思想の花びら 2019年 9月 1日


 ●  アラン (哲学者) のことば

  他人からあるいはすべての物から截然と区別をつけて、僕のからだや行為をみごとに表現するこのというささやかな言葉は、ひとたびこれを自分に対立されたり、自分から区別したり、いわば自分で自分の葬式に出かけるようなことをすると、たちまち弁証法の源が姿を現わす。
  (略) 僕は自分自身しか思い出さない、とは単なる重複で、僕は思い出すで充分である、と。こういう場合は、言葉というものが少々便利すぎるので、反省にたよって成功を過信した例である。物が欠ければ思想は支柱を失うものだ。考えは、考えの働きのうちに、しかも物を支持するものとしてとらえなければならぬ、これが思索というものの一条件なのだが、この条件は容易に人目に触れないところにあるので、まず人は言葉しか見つからない自己のうちにひっこみたがる。

 



 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  「無私」 を思ふものは 「私」 の地獄について知悉してゐなければならぬ筈だ。神の血統を承け継ぐとは、永久に追放されたものの血統を承け継ぐことである。即ち人間の救ひは保証出来ぬといふ課題を。即ち絶望を。こゝにおいて懐疑は一つの自己犠牲である。永遠に救はれざるものの裡以外、どこに神の証明の場があらう。神自身にあるのではない。

 


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