2004年 6月 1日 作成 読書のしかた (作用と反作用) >> 目次 (テーマ ごと)
2009年 6月16日 補遺  


 
 TH さん、きょうは、作用と反作用について考えてみましょう。

 
● 専門的な知識が豊富にあっても、日常生活の良識がない人たちのことを 「absent-minded professor」 という。

 専門領域 (あるいは、興味を抱いている領域) の書物だけを読んでいると、どうしても、「偏り (skewness)」 が出てしまいます。専門的な仕事をしていれば、そういう現象は当然なことですが、いっぽうで、我々は、日常生活のなかで、一般消費者である、ということも事実です。生産活動が次第に専門的になっても、消費活動は、専門的になるということはないようですね (笑)。

 職業として、企業 (事業) の データベース を作っていても、データベース 技術は、日常生活では、なんら、直接的に役立たない (笑)。専門的な知識が豊富にあっても、日常生活の良識がない人たちのことを──そういう人たちの典型的な例として、大学教授が標的にされていますが (笑)──、英語では、「absent-minded professor」 として、皮肉的に (あるいは、愛嬌的に?) 称しているようです。

 なお、「absent-minded professor」 は、「新英和笑辞典」(郡司利男 編、研究社) では、以下のように定義されていました──その定義を読んで、私は大笑いしました。

   One who forgets to remember or remembers to forget.

 
● 仕事のやりかたを尺度にして日常の事態を割り切ってしまうのは、思考の削除であり、言葉の平均化である。

 さて、読書のなかで、専門領域に関する読書量の比率が高いことは当然ですが、仕事のなかで得られる 1次 データ (生の データ) を除けば、我々が日常生活のなかで得る情報の多くは、新聞や雑誌などの マスコミ が提示する情報でしょう。仕事に集中すれば、仕事が終わってから疲れるでしょうし、疲れていれば、仕事以外の余計なこと (?) に対して関与したくないという気持ちも起こるでしょう。あるいは、専門領域のやりかたを、そのまま、無理矢理に、日常生活の判断規準として、流用してしまうかもしれないですね。

 いずれにしても、仕事以外には興味がない怠慢さとか、仕事のやりかたを尺度にして 「すべて」 の事態を割り切ってしまう傲慢さとかに陥ってしまうと、新聞や雑誌のなかで多用されている cliche とか、仕事の専門用語とかを使って、(自らが直接に関与していない報道された) 事態を安直に即断してしまうでしょう。すなわち、思考を削除して、言葉が平均化してしまっている。

 良識というのは、「賛否両論を公平に聴くことができる」 ことを云うのではないでしょうか。「偏り」 を矯正するためには、その反作用を加えることでしょうね。すなわち、専門領域とは正反対の領域に関して、専門領域と同じくらいの読書をすればよい、ということです。はげしい運動をすれば、筋肉を集中して使うので、筋肉が凝り固まりますが、凝った筋肉をほぐすために、はげしい運動のあとでは、ストレッチ 体操をするそうです。読書の ストレッチ 体操が、以前、「佐藤正美の問わず語り」 のなかで綴った 「三角点」 (1つの専門領域と 2つの趣味) です [ 262ページ参照 ]。
 作用と反作用が拮抗した 「(ダイナミック な) 均衡」 を、私は大切にしたい、と思う。

 



[ 読みかた ] (2009年 6月16日)

 本 エッセー を読み返してみて、当時 (エッセー を綴ったとき)、なんで 「作用と反作用」 を テーマ にしたのか 推測できなかったのですが、たぶん、本 エッセー の最終文に記した 「作用と反作用が拮抗した 『(ダイナミック な) 均衡』」 を、一般の読書子としてたいせつにしたい、という思いが強かったのでしょう。或る意味では、その点こそ、(専門家に比べて、) 一般の読書子の強みかもしれない。というのは、専門家は、どうしても、専門領域の研究書を できるかぎり多く読まなければならないので──過去から現代に至る 「学問の系譜」 (研究領域で記された多数の論文) を読まなければならないので──、読書は いきおい 専門領域に限られてしまうでしょうが、一般の読書子は、そういう責務を免れているので、「じぶんの生活を考えるために役立つ」 読書を進めればいいので。

 ただ、一般の読書子は専門家でないと云えども、事態を不偏不党に観る態度をもっていなければならないでしょうね。すなわち、「賛否」 の それぞれの意見を忖度できる ちから をもっていなければならないでしょう──「賛否」 も 「作用と反作用」 ですね。

 小林秀雄 (文芸評論家) は、以下の文を遺しています。(参考)

    ニュートン という人は、無論、今日私達の言う理学博士ではないので、実に広大な知識と洞察力とを
    持った、深く宗教的な人間であった。現代風の学問は、こんな簡単な事実も忘れ勝ちである。「プリン
    キピア」 は、「考える人々を、神への信仰に導く為の諸原理」 という、はっきりした目的で書かれた
    ものだ。従って、彼にとって、一番重要な問題は、人生の意味であったと考えて少しも差支えない。

 おそらく、この態度が、一般の読書子にとっての読書のありかたでしょうね。

 
(参考) 「古典と伝統について」(思想との対話 6)、講談社、220 ページ。
     同書に収められている随筆 「歴史」 から引用しました。





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  佐藤正美の問わず語り