2004年 5月16日 作成 読書のしかた (言葉と精神) >> 目次 (テーマ ごと)
2009年 6月 1日 補遺  


 
 TH さん、きょうは、言葉と精神について考えてみましょう。

 
 仕事にために読む書物を 「読書」 のなかに入れない、という考えかたがあります。そう考える理由の 1つは、「読書」 を合目的な作業とみなすことを嫌っているのでしょうね。すなわち、読書を 「即物的な効き目」 と同一視することを嫌っているからでしょうね。言い換えれば、読書というのは、情操とか思考を養うことが目的であって、技術・工法を記述した マニュアル とは違う、という考えかたでしょうね。
 こういう考えかたのなかには、「精神・思考は、技術・工法に比べて、上等である」 という嫌らしさを私は感じます。
 私は、エンジニア だから、「頭 (思考) の働きと手 (技術) の動きは一致していなければならない」 という考えかたを信念の 1つにしています。

 たとえば、情操という観点から言えば、小説を読んで──ほかにも、音楽を聴いても、絵を観ても、いずれであってもいいですが──、感動したとしましょう。感動すれば、言葉を喪うでしょう。
 小説 (あるいは、音楽や絵) を、どういうふうに 「感知 (理解、解釈)」 したか、という点は、言葉を使って言わなければ、ほかの人には伝達できない。しかし、感動した状態は、「曰く、言い難し」。

 しかし、いっぽうでは、自らの感動を、ほかの人たちにも伝えたい、という気持ちも出てくるでしょう。「曰く、言い難し」 という状態を、できるかぎり、正確に記述して伝えたい、という気持ちが出てくるでしょう。そのときに、文章作法という技術を考えなければならない。逆説的になりますが、自らが、ほんとうに、言いたいことは、もっとも、言いにくいことなのかもしれないですね。「情」 の極限は、それを伝達するために、周到な技術を使わなければならない。
 したがって、「精神・思考は、技巧・工法に比べて、上等である」 という考えかたを私は嫌っています。

 言葉を開墾することが、精神を開墾することです。そして、言葉の開墾は、技術です。

 



[ 読みかた ] (2009年 6月 1日)

 私は、「情感たっぷりに思いを述べる」 ことを嫌う性質が強いようです。だから、私は、「能楽」 を好むのかもしれない。そして、私は、「形式」 を──文学であれば 「文体」 を、モデル (modeling) であれば 「論理法則」 を──尊重しています。たとえ、なんらかの即興であっても、なにがしかの 「形式」 を踏まえていない状態であれば、私は共感しない。こういう態度は堅苦しいのかもしれないのですが、「フニャフニャ に肥大した情感に浸る」 ことに比べたら マシ だと思っています。尤も、その 「フニャフニャ に肥大した情感を吐露する」 ことを 「人間的」 だと思っている人たちから観れば、私は 「高慢」 な ヤツ に見えるかもしれない。

 「情感たっぷりに思いを述べる」 ことを嫌う性質が強い私は、その実、「フニャフニャ に肥大した情感に浸る」 性質も強い。ただ、その情感を直にあらわすことが 「人間的」 だと私は毛頭思わない。私に云わせれば、「人間的」 というのは 「フォルム」──しかも、的確な思考で作られた 「フォルム」── を持つだと思っています。なんらかの現実的事態を──あるいは、想像が産み出す対象でもいいのですが──「認識」 しようと試みるのであれば、かならず、「フォルム」 を考えなければならないでしょう。というのは、「事実」 は 「判断」 の産物であって、「判断」 は、かならず、「思考の手続き」 を前提にするから。その意味において、本 エッセー で述べたように、精神が技術に比べて高尚であるということを私は ウソ だと思っていますし、「思考と技術は一致していなければならない」 と思っています。





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  佐藤正美の問わず語り