思想の花びら 2018年12月15日


 ●  アラン (哲学者) のことば

  自然がどれほど固定しがたいものとなろうとも、再びかえらぬ旋風が四季に代って荒れまわるようなことになろうとも、それは曲がりなりにでも考えられるものであるはずだ。方向、距離、力、速度、質量、張力、圧力、数、代数学、幾何学、そういう不断の支配の手をかりて。(略) こういう自然の諸法則や諸形式は僕らの道具であり、器械であり、星の進路をしらべて、ぎりぎりの正確さまで行きつこうとすれば、星の進路は勢い果てしなく複雑なものになるだろうが、これを捕える直線や円や楕円や力、質量、加速度などという道具は依然として通用する。こういう諸要素は運動自体の諸要素であり、運動は形式に由来するものであって、はじめて目がさめたときの影像によりできあがったものとして与えられたものではない。正しくいえば、法則のない運動は運動とはいえない。

 



 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  神道是か、仏法是か、さういふ議論に私は何の興味も感じない。いづれが是なりと非なりと人生苦に変りはあるまい。釈尊の教よりも耶蘇の教よりも、更に深いものは人生苦自体である。そこから発して、見えざる処で慟哭と祈りに一切があるであらうに。そこにのみ何ものかが在 (いま) す。名を言ふことも説き明かすことも出来ないが、感じることだけは出来るといふ世の深さ。何びとも之を奪ふことは出来まい。まづこの根源を思はねばならぬのに、何故宗派と宗旨といふ転倒した立場から論議が始るのか。排仏棄釈をやつてみるとよいと思ふ。何事でもやるがいい。生命の痛苦は絶えないだらう。

 


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