2003年10月 1日 作成 ハンドアウト の作成 (その 2) >> 目次 (テーマ ごと)
2008年10月16日 補遺  


 
 TH さん、きょうは、前回に続いて、ハンドアウト の作りかたについて お話しましょう。

 前回、ハンドアウト 作成の特徴として以下の 3点を論点にしました。

 (1) 最初から、簡潔な キーワード のみを綴った ハンドアウト を作成しない。
 (2) ハンドアウト は シナリオ である。ハンドアウト の作成では、3 段階 (準備・進歩・成果) の手順を考えよ。
 (3) ハンドアウト の中味に対して、プレゼンテーション の時間を割り振る。

 前回、(1) について綴ったので、今回は、(2) および (3) について、お話します。

 
 おそらく、およそ、思想に関与する仕事 (la travail intellectuel) では、以下の点は (プレゼンテーション に限らず、) 共通した作業だと思います。

    準備に心をくばれ、
    進歩について、なおいっそう心せよ、
    その成果を仕上げよ。

 以上の ことば は、私が敬愛する ギットン 氏 (Guitton, J. フランス の哲学者) から借用しました。
 [「読書・思索・文章」、安井源治 訳、中央出版社、41 ページ ]

 
じゅうぶんな準備をすることができなかった、というのは論外である。

 「準備に心をくばれ」 というのは、プレゼンテーション の テーマ が関与している領域において、できうるかぎり多数の参考文献を読破して、それぞれの参考文献のなかで述べられている論点を整理することです。論点の整理は、それほどむずかしい作業ではないでしょうね。なぜなら、読書計画を作成して、地道に読書して、丁寧な サブノート を作成するという プロセス どおりに対象を消化していけばよいから (読書計画の作成、読書のしかた、サブノート の作成などについては、「問わず語り」 のそれぞれの ページ を再読してください──98ページ、102ページ、150ページ、154ページと162ページ)。もし、準備段階で躓きがあるとすれば、参考文献を読破するためのじゅうぶんな時間枠を取ることができなかった、ということでしょうね。
 したがって、準備段階では、読書の時間枠を取ることが最大の懸案となります。それさえできれば、そして、丁寧な読書計画を作成すれば、準備の 50%は終わったも同然でしょうね。
 プレゼンテーション をしくじる理由の 1つとして 「じゅうぶんな準備をすることができなかった」 という点が言われることもありますが、論外です。じゅうぶんな準備ができないなら、プレゼンテーション を中止 (あるいは延期) すべきです。ちゃんと準備されていない プレゼンテーション は、講師にとっても聴衆にとっても、時間の無駄遣いに終わってしまうから。

 私は、一度、「緊急の代役」 をやったことがあります。或る講師が、セミナー の直前になって、講師を降りてしまったので、私が代役を頼まれたのですが、セミナー 開催日まで 1週間しかなかった。私は、当初、代役をお断りしたのですが──なぜなら、セミナー の中味は、1週間で準備できる代物ではない、と判断したから──、最終的には、請け負いました。ハンドアウト を作成するために 2日間を見積もれば、多数の参考文献を読むために取ることができる日数は 5日間しかなかった。セミナー は大成功でした。私は自慢話をしているのではない。だれが考えても、たった 5日間で、多数の参考文献を読破する余裕などない。幸いだったのは、セミナー の論点の多くは、私が、すでに作成していた サブノート のなかに整理されていたから、代役をこなすことができたのです。それでも、5日間は、ほとんど、寝ずじまいだった。こんな辛い仕事 (「緊急の代役」) は、二度とやりたくない、というのが正直な感想です。

 
数少ない材料 (インプット) を使って的確な論点 (アウトプット) を提示することはできない。

 じゅうぶんな準備ができないなら、プレゼンテーション を請け負うべきではない。逆に言えば、プレゼンテーション を、いったん、請け負ったなら、準備のための時間枠を、できうるかぎり、取ることを考えてください。日々の仕事をしていれば、いっぽうで、プレゼンテーション の開催日まで日数が多くあれば、往々にして、ギリギリ になるまで準備をしない性質が我々にはあるようですが、「早めに」 準備することが大切です。そのためには、「丁寧な」 読書計画を作成すれば良いでしょう。参考文献を読むためのじゅうぶんな時間枠を取って丁寧な読書計画を作成すれば、準備段階でしくじることは、まず、ない、と思います。
 数少ない材料 (インプット) を使って的確な論点 (アウトプット) を提示できる、ということは、まず、できっこない。そういうやりかたは、往々にして、プレゼンテーション は、「言い散らし」 になってしまい、「主張」 にはならない。数多くの材料 (インプット) を整理して、的確な論点 (アウトプット) を提示するのが確実なやりかたです。その点を配慮していれば、準備段階で躓くことはないでしょうね。

 
論点が熟成するためには、しんぼうづよい待機状態がなければならない。

 プレゼンテーション をしくじる最大の原因は、準備が終わった次の段階に潜んでいます。
 すなわち、ギットン 氏の言う 「進歩について、なおいっそう心せよ」 という点が陥落点になるのです。
 私は、自らが講師をした セミナー を振り返ってみて、うまくいかなかった セミナー をいくつか数えることができる。
 そして、うまくいかなかった セミナー には、1つの共通点があることに気づきました。その共通点というのは、中身が 「熟成していない」 という点です。言い換えれば、サブノート は丁寧に作成されていて、論点も端正に整理されているのだが、「訴えるもの」 がない状態なのです。つまり、論点を 「自らの ことば で」 提示することができない、ということです。あるいは、論点を 「自らの視点に立って再体系化できていない」 と言い換えてもいいでしょう。材料 (インプット) を、体裁良くして、そのまま、論点 (アウトプット) にしているだけ、という状態です。したがって、「訴える モノ」 がないし、プレゼンテーション をしていても、自信がない。俗に言う 「自らの モノ になっていない」 ということです。

 論点が自らの視点に立って提示できるほど熟成するためには、しんぼうづよい待機状態がなければならない。
 その待機状態のなかで、論点は 「進歩する (自らの視点に立って提示できるようになる)」 のです。そして、この待機状態は、準備期間のなかに考慮されていなければならない、ということです。

 
サブノート の文章のあいだに、自らの考えを書き入れる。

 自らの視点に立って論点を提示できるかどうか、ということは、サブノート としてまとめられた文章のあいだに、自らの考えを書き入れることができるかどうか、ということです。あるいは、サブノート に綴った文章を、もう一度、「自らの ことば を使って」 書き直すことができるかどうか、ということです。それができれば、論点を 「咀嚼」 していることになるでしょうね。そうすれば、論点を身近に感じて熱意を抱いて 「訴える」 ことができる (数少ない材料を使って、ただただ、大声で訴えることに比べたら、数段の進歩ですね)。
 極論になるかもしれないけれども、自らのほかに誰も語ることができないことを人に伝えなければならない、という覚悟がなければ、プレゼンテーション はやらないほうがいいでしょうね。

 さて、論点を自らの視点から提示できるようになれば、端正な目次を作成して、目次の項目に対して、プレゼンテーション の時間枠を割り振ればいいでしょう。

 およそ、仕事であれば、計画が大切なことは、古来、以下の ことば で言われてきました。

    Plan the work, work the plan.

 この言い伝えは、思想に関与する仕事でも同じように適用できるのですが、思想に関与する仕事では、準備段階において、さらに、「しんぼうづよい待機状態」 を配慮しなければならない、ということです。

 



[ 読みかた ] (2008年10月16日)

 小林秀雄 氏 (文芸評論家) の以下の ことば を 本 ホームページ のなかで いくどか引用してきました。

    現実といふものは、それが内的なものであれ、外的なものであれ、人間の言葉という
    ようなものと比べたら、凡そ比較を絶して豊富且つ微妙なものだ。そういう言語に
    絶する現実を前にして、言葉というものの貧弱さを痛感するからこそ、そこに文体と
    いうものについていろいろと工夫せざるを得ないのである。工夫せざるを得ないので
    あって、要もないのにわざわざ工夫するのではない。

 私は、この ことば を みずからの戒めにしています。

 プレゼンテーション の ハンドアウト においても、視覚に訴えるように きらびやかな装飾を施してある割りには、そして、りっぱな包装紙を開けてみたら、中身が陳腐な (あるいは、世上すでに疎通している月並みな) 言説しか包まれていなかったという ハンドアウト を私は多々観てきました。そういう ハンドアウト には キーワード のみが満載されていて、講師は それらの キーワード を読みあげるのみで、みずからが咀嚼していないので体系化されておらず、seminal な視点もないという 「紙の束」 でしかない ハンドアウト を私は多々観てきました。そういう ハンドアウト を作成しないように私は みずからを戒めてきました。

 私が はじめて公の場で──セミナー の開催を専門にしている企業 (ソフト・リサーチ・センター 社) で──セミナー 講師をしたのは、かれこれ、20数年前のことです。逆に言えば、私は、20数年にわたって セミナー 講師をやっています。そして、私は、セミナー 講師として デビュー したときに、その セミナー 会社で 講師として育ててもらったと言っていいでしょう。当時、私が作成した セミナー 体系・ハンドアウト を セミナー 企画者 (木村 氏) が レビュー なさって色々と助言していただき、私は幾度も体系を書き直したりもしました。私の当時の セミナー は、木村 氏との共作と言っても過言ではないほど、木村 氏の助言によって書き直され補訂されました。当時、新進の講師と セミナー 企画者は、喩えれば、運動選手と トレーナー のような関係にあって、選手は トレーナー の指導で伸びてゆくという土壌がありました。こういう土壌は、いまでも遺っているのかしら、、、ぜひとも遺っていてほしいと思います。今となれば、私は セミナー 講師として 20数年の経験を積んできたので、木村 氏から セミナー 体系を補訂されることもなくなったのですが、若い世代の エンジニア たちが、みずからの説・技術を世に問うときに、発表の場を得て次第に成長してゆくためには、そういう土壌がなければならないでしょうね。20数年前に、もし、そういう土壌で指導してもらわなかったら、今の私 (TM) は生まれていなかったでしょうね。最新技術に関して、その技術の専門家を招聘して セミナー を開催するということは セミナー の本義なのですが、いっぽうで、若手を育てることも セミナー の任務のひとつだと思います。若い世代の エンジニア が セミナー 講師を いくども勤めて、視点を次第に豊富にして技術を着実に拡げてゆくことは、講師にとっても業界にとっても益があることだと思います。ただし、そういうふうに若い世代の成長を期待するのであれば、本 エッセー の テーマ にしましたが 「しんぼうづよい待機期間 (熟成するための時間)」 がなければならない。でも、そういうふうに じっくりと熟成した果実は、促成栽培にはない芳醇な味があることは確かでしょうね。

 そして、ハンドアウト を作成するときに、「興に乗って一気に」 作成するというような霊感などを信用しないことです。そういう芸当ができた人物は モーツァルト のような天才のみであって、われわれ凡人は、そういう天才を真似して 「装うな」 ということです──そういうふうに装っても、ハンドアウト の中身がすべてを語っています。「努力しないで着想が浮かんだ」 などと言っても、われわれ エンジニア が問われている ちから は、その着想を 「手続き」 として具体化することであって、着想が頭のなかにあるかぎりでは、エンジニア の ちから の評価にはならない。たとえば、書物を執筆するときに、あらかじめ、頭のなかで構想を どれほど丁寧に練っていたとしても、実際に執筆してみれば、その構想が いかに粗かったかを思い知ることが多い。ひとつの体系 (構成) のなかで、着実に、章を ひとつずつ記述するしかない。そのためには、周到な執筆計画 (したがって、時間管理) が立てられていなければならないでしょうね。

 セミナー が書物と違う点は、書物においては書いてあることがすべてですが、セミナーでは ハンドアウト は資料にすぎないのであって 「語る」 ことが大きな比重を占めるという点でしょうね。したがって、逆説的に聞こえるかもしれないのですが、(ハンドアウト を丁寧に作成するいっぽうで、) ハンドアウト を そのまま読むのでは セミナー の意味がないということです。

 さて、本 エッセー の冒頭に引用した ギットン 氏の文を もう一度 確認して補遺を終わりにします。

    準備に心をくばれ、
    進歩について、なおいっそう心せよ、
    その成果を仕上げよ。





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  佐藤正美の問わず語り