2004年 3月16日 作成 読書のしかた (読書の目的) >> 目次 (テーマ ごと)
2009年 4月 1日 補遺  


 
 TH さん、きょうから、しばらくのあいだ、読書について考えてみましょう。

 
 まず、きょうは、読書の目的 を考えてみましょう。

書物を読みすぎるな。

 かって (8年ほど以前)、或る クライアント が私と契約するために、私の事務所を訪れてきました。3人 (部長、DA 候補、DBA 候補) が訪れてきました。3人と話していて、DA 候補の人が、データ 設計や IRM (Information Resource Management) に関して、豊富な知識を語っていたのですが、私は、彼に対して、次のように言いました。

  「書物を、もう、読まないでください。」

 私が、そう言った理由は、彼が 「ぎっしりと詰まった空虚」 にならないようにするためでした。私は、彼の話を聴いていて、彼には、すでに、そうとうな知識があることを感知しました。そして、彼が、今後、習得しなければならないことは、彼の考えを実現する 「技術」 を体得することだ、と私は思ったからです。
 後日、我々は契約を締結して、私は、彼といっしょに仕事をしました。そして、彼は、DA として、ついには、最高級の実力を体得しました。T字形 ER図の作成では、私を超える実力を体得しました。

 さて、以上の話をした理由は、「書物を読みすぎるな」 ということを示すためです。
 「不平を言わずに、静かに死ぬためには、書物を読みすぎるな」 と、マルクス・アウレリウス は言っています(注)。彼は、政治家であり、哲学者でした。すなわち、彼は、利害関係が交錯し、策謀が渦巻く世界のなかで仕事をするいっぽうで、物事の法則を考え抜く習慣も体得していた人物です。その人物にして、この言あり。

 
読書は、教養の化粧品ではない。仕事のなかで知識を得るために書物を読むことも、読書である。

 書物を読む目的には、以下の 3つがあるのではないでしょうか。

 (1 ) 仕事のなかで知識を得るため
 (2 ) 人生のなかで教養を得るため
 (3 ) 日々のなかで気晴らしを得るため

 仕事向けに読む書物は、読書の範疇に入れない、と考える人たちもいるようですが、人生観は、仕事 (職業) のなかで養われることを鑑みれば、(1 ) も、読書の範疇で扱うのが正当な考えかたでしょうね。

 書物を読む目的が違えば、当然ながら、書物の選びかたも違うでしょうね。「読書論」 と称する書物は、ほとんど、(2 ) に関する助言を提示していますが、(1 ) や (3 ) を対象としていない。でも、(2 ) ばかりが読書ではないので、(1 ) (2 ) および (3 ) の均衡が整っている読書こそ、理想的な読書ではないでしょうか。
 ただ、現代では、書物以外にも、多くの娯楽手段 (テレビ、映画、スポーツ、飲酒、パソコン など) を使うことができるので、(3 ) は、ほかの娯楽手段によって代替されていることが多いようです。

 (1 ) (2 ) および (3 ) の記述順序は、そのまま、(社会人にとって) 読書の優先順にもなっています。
 たとえば、人生のなかで教養を得るために、哲学・宗教・道徳・文学に関する書物を多く読んで、様々な概念を豊富に習得しても、習得した教養が、自らの人生のなかで具現されていなければ、仕事 (職業) のなかで体得した人生観に比べたら、脆弱でしょうね。だから、そういう書物を多く読んで、空虚なことば を弄しても、書物を読まないけれど、仕事を誠実にやってきた人たちの前では、虚言としか響かない。だから、誠実な読書子の気持ちのなかには、少々、「うしろめたさ」 が宿るようです。多くの書物を読んで、この恥じらいがないまま、習得した教養を朗々としゃべる人たちに対して、我々は、嫌悪感を抱くようです。

 
仕事用の書物を多量に読み、教養用の書物は、数少なくてもいいから、「良書」 を丁寧に読むほうが良い。

 ただ、職業に就いてからの読書のありかた というのは、(1 ) (2 ) そして (3 ) という順序系列が良いのですが、社会に出る (職業に就く) 前には、(1 ) の読書はできないし、自我が目覚めた年頃 (中学生以後) では、理性 (判断力)・情操・道徳性 の育成が大切ですから、(2 ) の読書が、論点になるようです。だから、「読書論」 は、(2 ) を中核とするのでしょうね。
 したがって、社会に出る (職業に就く) 前の段階で、自我を強烈に意識してから、読書をするので、(仕事のなかで体得した人生観を判断基準にできないので、) どうしても、読書のなかで得た・ほかの人たちの言葉を鸚鵡替えしに言うしかない。言い換えれば、自我を意識してから、読書すればするほど、他人の使う概念でいっぱいになった状態になる、ということですね。そして、そういう概念は、社会に出てから、逐次、検証されることになります。概念の検証を怠れば、「ぎっしりと詰まった空虚」 という状態になって、単なる 「歩く百科事典 (ただし、落丁の多い)」 になってしまいます。なぜなら、その人が記憶している概念 (百科事典的な知識) など、1冊の百科事典にも及ばないし、図書館に所蔵されている膨大な知識にも及ばないから。

 1つの概念を措定する (定立する) ことは大切なことですが、概念そのものには価値はない。或る概念が、ほかの概念と結ばれた関係のなかで、概念は 「意味」 を帯びるのでしょうね。
 社会人になってから、(1 ) の読書を対象にしなければならないので、社会人になる前に、(2 ) の豊富な読書量を誇っていた人でも、(2 ) の読書量は落ちてしまいます。そして、その現象は健全な読書態度だ、と思います。(1 ) (2 ) および (3 ) の読書目的から判断すれば、1 ) の読書量が豊富でなければならないし、(2 ) は、読書量が少なくても、いわゆる 「良書」 を丁寧に読む、というふうにならざるを得ないでしょうね。

 次回は、書物の選びかた を考えてみましょう。

 
[ 注釈 ]

(注) Marcus Aurelius Antoninus. 古代 ローマ 皇帝。ストア 学派の哲学者。著作 「自省録」。

 



[ 読みかた ] (2009年 4月 1日)

 職業に就いたあとでは、仕事に関する書物を読むようになるので、「人生のなかで教養を得るため」 の読書は、数が少なくなるのが ふつうなので、数が少なくとも 「良書」 を読むことを本 エッセー では述べています。私は、みずから、そういうふうに読書してきたつもりです。「日々のなかで気晴らしを得るため」 の読書を私は、ほとんど やらない。「気晴らし」 ならば、読書以外の手段のほうが魅力的だと思う(たとえば、ウェブ [ YouTube など ])──私は、「気晴らし」 ならば、書物よりも ウェブ のほうを選びます (勿論、私は、ウェブ を 「気晴らし」 のみで使っているのではなくて、仕事の情報を得るためにも使っています)。

 さて、「良書」 とは、「すぐれた・有益な 書物」 のことであると云っても、私の目的を満たすために、私の価値判断で選んだ書物ではなくて、数多くの人たちのあいだで高い評価を得てきた書物のことを云います。そういう書物は、人類が社会を構成してきた過程のなかで、数多くの人たちに影響を与えてきた書物です。したがって、「古典」 と呼ばれる書物が 「良書」 の大半を占めることになるでしょうね。それらの 「良書」 のなかには、当然ながら、私の価値観と ぶつかる反対意見を述べた書物もありますが、反対意見を読んで──しかも、「古典」 として読み継がれてきた意見は、最上級の思想なので──他の人たちの考えかたを知ることは 「人生のなかで教養を得るため」 に大切な書物です。みずからの意見にとって都合の良い書物ばかりを読んでいては、仲良しのみが集まって他の人たちを排除するような閉鎖的な つきあい と同じになってしまうでしょうね。パスカル は、みずからの思考力を養うために、じぶんの意見と反する書物を読んでいたそうです。

 ゲーテ が言っていたと記憶しているのですが、「私の杯は小さいかもしれないが、小さくても、じぶんの杯で飲む」 と。勿論、この 「杯」 は喩えであって、みずからの思考力のことです。ただ、こういう意見を自信を持って言うことができるというのは、ゲーテ のような大人物において そうなのであって──あるいは、そうとうな教養を身につけているひとにおいて そう言えることであって──、われわれ凡人が かれの意見を鵜呑みにしては拙 (まず) いでしょうね。

 読書では、「良書」 を数多く読むのが最上の やりかた なのでしょうが、職業に就いているひとは、読書のほかにもやらなければならないことが多いので、「良書」 を数が少なくても (できるかぎり) 読むように配慮したほうがいいでしょう。





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  佐藤正美の問わず語り