主張に関して、賛成 (肯定) 派と反対 (否定) 派が、それぞれ、論法を交わして、提議の是非を検証する議論形態です。
 ただ、われわれが、日常生活のなかで、正式な ディベート の形式に則った議論に参加する機会は、ほとんど、ないでしょう。でも、ディベート の規則 (ルール) は、論理的に考えるための規則と基本的には同じです。ディベート では、以下の 4点が基本的な構成項目とみなされています。

 (1) the proposition (提議、主張)
 (2) the issues (論点)
 (3) the arguments (論証)
 (4) the evidence (証拠)

 1つの proposition は (通常、) 複数の issue から構成され、さらに、1つの issue は複数の argument から構成され、さらに、1つの argument は複数の evidence から構成される。


proposition issue argumentevidence
evidence
argumentevidence
evidence
issue argumentevidence
evidence
argumentevidence
evidence



 論争の争点が限られた (狭義の) 範囲なら、proposition と issue をいっしょにして、1つの主張 (claim) として扱っても良いでしょうね [ 素朴集合論が 「あまりに巨大な集合」 を扱ったがために パラドックス に陥って、{x ∈ a | f (x) } という 「範囲を限定した」 安全基準を導入したように、論証でも、広範な曖昧な論点にならないように、範囲を限定するのが良いでしょう ]。いずれにしても、(アリストテレス が言っているように) 主張は証明されなければならない。1つの主張は、証拠 (evidence) と論証 (reasoning) を使って組み立てられる [ 主張 (claim) = 事実 (data) + 論証 (warrant)]、ということです。それが 「立証責任 (burden of proof)」 ということです。「事実 (data)」 を扱うときに留意しなければならない点は、以下の 3点です。

 (1) (争点になっている領域に関して、データ の) 「網羅性」 を保証しなければならない。
 (2) 「事実 (data)」 の出典 (信憑性ある出典) を明示する。
 (3) 「事実 (data)」 と 「意見 (opinion)」 を混同しない。

 当然ながら、「一次 データ (原典)」 を入手するのが鉄則ですが、加工された データ (情報) を扱うときには、複数の情報源を比較して信憑性を検証しなければならないでしょうね (--例えば、新聞の記事は、少なくとも、3次加工以上の変形された データ ですから、新聞記事を資料として使うなら注意しなければならない)。この 3点のいずれかが崩れたら、主張は成立しない。

 次に、(確実な データ を使いながらの) 「論証」 ですが、最大に注意しなければならない点は、「論理の飛躍 (hasty generalization)」 に陥らないようにする、という点です。論理の飛躍は、--「論証」 自体は、モーダス・ポーネンス を遵守しているかぎり、検証可能性 (秩序性) を実現して、飛躍は起こらないので--往々にして、データ の 「網羅性」 がないにもかかわらず (not enough of the instances have been observed)、結論を強引に引き出そうとするときに起こるようです。

 (数学基礎論の) 推論では個体や論理式は変数として扱われるのですが、「ことば」 を使った論証では、「ことば」 の 「定義」 を下さなければならない。これが、なかなか、むずかしい。たとえば、「民主主義」 とか 「自由主義」 というような広範な概念を、定義を下さないで使えば、虚空を掴むような 「人生論」 になってしまい、論証にはならないでしょう。

 以上に述べてきたことをまとめれば、主張を提示するためには、以下の 3点が大切である、ということになるでしょうね。

 (1) ことば (概念) の定義
 (2) データ (evidence) の網羅性
 (3) 論証 (proof) の検証可能性 (秩序性)

 以上のことを留意して、主張を提示したなら、(通常の ディベート では、論争の手順として、否定側から反論を提示されるのですが) 「一人 ディベート」 では、自ら、否定側に立って、以下の 2点をやってみればよいでしょう。

 (1) attacks on EVIDENCE
 (2) attacks on REASONING

 そのような検証のことを 「クロス をかける (cross-check)」 といいます。つまり、「定義」 「網羅性」 および 「検証可能性」 に関して、反例がないかどうか、そして、反証ができないかどうか、という点を徹底的に検証するのです。徹底的な クロス を耐えて論証が崩れなければ、主張は正当であることが立証されるでしょう。

 以上に述べてきたことは、日頃から、練習することができます。普段の読書のなかで、以下の 2点を留意して、本を読めばよいでしょうね。

 (1) 定義 (...とは、なにか) [ Define! ]
 (2) 論証 (...なのは、なぜか) [ Why? あるいは、Why not? ]

 そして、意見を述べるときには、「I think..., because... (私は、...と思う。なぜなら、...)」 という形式を使うようにすればよいでしょう。多くの日本人が使う「...と思う」 という言いかたが、英語にしてみれば、「I feel...」 にしか訳すことができない、というのは悲しい現実です。

 ギットン (Guitton J.) 氏曰く、

      枕頭の書としては、君に対してもっとも手きびしい、もっとも理屈っぽい反対者の書いたものを当てるがよい。
      パスカル が モンテーニュ を、モンテーニュ が セネカ を枕頭の書としたように。
      (ギットン 著、安井源治 訳、「読書・思索・文章」、中央出版社、142ページ)



[ 追伸 ]
 拙著 「論理 データベース 論考」 は、以下の一行を論証するために綴られた。

   「aRb を関数として扱わない」

 それを論証するために、まず、(通説となっている) 「aRb ≡ R (a, b)」 の考えかたを網羅的に扱わなければならないので、拙著の ページ 数の 50%ほどを、「aRb を関数として扱う」 考えかたを整理するために費やさなければならなかった (--それらは 「理論編」 として扱われている)。反対派の考えかたを理解するためには、それほどの準備をしなければならないのである。□

 



[ 補遺 ] (2007年 2月16日)

 日本語を話すことができるからといって、日本語で論理的に考える力があることにはならないので、推論は、意識して学習しなければならない技術であることを、前回 (2007年 2月 1日の補遺) で述べました。
 その 「意識して学習する やりかた」 の 1つを 本 エッセー で述べてみました。

 かつて、「反 コンピュータ 的断章」 のなかで綴りましたが、私が、30歳の頃に、私の セミナー のなかで、コッド 関係 モデル に対して、null と 「(データ の) 並び」 の 2点に関して、異議申し立てをしたら、アンケート のなかに、以下のような コメント が記されていました。

     世界的な権威に向かって、若造が知ったかぶりをして、自惚れた私見を述べている。

 こういう コメント を読むと、私は、エンジニア として、悲しくなってしまいます。
 私は、コッド 関係 モデル を 「全面的に非難した訳ではない」 のであって、その体系のなかで、2点 (null と 「(データ の) 並び」) が debatable であると言ったにすぎない。
 Logic を訓練されていない人たちは、論点の いくつかを非難されたら、まるで、すべてを否認されたように飛躍して--あるいは、その所説を述べたひとの 「人格」 を非難されたと思って--、感情的になるきらいがあるようですね。こういう態度は、知性の観点から判断して、疑わしいですね。

 私は、論争そのものを好きではない。そのために、私は、討論の場には参列してこなかった--かつて、1回だけ、討論の場に立ったことがあったのですが、討論が終わったときは、砂を噛むように後味が悪かった。私が討論しない理由は、(それぞれの意見をまとめて、かつ、論点を整えて、それぞれの意見を対比できるように調整できる司会がいなければ、) 討論が、往々にして、ディベート の ルール を守らないで、言いっぱなしになって、討論が、実は、2つの one-way traffic な スピーチ に終わってしまうからです。演劇のように ショー になってしまった討論に荷担しないで、本 エッセー で述べた やりかた を地道に試したほうが健全だと思っています。討論や ディベート には、スポーツ と同じように、ルール があるのだから、その ルール を守らないような人たちとは討論しなくないというのが、私の正直な意見です。




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  佐藤正美の問わず語り