2005年 3月 1日 作成 読書のしかた (独自性と継承知識) >> 目次 (テーマ ごと)
2010年 3月 1日 補遺  


 
 TH さん、きょうは、「独自性と継承知識」 について考えてみましょう。

 
 「社会」 という概念は、非常に抽象的です。
 というのは、我々が直接に体験できる空間的・時間的な区域は、限られているので、「社会」 という概念は、報道機関とか書物とか ウェブなどを通して描かれた世界 (あるいは、概念的に作られた世界) である、ということです。
 TH さんが抱いている社会の概念と、私が抱いている 「社会」 の概念は、相違するでしょう、きっと。

 そういう概念的な社会のなかで、具体的な交渉として成立するのは、活字や映像や統計などを前提にしていない 「生身の」 関係でしょう。ただ、「生身の」 関係は、空間的にも時間的にも、範囲が限られている。新潟県中越地震を直接に体験していない人たちが新潟県中越地震に対して 「社会の一員として」 反応して支援することは、「生身の」 関係のなかでは出てこない。直接的な体験を重視すると言っても、その体験のなかには、報道を聞いて得た (間接的な) 情報が ふくまれているはずです。もっと、正確に言えば、我々が得ている情報のほとんどが、間接的でしょうね。

 そういう膨大な間接的情報が、もし、思考に対して影響を及ぼしているとすれば──たとえば、そういう間接的情報を資料にして、内的に、なんらかの 「像」 が作られているとすれば──、我々の思考のほとんどは、「社会的な制約」 のなかで作用している、ということになるでしょうね。言い換えれば、我々の思考のなかには、「独自性」 というのは、ほとんど、ない、ということになるでしょうね。情報と内的像のあいだに、或る パターン (写像形) が、社会的合意として作られてしまうと、はたして、我々は、「パブロフ の犬」 と比べて、どのくらい、進歩しているのか、、、。

 ポパー 氏 (Popper, K.R.) は、知識の進化論的 アプローチ として、以下の式を示しました。

    P1 → TT → EE → P2

 P1は、思考対象となった問題点です。P1からはじまって、TT という 「暫定的な ソリューション (あるいは、理論)」 に進みます。TT は、部分的あるいは全体的に、間違った理論かもしれない。そして、EE という 「誤り排除」──すなわち、実験的 テスト や験証や反証──の篩 (ふるい) にかけられます。「進化論的 アプローチ」 と云っているように、生物の進化 (ダーウィン の進化論) を アナロジー としているのですが、知識に関して、そういう進歩を簡明に記述した点が、彼の 「独自性」 でしょうね。

 もし、知識が、そういうふうに進歩するのであれば、我々は、歴史のなかで継承してきた膨大な知識を前提にして、一歩を進めることになるし、したがって、その一歩は、継承されてきた膨大な知識量に比べたら──それを、大海として喩えてみれば──、極小な一滴にすぎない、ということになるでしょうね。

 「独自性」 を示すように鼓舞することは良いことなのでしょうが、いっぽうで、歴史のなかで、社会のなかで、継承されてきた膨大な知識量 (あるいは、理論) に対して、意識を向けることも大切なことではないでしょうか。或る作家 (小説家) は、趣味を訊かれて、以下のように応えました。

   「学問すること」

 その作家の真意を想像することはできないのですが、少なくとも、「学問」 を大切にしていることは理解できます。
 歴史のなかで継承され進歩してきた 「学問」 という広大な領域を、(「独自性」 などという小さな矜持を捨て、) まず、謙虚に訪れるほうが、学習態度として、正しいのではないでしょうか。そして、「向こうの世界 (学問の世界)」 から、現実的事象を観て、理論が事象に対して適応できるかどうか、という点を考えて、適用のための工夫をするほうが、(「学問」 を無視して、) 「独自性」 を打ち出そうとすることに比べて、正当である、と私は思っています。そういう態度を養う 1つの──そして、きわめて、大きな比重を占める──手段が読書でしょうね。

 



[ 読みかた ] (2010年 3月 1日)

 私が大学生だった頃、入試を通って ほぼ同じような学力をもった学生たちが集まった場で、しかも、いまだ 「学習」 という受身行為が主体になっている場で、じぶんが どういう人物 (人格、人材) であるのか を把握できない──あるいは、証明できない──焦燥感を覚えて、「他人とはちがう」 という点を なんとか示したいと思い、「個性を養う」 ことを謳った書物 (ハウ・ツー 本?) を多数読んでいました。当時、私は 「個性の育成」 を 「第一原理」 にしていたとさえ云えるかもしれない。学業以外で 「じぶんの力 (ちから) を証明する」 機会が与えられていない場で、大学生にもなれば 「自我」 が強く芽生えていて、私の意識は、「じぶんを証明する」 行為をともなわないままに肥大化して、「他人とは ちがう」 (あるいは、他人とはちがう存在でいたい) という対比意識が強くなっていました。言い換えれば、当時、「個性」 とは謳っていても、対比意識の変化形にすぎなかった。すなわち、じぶんの行為で証明しなければならない性質を、しかし、行為する場がなかったので、他人との比較のなかで確認しようとしたにすぎなかった。勿論、それは 「個性」 ではない。

 50歳台も半ばを過ぎれば、否が応でも、「個性」 を感じざるを得ない。そして、それは、もう、手の入れることのできない鬱蒼とした密林に似ている状態です。それを良しとするか後悔するか──本人の 「決め込み」 次第でしょうね。私のことを云えば、どんなに好意的に観ても、後悔しかない。





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  佐藤正美の問わず語り