思想の花びら 2018年 8月 1日


 ●  アラン (哲学者) のことば

  法則に準じた悟性の諸形式である仮説と、多少は整頓された想像の戯れである憶測とを混同しないだけの準備は、もう読者諸君にはできているはずだ。(略) 裁判官がこの被告は有罪だあるいは彼はこの窓から逃げたとかこの足跡は当人の足跡だとか思いめぐらす際、裁判官は憶測をしているにすぎない。しかし、殺人者の姿勢と短刀の位置とを力学上から結びつけて考える際には、二つの形跡から一つの運動を再建するのだから、一種の仮説を立てていることになる。運動は常に精神によって再建されるもので、変化の形式であり、感じられる変化とは運動の素材にすぎないのだから。(略) 憶測は存在を設定し、仮説は本質を設定する。またいろいろな学問があんまりたくさんの憶測を背負いすぎているということもわかる。これを機会に言っておくが、存在は、決して設定されも仮定されもしない、ただ認知されるものだ。以上述べたところをよく考えてみると、近頃はすぐれた書物のなかでも、仮説と憶測とが混同されているのに気がつくと思う。

 



 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  諸々の宗教を有用物とし、これを単に学問や知識の対象とするのは我が求道者たちの厳に戒めたところである。(略) 上宮太子の御信念は申すまでもないが、近くは プロテスタンティズム における内村鑑三の仕事を考へてみても、宗派に属せず、教義にとらはれず、たゞ純潔な一片の信心をもつて、仏陀自身あるひは耶蘇自身の本然の相と偕に在らんと覚悟し、一切の夾雑物を剥奪すべく戦つたのである。そのため神ながらの道に直面し憂悩したことも深い。だが、さういふ苦しみを自他に対して誤魔化さず、憂悩の裡にひとへに人間の高貴性のために戦ひ殉じた、その生涯の姿が私には尊く思はれるのである。彼らはまづ胸をひらいて己が衷情を訴へた。自分の言説に、一々これは愛国的だと弁明註釈するごとき無恥の行為はしなかつたのである。

 


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