2005年 4月 1日 作成 読書のしかた (小説) >> 目次 (テーマ ごと)
2010年 4月 1日 補遺  


 
 TH さん、きょうは、「小説」 について考えてみましょう。

 
 「小説」 に対して、「文学論」 を披露するほどに、私の読書能力は、すぐれている訳ではないし、そもそも、小説に関して、私の読書経験は、極めて少ない。

 私は、大学生の頃、小説家になりたい、と思っていました。そして、当時、同人誌を作ることも計画しました。しかし、今から振り返ってみれば、当時の私は、作品を丁寧に読まないで、作家の 「思い」 を感じ取らないまま、批評家が綴った書評を読んで、それを巧みに言い換えて、「箴言」 めいたことを言い散らして、「作者の考えを遡及する力がある」 とか 「批評の観点が鋭い」 というふうに、まわりの人たちに言われて、「私は文学を知っている」 と思い違いしていた、ということにすぎなかったようです。

 そして、(20歳代には、小説を、多数、読んでいましたが、) 30歳代から今 (51歳) に及ぶまで、私の読書領域は、数学・論理学・哲学が高い比率を占めて、小説を、ほとんど、読んでいない。数学・論理学・哲学に対して、だれもが、或る程度、意見を述べることは、まず、できないでしょうが、小説 (あるいは、もっと、広義に、文学とか芸術) に対しては、だれもが、或る程度、意見を述べることができる、という点が、自称 「文学青年」 を生む土壌になっているようです。
 以下に綴る意見は、かって、自称 「文学青年」 だった──そして、過去20年ほど、小説を読んでいない──輩 (やから) の戯言として読んでください。

 小説家は──そして、たぶん、画家も、そうであると、私は想像しているのですが──、物語を作る際、作中人物の心理 (知・情・意) を、われわれが、ふだん、生活のなかで実感する以上の精緻さで記述して、しかも、それらの心理 (知・情・意) が、「(できごと の) 偶然」 のなかで、巧みに作用するように、作中人物たちのあいだに起こる関係を施す (人為的に作る) のではないでしょうか。作中人物の性質や できごと を、断片的に、増大したり、制限して、しかも、「物語を、とぎれないように──『自然に』 進むように──構成する」 力 (ちから) が、小説家の才識でしょうね。

 小児 (こども) にも、事象を、断片的に、増大したり制限したりする 「感覚」 は、あるようですが、構成として、「人為的な」 自然さがない──言い換えれば、「人為的な」 施しが、そのまま、露呈されています。たとえば、小児 (こども) が描く絵画では、太陽が、人物に比べて、大きいとか。つまり、認知した大切さが、そのまま、「大きさ」 として描かれている作為が遺っています。そういう絵画を観ても、作画の 「意図」 を判断 (想像) することはできますが、「感動 (あるいは、共感)」 は、まず、起こらない。

 「人為的な」 自然さを作るためには、まず、「正確に観る」 ことが前提になっているはずです──「北斎漫画」 を観て、私は、そう思う。そして、北斎は、化け物を描く名手でした。小説家も、おそらく、同じではないでしょうか。小説というのは、現実よりも、いっそう的確な観察である、と言っても良いのではないでしょうか。したがって、報道文は、その性質として、小説にはならない。「愛」 とか 「憎しみ」 とか 「運命」 という、およそ、掴み所のない、しかし、人間関係の底辺にある 「ゴツゴツ として感じられる」 情念を、小説家は、小説のなかで、(まるで、科学者のように、) 観察して実験するのではないでしょうか。科学者は、事実を 「正確に観て」、汎用的な モデル を作りますが、小説家 (あるいは、画家) は、事実を 「デフォルメ して」、事実を、いっそう、真実のように伝えるのでしょう。

 以上の意見は、「物語」 のみを対象にしたのですが、「物語りを読んで愉しむ」 というのが、小説の文学形式である、と私は思っています--そういう単純な考えかたは、文学の専門家から非難されるかもしれないけれど。
 昔──いつのことだったのか、正確に想い出すことができないのですが、たぶん、私が高校生だった頃かもしれない──、草柳大蔵さん (批評家) と川端康成さん (小説家) が、テレビ 対談なさったのですが、草柳さんが、「川端文学」 に対して、(好意的な) 批評を述べられたとき、文学論に出てくるような用語を多用なさったので、作家が、「なにも、そういう むずかしいことを言わなくても」 とおっしゃったのを、私は、今でも、思い起こします。

 小説を読まなくても、生活するには、困らない。逆に、小説を多く読んでいる人のほうが、読まない人に比べて、なまじ、人生を知っているというふうに装う いやらしさ があるかもしれない。

 歌人の西行は、源頼朝と会ったことがあるそうです。そして、頼朝が歌のことを訊ねたら、西行は以下のように言ったことが、「吾妻鑑」 のなかに記されています。

  「全ク奥旨ヲ知ラズ」

 つまり、歌に関して、根本の性質とか、最良の技巧などを、当代きっての歌人たる西行は、「知らない (わからない)」 と言っています。西行の言ったことを、そのまま、字句どおりに理解して良いかどうか、という点をべつにしても、「(歌の奥義を) 語り得ない」 というのは、彼の偽りのない意見でしょうね。もし、根本の性質や最良の技巧を語ることができ、だれでもが理解できるなら、歌を作ることなどは、魅力のない技術になっているでしょうし、もはや、だれも、興味を抱かなかったでしょう。

 作文作法が巧みでも、小説を作ることはできない。「物語を読んで愉しみ、『言い得ない』 情念に共感する」 ことが、小説を読む、ということではないでしょうか。モジリアニ (画家) の描いた 「青い目の女」 が伝える 「言い知れぬ悲哀」 は、絵画という手段を使ってしか表現できないように、小説は、道徳を語る手段でもなければ、哲学でもなくて、あくまで、「物語る」 という手段のなかで、「言い得ない」 情念を伝える文学形式でしょう。
 小説を読まなくても、生活には、困らない。しかし、(気晴らしの読書をべつにすれば、そして、読む小説として、一流の古典を選べば、) 小説を読む前と、小説を読んだあとでは、読者の精神 (知・情・意) には、変化が、確実に、起こるはずです。

 小説を読んで書評を綴らなければならない批評家をべつにすれば、われわれは、主人公といっしょに、作品のなかで、翻弄されるのが、小説を味わう読みかただ、と思う。空間的・時間的に限られた自らの人生のなかで、そういう体験を、数多くすればするほど、精神が豊かになる、というのは、案外、正しいのかもしれない。しかし、読書が、精神修養を目的としたとたんに、嫌みが漂うでしょうね。「愉しみ」 という軽さと、「言い得ぬ情念に共感する」 という重さを、同時に味わうという兼ねあいが、むずかしい。小説──あるいは、芸術──を味わうという営みは、重たさの隠 (こも) った軽さを意識できるようになってからであって、案外、40歳を超えなければ、できないのかもしれない。言い換えれば、小説を読むというのは、(「文学青年」 という言いかたがされているけれど、) 青春時代に患う麻疹ではない、と思う。近年、若い小説家が、芥川賞を受賞しているので、彼らの小説を読んでみたい、と思っています。若い小説家が、「軽さと重さ」 を、同時に、どこまで、描き切っているのか、という点を読みたい、と思っています。でも、私は読まないでしょう。というのは、ほかに読まなければならない 「古典」 が多いから。

 



[ 読みかた ] (2010年 4月 1日)

 「どうして小説を読んでいるのか」 と問われれば、私は返答に窮します──「どうして クラシック 音楽を聴いているのか」 という問いに対しても同じように、私は返答に窮します。「つきあっていて、愉快だから」 としか謂いようがない。「つきあっていて、愉快」 な状態であるならば、小説や音楽の他にも数多くの物事が存在するので──たとえば、ウェブ とか──、小説や音楽を選ぶには、それなりの理由があるでしょうね。「教養のために」 などという意図は、私には、更々ない。「教養のため」 であれば、私は、他の書物を読みます──たとえば、科学書とか。小説を読んでいて、私が感じている気持ちは、「友だちと つきあっていて、愉しい」 という気持ちに近い。だから、私の読書は、ひとりの作家の多数の作品 [ たとえば、全集・選集など ] を じっくりと読むという傾向が強い。

 私の読書が 「友だちとつきあう」 ことに近いと云っても、私が つきあってきた小説家たちは、感受性の強い・観察眼の鋭い・思考の逞しい・文才の豊かな作家たちなので、それらの ちから が乏しい私にとって、およそ、「対等」 な つきあい にはならないでしょうね。そうかといって、かれらが 「私の年長で人生を歩み、様々なことを知っている先覚」 だとも思っていない。ただ、かれらが作品を書いたときの年齢に比べて、いまでは、私のほうが年上なのですが、かれらの 「事態を観る視点 [ 解釈 ] 」 に対して感嘆することが多いのは事実です。それでも、かれらを 「人生の達人」 だと思ったことは、私には一度もない [ 三島由紀夫氏の 「仮面の告白」 を読んで、われわれは、かれを 「人生の達人 (あるいは、先達)」 だと、はたして、思うかしら ]。小説を読んで私が ワクワク する理由として、確実に言えることは、「語りの巧さ」 です──それが、作家の 「文体」 ということでしょうね。どんなに 「構想」 が すぐれていても、「語りの巧さ」 を感じない作家を私は好きじゃない──そういう作家がだれであるかを、ここで具体的に語るのを止めますが、たいがい、ストリーテーラー (a storyteller) と評されている小説家がそうです [ 材料そのものが有する絶妙さに助けられているにすぎない (「事実は小説よりも奇なり」 とは、そういうことでしょうね) ]。

 本 エッセー のなかで、「重さの隠った軽さ」 という言いかたを私はしましたが、今読み返してみて、的確な表現じゃないなあ、、、「俗のなかの雅」 ではどうか、、、だめだめ、、、「実ありて悲しき」──「これらは歌の実ありて、しかも悲しびをそふる」 (芭蕉が 「柴門ノ辞」 のなかで引用した後鳥羽院の詞、したがって、私のは孫引き)──は、どうか。たしかに そうかもしれないけれど、それなら 「歌」 であって、「小説」 ではないなあ、、、「実ありて悲しき」 は、「歌」 であれ 「小説」 であれ、およそ、文芸であれば感じられる性質だから。もし、それ (「実ありて悲しき」) が文芸の性質だとすれば、「歌」 の文字数に比べて、文字数の多い 「小説」 では 「構成」 が形式的要件であって、やっぱり、「語りの巧さ」 (構成と文体) が命なのかもしれない。そして、それは、「教養」 とか 「道徳」 と関係のない技術でしょうね。





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  佐藤正美の問わず語り