2011年 1月 1日 ゆく年、く る年 >> 目次 (テーマ ごと)


 

 昨年 (2010年) は、書物を多量に読んだ割には、それらが引きがねになって着想が生まれたという訳でもなかった。読書量で言えば、特に昨年の 7月・8月の 2ヶ月間で読破した書物は 24冊にも及んでいて、常軌を逸したとさえ言える状態でした。どうして そのように狂ったように読書に集中したのかと言えば、感性と思考のあいだに言い難い ズレ が生じて、感性は私の意志とはかかわりないままに事物に反応して、いっぽうで、思考も私の意志とはかかわりないままに次から次へと走ったので、思考を くたびれさせるために、ひたすら、書物を読みました。思考が 「勝手に」 走るという体験は初めてのことでした。どうして、このような事態に陥ったのかと言えば、たぶん、小林秀雄氏の作品を熟読したがゆえだと思います。本 ホームページ の 「反文芸的断章」 の エッセー を綴るために、かれの作品を熟読するようになって以来、そういう状態に陥ったようです。しかし、多量な読書の果てには、着想は一つが生まれたに過ぎなかった──「抽象 データ 型 モデル」 の新たな体系を着想しただけでした。

 昨年は、読書と山歩きに傾倒した年でした。ただ、数年後に私の人生を振り返ったとき、昨年は、たぶん、ひとつの変化点になるような気がしています。じぶんの人生 [ 宿命・可能性 ] を (例年以上に) 真摯に考えた年でもありました──「還 (かへ) らぬ昔、知らぬ行末」 のはざまで翻弄されている じぶんを意識し凝視した年でした。若い頃の 熱く悲しい 「思い出」 が懐かしい──若い頃の所作には、たとえ、早出来 (はやでか) すという心が発 (おこ) っても、純一 (無垢) だった。今は、我が身も 「上がり鯰のぬらめく身」 なれば、廃 (すた) りもの寸前なのかもしれない。つねに、パワー (power) を持っていたい。登るか落ちるか、、、登る ちから がないと見たらば、早く止 (や) めるのが商 (あきない) 上手なのかもしれない [ 登山も然り ]。それでも、私は、「意地」 を通したい。「意地」 は、じぶんに不為 (ふため) と知って後に止められる性質じゃない。そうであれば、それやそれまで、忍んで戯れるしかない。そして、向こう見ずな登山家の行末は知れている──滑落 (かつらく) を覚悟のうえでの戯れ、それが私の生きかたです。





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  佐藤正美の問わず語り