思想の花びら 2023年 5月15日


 ●  アラン (哲学者) のことば

  恐慌や熱狂の動き、あの人間の海の高鳴る力、人々はおよそ人間のいるところならどこでもこの力に従う。この力が母国にうず巻くとき、いや自家の戸口に押しよせるとき、僕らはもういやも応もない。(略) 恥辱感とはこの強制された判断と他の判断との間の戦いである。たとえ、この群集の動きに負けないとしても、僕は大きな怒りにとらわれる。こういう群集のいろいろな動きは、常に群集の狂気を僕に与えざるを得ぬ。そうでなければ群集の動きに挑戦する狂気を僕に与えざるをえない。僕はとらわれの身だったのだ。そしていま怒りに身をふるわしている。こう考えてくれば、社会集団というものは痙攣的な狂信者たちの集団だけということになる。そして、事実、あらゆる社会は結局そういうものだ、戦争をみればよくわかる。こうして情熱が倍加すれば別個ができあがる。どうしてレヴィヤタンとして生活したらよいか。

 



 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  ここに青春というものが、明確なすがたでとらえられている。何よりもまずそれは 「産む」 状態である。青春の魂と肉体とが満ちあふれている状態、あるいは一つの陣痛と云ってもいいであろう。しかし産むための生殖慾は、醜いものにおいては起こらない。必ず美においてでなければならない。エロス とは美においての生殖、妊娠への媒介者である。この意味で恋愛の目的は産むことであり、しかもそれは人間の不死性につながるものとして、神聖視されているわけである。健全な古典的恋愛観がここにある。またこれが プラトニックラブ と云われるものの本来の姿である。後に キリスト の影響を受けた プラトニック・ラブ のように、肉体と魂とは分離されていない。

 


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