2009年 1月 1日 ゆく年、く る年 >> 目次 (テーマ ごと)


 

 一昨年の一年中続いた鬱状態は、昨年も消えないで ゴツゴツと固い状態のまま続きました。そして、昨年は、私生活では 「天中殺」 と云えるほど、私の いままでの人生のなかで最悪の年でした──本 エッセー で私生活を公にするつもりは私にはないけれど、昨年、私は 「故郷」 を喪った状態になりました。

 昨年の実績としては、わずかに、新たな著作の脱稿を挙げるのみです──そして、新刊は、私が いままで取り組んできたことを他の観点から再検討した著作です。
 三島由紀夫 氏は、かれの著作 「若き サムライ のために」 のなかで、以下の文を綴っています。

    二十歳で小説を書き出す人間は、二十歳までに感じたことをもとにして、その上で
    想像力を広げてゆくほかはない。それは経験というよりは、感受性の問題である。
    われわれは、感受性の傷つけられやすいもろさの中に、自分の人生との不調和を
    発見して、その不調和の ギャップ を埋 (うず) めるために、ことばの世界に遊ぼう
    とする。それが、多くの小説家の成り立ちであるから、ほんとうの人生を味わうに
    足る、強い意志の力や、持続力や、その他の一人前の人間としての力は、したがって
    小説を書き始めたところから用いられることになり、人生に有用なはずの能力は、
    すべて小説家たることに有能な領域にささげられ、職業人として固定し、しかも自分
    の人生の最も純粋な、最も汚れのない、最も強烈な経験は、ただその少年期以前
    の、感受性の生活にだけ求めることができるのである。たびたび作家は、処女作に
    向かって成熟するということが言われるのは、作家にとって、まだ人生の経験が
    十分でない、最も鋭敏な感受性から組み立てられた、不安定な作品であるところ
    の処女作こそが、彼の人生経験の、何度でもそこへ帰って行くべき、大事な故郷
    になるからにほかならない。

 かれが綴った点は、もし、作品を執筆するという点を除けば──作品を執筆するという点こそが小説家としての存在理由なのですが──、感受性の強いひとの 「人生の歩みかた」 にも云えるのではないでしょうか。似たようなことを アンドレ・モーロア 氏は、以下のように述べています (以下に引用する文は、本 ホームページ の 「思想の花びら」 で かつて引用しました)。私は、大学生の頃、モーロア 氏の著作を多数読んでいました。

    人間は同一の方法によって永遠に かれの岩を ふたたび よじ登らなければならない。
    定着点の周囲を巡る この振子の運動が人生なのである。この定着点の存在を確信
    することが幸福なのである。

 モーロア 氏は、文中で、「幸福」 という語を使っていますが、「幸福」 かどうかは、本人の意識次第でしょうね──そういう人生を呪いつつ 「悔恨」 を感じるひともいるかもしれない [ 私が、まさに、そうです ]。というのは、どうして、こういう人生を歩む次第になったのか を自問することが 「悔恨」 から生まれた呻きだから 、、、もし、人生を やり直すことができたなら、はたして、べつの道を歩むことができるのか 、、、そう考えても空想にすぎないのであって、ここまで歩んできたからには、呪いながら愚痴を言いながらも、歩み続けるしかないのでしょうね。いまの私の強烈な悔恨とは、私が いま やっている仕事 (あるいは、研究) は、なにかの擬似体験 [ 代用 ] にすぎないのではないかという恐怖感から生まれているようです。

 三島由紀夫 氏は、かれの著作 「『われら』 からの遁走」 のなかで、以下の文を綴っています。

    過去の作品は、いはばみんな排泄物だし、自分の過去の仕事について嬉々として語る
    作家は、自分の排泄物をいぢつて喜ぶ狂人に似てゐる。

                                             平成 21年元旦、
                                             新生 (復活再生) を願って。





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  佐藤正美の問わず語り