思想の花びら 2020年 2月 1日


 ●  アラン (哲学者) のことば

  善は信じなければならぬ、なぜかというと、そんなものは存在しないのだから、正義もまたそうだ。正義は愛せられ望まれると信ずるなかれ。そう信じても正義になにもの加えることにならぬからだ。ただ、自分は正義をおこなうと信じたまえ。正義は、僕らの手をわずらわさずとも、力によってなる、とある マルクシスト は信じている。この思想をたどってみるがよい。成るものは正義ではない、事物の一状態にすぎぬ。僕自身に関する正義の思想も同じことだ。すべてのものが、僕の思想もまた、ひとりでにできあがるなら、およそ思想の価値に高下はないわけだ、力によって得るものしか思想は持っていないのだから。(略) なおろうと欲しない病人は放っておかねばならぬ。

 



 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  たとへば仏像は、元来仏殿に安置されて拝むものであり、茶碗は茶を飲む道具であり、刀剣は人を殺す武器であるか護身用のものである。各々その本来在るべき場所、即ち日常の信仰とか生活から隔離されて、博物館の ガラス の ケース の中に陳列されることは、それに対する鑑賞に制約をもたらす。これは重大なことだ。茶碗は手にとつて眺め、愛撫し、それで茶を飲むことによつて、はじめて我々と親しい肉体的関係に入る。さういふ美的鑑賞の態度が日本では発達した。
 絵は、ふすまもあり、屏風もあり、掛軸もあるが、すべて日常の生活にとけ入つたものとして愛好されてゐた。新しい絵にしても、自分で買ひ求めて、自分の座右においたとき、はじめて真の愛着が湧くだらう。この愛着以外に芸術の 「わかる」 方法はないのだ。

 


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