2005年 2月16日 作成 読書のしかた (相互作用と自律性) >> 目次 (テーマ ごと)
2010年 2月16日 補遺  


 
 TH さん、きょうは、「相互作用と自律性」 について考えてみましょう。

 
 私は、データベース 設計を仕事にしています。そして、仕事のなかで、数学的・哲学的な 「関係の論理 (aRb)」 という概念を中核思想にしています。「関係」 を第一義の事象として考えれば、およそ、モノ は、単独では、意味を為さない、というふうに考える癖が着いています。いかなる ささやかな モノ であれ、それが 「意味」 を示すのは、なんらかの体系の中でしかない、というふうに考える癖が着いています。

 そういうふうに考えれば、1つの モノ には、ほかの モノ との相互作用 (他律) があるし、かつ、その モノ が、相互作用のなかで影響されながらも、自ら、以前の状態を改良して、前進する自律性もある、ということを、つよく意識します。

 相互作用のなかで自律性が伸びる、というのが、いちばんに良い状態なのでしょうが、ときどき、相互作用が大きいので (言い換えれば、ほかの モノ からの作用が大きく及んで、反作用が起こらないので)、自律性が萎縮してしまうこともあるでしょうし──たとえば、天才が遺した書物を読むときに、そういう現象が起こりますが──、相互作用を意識的に遮断して、独自性 (自律性) を伸ばしたいと思っても、我々凡人が、そういうふうに振る舞えば、所詮、平凡のままに止まって、伸びることはできないでしょう。

 天才は、ほかの人たちの考えを、進んで摂取したようです。たとえば、ウィトゲンシュタイン 氏は──強烈な独自性を示した天才ですが──、「私は、ほかの人たちの考えを、上手に取り込んでいるにすぎない」 と言っています (「反哲学的断章」)。

 独自性を力説するために、「ほかの人たちの真似をするな」 というふうに言う人たちもいますが、我々凡人が、いくら、がんばっても、出てくる着想など、高が知れているでしょうね。あるいは、独自性を狙っているつもりでも、ほかの人たちが、すでに、実現してしまっていることを、知らないまま、ムダ な骨折りをやってしまうことになりかねない。もっとも、そういう人は、相互関係を無視しているので、たとえ、のちのち、ほかの人が、すでに、実現してしまっていると知っても、「以前の私に比べて、一歩進んだので、ムダ ではない」 と、うそぶいて満足するかもしれない。ただ、なんらかの community に帰属している人が、community に対して、貢献できない、というのでは、さびしい人生ではないか、、、。言い換えれば、そういう自律性を、独自性とは言ってみても、存在性のない独自性にすぎないし、独自性とは、そもそも、ほかの対象と対比して認識される性質なのだから。

 独自性 (自律性) を伸ばすのなら、ほかの人たちの考えを、まず、真似すれば良い、と思う。そして、真似する 「鑑」 は、歴史のなかに、考えを遺した人物が良いでしょうね。そういう天才たちを真似しても、我々凡人は、(孫悟空が釈迦の掌のなかで足掻いていたように、) 彼らを超えることなどできないのだから。それでも、すぐれた人たちを真似れば、我々の考えかたを、いくらか、進めことができるでしょうね。

 或る テーマ を研究するなら、その テーマ に関して、いままで、どういうことが提示されてきたのか、という点を調べることは、研究の第一歩です。そういう調査を無視して、独自性を狙っても、ムダな骨折りに終わります──よほどの天才を除いて。この点は、経営過程でも、同じであって、事業が営まれている環境 (マーケット や競争企業など) を調べて、環境の変化に対応しながら、事業を進める、というのが 「戦略」 ですから。

 「相互作用を無視した独自性」 という言いかたはない。
 書物を、多数、読んで、ほかの人たちの考えを摂取してください。

 



[ 読みかた ] (2010年 2月16日)

 「ひとりの哲学者の遺すもの、それは彼の気質だ、、、。生きれば生きるほど彼はますますおのれ自身に立ち帰ることになるだろう」 (シオラン)。そうであれば、哲学書は、哲学者の気質が刻まれた書物でしょうね。そして、文学作品も、作家の面貌が隅々にまで刻まれた作品です。読書のなかで、そういう書物が多ければ、読み手は、たぶん、自然と [ 直感的に ] じぶんに似た気質の哲学者・作家の作品を読むようになるでしょうね。書物を読んで、いささかも感応しないのであれば、なんら作用は起こらないでしょう。

 ただ、気質にあう哲学者たち・作家たちばかりを読んでいると、その気質・感性が伸びても、実社会においては他の見かたも存在しうるのだから、じぶんの性質とは正反対の哲学者たち・作家たちを読むことも大事でしょうね。 気晴らしに読む書物を除けば、読書では、じぶんの人生に対して なんらかの作用を及ぼすであろうと想像される書物を選んでいるのではないかしら。そして、その選択を意図的におこなうのが 「読書計画」 でしょう。

 「私は他人の考えかたなど聞かない。じぶんの頭で考える」 などと謂うのは、高慢じゃなくて、阿房にすぎない。 或る意味では、哲学史・文学史に遺った 「古典」 的な著述・作品というのは、多くの人たちに影響を与えてきた書物でしょうね。哲学書・文学書は、それらの研究家たちの論文のための 「参考文献 (標本)」 ではなくて、一般の人たちにも読まれてきた書物です。紀元前に生きた ソクラテス・プラトン・アリストテレス が、現代人にとって 「化石」 で役に立たないということは絶対にない──私の周りにいる人たちで、彼らを超える思考力を見せてくれるひとはいない。とすれば、彼らを 「鑑」 としても奇怪 (おか) しいはずがない。

 そして、「個性」 は、他人との対比のなかで認識される性質であって、他人との相互作用のなかで伸びる特性でしょう──「じぶんが じぶんを じぶん する」 などということは、大宗教家でもないかぎり無理なことでしょう。他人からの影響を怖れることは更々ないと思う──他人からの影響が最初は 「真似」 のように チグハグ していても、もし、じぶんが真摯に生活しているのであれば、いずれ、じぶんの いちぶとして摂取されるでしょう。





  << もどる HOME すすむ >>
  佐藤正美の問わず語り