2003年11月16日 作成 「基準編第9章 (entity の概念)」 を読む >> 目次に もどる
2006年 8月16日 更新  




 構造は、モノ と関係から構成される。つまり、モノ を集めて並べる、ということである。
 構造を検討する際、まず、最初に論点になるのが、モノ の定義である。

 ただ、モノ は定義不能である。
 たとえば、時計を例にすれば、時計全体を 1つの モノ と考えるのか、あるいは、時計を構成している文字盤や針などを モノ として考えるのか、あるいは、究極的には、粒子や波動を モノ として考えるのか、というふうに、モノ は 「高階の構成物」 であって、定義不能である。定義しようと思っても、無限後退に陥ってしまう。

 モノ を、どのようにして定義するか、という考えかたには、以下の 2つがある。
 (1) 「関数-変数」論 (数理モデル)
 (2) 「実体-属性」論 (意味論)

 (1) は数学的な考えかたである。すなわち、モノ を無定義語として扱い、関数 [ つまり、関係 ] のなかで成立する パラメータ (変数) として扱う。
 クワイン (Quine, W.v.O.) は、モノ を端的に以下のように定義している。

     「存在するとは変項の値となることだ」

 小生は、この考えかたに賛同している。

 (2) は (1) に対立する考えかたではない。(2) は (1) の前提となっている。
 「実在的」 という概念は、たとえば、パース (Peirce, C.S.) によれば、「第一性」 として考えられていて、「自発性、存在における同一性、斯様性(suchness)つまり他のいかなるものにも関わりなく、それがあるがごとくあるところのもの、時間からも、実現されることからも独立の永遠なる質、単なる潜勢態、可能性、情態の質などである。例えば、赤という質がそれである」。つまり、数式 (数理モデル) として記述するためには、そういう 「実体」 が仮想されている、ということである。

 セット (集合) を生成するために使った性質が、「モノ」 そのものに帰属する性質なのかどうか、という点は、集合論では論点にされない。セット を形成する性質が、「モノ」 そのものに帰属するかどうか、という判断がないので、間一髪、「意味論」 が忍び込む余地ができてしまった。つまり、「意味論」 は、「モノ」 そのものを対象として、「モノ」 そのものに帰属する性質と、「モノ」 が外的な関係のなかで形成してきた性質を仕訳しようとする。言い換えれば、集合論では、「モノ」 は関数の パラメータ だから、どういう関数 (性質) を使うか、という点は恣意的である。

 事業のなかで使われている データ は自然言語を使って記述されている。
 「実体を前提にした『関数-変数』論」 を、事業のなかで使われている データ に対して適用しようとして、小生が直面した悩みが、「いかなる性質 (関数) を判断規準にして、セット を生成するのか」 という点であった。つまり、自然言語を使って記述されて、いまだ、構造を与えられていない データ 群に対して、「再利用可能な」 (あるいは、正規化された) データ 構造--モノ と関係--を、いかにして、生成するか、という点であった。

 しかも、事業のなかで使われている データ の 「意味」 は、事業を営む人たちの間で 「合意」 が成立している、という点であった。言い換えれば、1人の エンジニア の価値観が作った構造は、事業のなかで流通している(データ の 「意味」 の) 「合意」 にはならない、という点であった。

 幸いにも、自然言語と (再利用可能な) データ 構造との間には、コード 体系が接着剤となっている。そして、コード 体系は、事業を営む人たちの間で 「合意」 されている。この点に着目して、セット を生成する判断規準として、T字形 ER手法では、コード 体系を使うことを前提にした。つまり、コード 体系のなかで合意されている単独の番号を、モノ を認知する判断規準としたのである。言い換えれば、もともと定義できない モノ を、コード 体系のなかで合意された番号を使って定義できるようにしたのである。
 したがって、T字形 ER手法では、モノ (entity) の認知とは、

     「identifier (認知番号、つまり、コード体系上、単独の番号) を付与されていること」

 たとえば、従業員番号を認知番号にして 「従業員」 の データ 集合を認知し、部門 コード を認知番号にして 「部門」 の データ 集合を認知して、受注番号を認知番号にして 「受注」 の データ 集合を認知し、請求書番号を認知番号にして 「請求」 の データ を認知する。そうすれば、それぞれの システム・エンジニア が、相違する データ 集合を生成してしまう、という我流を回避できる。

 さらに、モノ (entity) は、並びの規則に従って、以下の 2つに仕訳される。
 (1) event (時系列のなかで並べられる)
 (2) resource

 データ 正規形を生成する際に、コード 体系を前提にしたという点と、モノ (entity) を event と resource の 2つに仕訳した点が、後々、データ 正規形を使って事業を解析できる、という、(T字形 ER手法を作った当初、) 想像もしなかった威力が出てくることになった。 □

 



[ 補遺 ] (2006年 8月16日)

 或る意味で、本節が、哲学的には、いちばんに難しい論点かもしれない。すなわち、「個体と関係」 を考える際に、「関係主義」 を前提にするのか、それとも、「実体主義」 を前提にするのか、という哲学の論点になるから。私は、本節で、その論点を真っ向から扱わなかった。というのは、その論点を扱うには、私の知識が、あまりにも乏しすぎたから。その論点を扱おうとすれば、古代から現代に至るまでの重立った哲学思想を研究することになるので、いまの私には、荷が重すぎる。

 私が、本節で実現しようとした点は、意味論上、「モデル」 の基本事項を守るという点であった。すなわち、「モデル」 は、「語彙 (真とされる対象)」 と 「文法 (真とされる文を作る文法)」 から構成されるが、意味論上、「語彙」 は指示規則を前提にしなければならないので、私は、はじめに、「真とされる 『語彙』 を選ぶ」 ことを守ろうとした。

 事業過程・管理過程のなかで伝達される 「情報」 を対象にして、「真とされる 『語彙』 を選ぶ」 ために、私が導入した考えかた (前提) は、「合意」 という概念であった。すなわち、モノ を 「合意」 して認知するための規準であった。1人 (あるいは、複数の) システム・エンジニア が描く 「像」 を 「真」 とするつもりはなかった。

 この 「合意」 という概念は、本書を執筆する最大の理由になった理論編第 8章 「ヴィトゲンシュタイン 『哲学探究』」 (140ページ、141ページ) を前提にして導かれている。本書の理論編は、世上、非常に評判が悪かったが、私は、理論編を衒学趣味で綴ったつもりはない。理論編を基準編の前提として執筆したつもりである。

 ただ、「モデル」 の起点に 意味論を置いたので、「モデル」 の体系として、数理 モデル (述語論理の公理系) を作ることができなかった点が--たとえば、コッド 関係 モデル は、関数従属性・包摂従属性を使った モデル になっているが、コッド 関係 モデル を意味論的に拡充した TM (T字形 ER手法) は、数理 モデル にならなかった点が--私を苦しめることになった。数理 モデル にならなかった TM (T字形 ER手法) の推論規則を、それでも、我流を回避するために、構文論として、なんらかの妥当な規則をしたかったので、次節で、「関係の論理」 として、(関数従属性・包摂従属性を使わないで、) 妥当な規則を検討した次第である。

 





  << もどる HOME すすむ >>
  「論理データベース論考」を読む