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 我々のような哲学のシロートが哲学書を読むということは、哲学を研究対象としているのではなくて、「モノゴト を、どのようにして観るか」 という点を体得するためであると思われる。

 とすれば、哲学のなかで扱われている概念の キーワード を多く知っていても、哲学していることにはならない。また、いっぽうでは、「下手な」 考えを継続しても、哲学にはならない。

 「先達はあらまほし」。おそらく、自らの思考のやりかたに近い哲学者を選んで、その人の体温を感じ取ることができるまで、その哲学者の著作を徹底的に読み込む、というのが、我々のような哲学のシロートが哲学の勉強をするときのやりかたであろう。

 以下に、「歴史に遺った--したがって、後世に影響を及ぼした--哲学者たちの考えかたを概説した文献」 を記載してあるので、それらを通読して、自らの思考にあう哲学者を探してください。



[ 読みかた ] (2006年 7月16日)

 哲学が、もし、問題の定式を明確にする思考のことを云うのであれば、そして、もし、現実の事態を 1つの論理式で示すことができるのなら、その式を示した哲学者の考えかたのみ信じることは正しいでしょうが、そういう論理式がないのであれば、一人の哲学者のみしか知らないというのは、ものごとを考えるうえでは、危険でしょうね。現実の事態を観るやりかたを一つに限定しなければならない理由はない--現実の事態は、ひとつの 「見かた」 を超えて豊富なのだから。

 哲学を学習しなくても生活できるし、哲学を学習しなくても思考できます。「哲学など役に立たない」 という言いぐさを聴くことがありますが、哲学が、もし、問題の定式を明確にする思考のことを云うのであれば、役に立たないどころか、極めて役に立つ学問でしょうね。

 哲学は 「思想史」 ではない。ただ、歴史のなかに遺った天才たちのなかから、みずからの思考にあう哲学者を探すためには、まず、思想史を鳥瞰するしか手段はないでしょうね。

 




 

 ▼ 入門編

 ● 哲学 原典資料集、山本 巌ほか、東京大学出版会

 ● 哲学の古典 101物語、木田 元 編、新書館

 ● 現代哲学基本論文集 T(フレーケ゛・ラッセル・ラムシ゛ー・ヘンヘ゜ル・シュリック・ノイラート・カルナッフ゜)
  坂本百大 編、勁草書房

 ● 現代哲学基本論文集 U(ムーア・タルスキ・クワイン・ライル・ストローソン)
  坂本百大 編、勁草書房

 ● 西洋哲学の系譜、ブライアン・マギー 著、高頭直樹ほか訳、晃洋書房

 ● 思想の探求、宮坂真喜弘 他、八千代出版



[ 読みかた ] (2006年 7月16日)

 私が どのような哲学者を好んでいるか という点は、本 ホームページ を お読みいただければ お察しいただけるでしょう。私は、いわゆる 「分析哲学」 を信奉しています。「分析哲学」 に影響を及ぼした ウィトゲンシュタイン の著作は、私の座右書です。いっぽうで、パスカル や アウグスチヌス や スピノザ にも惹かれています。また、パース や ホワイトヘッド にも共感しています。

 かれらの哲学を知る起点は、ウィトゲンシュタイン でした。学習の進めかたは、ほかの学問でも そうでしょうが、まず、1つの起点を得て、それから、芋蔓式に、範囲を拡大してきました。ウィトゲンシュタイン は、キルケゴール を読み込んでいたそうですが、私は、キルケゴール のほうに遡らないで、ホワイトヘッド のほうに舵を取りました。私が興味を抱いている哲学は、数学基礎論が出てきた以後の哲学です。言い換えれば、数学と哲学との相互作用に対して興味を抱いています。

 私は、哲学の専門家ではないので、哲学全般に亘る知識の習得を職業の前提にしなくても良かったので--そういう知識の習得を免れていたので--、私が哲学書を読み進めてきた経路は、あくまで、私の もの-の考えかたにあう哲学者を選んできました。ただし、私は、新しい学問領域を学習する際には、かならず、最初に、「その領域の歴史を通読する」 ことを常としてきました。シロート が、或る学問領域を学習する際、学問の広大な海の前にたたずんで呆然としますが、その領域の専門家がまとめた全体像を読めば、学習を進める際に手助けになるから。まず、通史を読んで、みずからの思考とあう哲学者を探して下さい。

 





 ▼ [ 中級編 ]

[ パース ]

 ● パース著作集 1 [ 現象学 ]、米盛裕二 編訳、勁草書房

 ● パース著作集 2 [ 記号学 ]、内田種臣 編訳、勁草書房

 ● パース著作集 3 [ 形而上学 ]、遠藤 弘 編訳、勁草書房

 
[ クワイン ]

 ● 現代論理入門 (ことばと論理)、杖下隆英 訳、大修館書店

 ● 真理を追って、伊藤春樹・清塚邦彦 訳、産業図書

 ● 論理的観点から (論理と哲学をめぐる九章)、飯田 隆 訳、勁草書房

 ● 論理学の方法、中村秀吉・大森荘蔵 訳、岩波書店

 
[ シオラン ]

 ● 四つ裂きの刑、金井 裕 訳、叢書・ウニヘ゛ルシタス 法政大学出版局

 ● オマージュ の試み、金井 裕 訳、叢書・ウニヘ゛ルシタス 245 法政大学出版局

 ● 欺瞞の書、金井 裕 訳、叢書・ウニヘ゛ルシタス 483 法政大学出版局

 ● 敗者の祈祷書、金井 裕 訳、叢書・ウニヘ゛ルシタス 506 法政大学出版局

 ● 涙と聖書、金井 裕 訳、紀伊國屋書店

 ● 絶望のきわみで、金井 裕 訳、紀伊國屋書店

 ● 生誕の災厄、出口裕弘 訳、紀伊國屋書店

 ● 思想の黄昏、金井 裕 訳、紀伊國屋書店

 ● 実存の誘惑 (E.M.シオラン選集 3)、篠田知知基 訳、国文社

 
[ ライプニッツ ]

 ● 世界の名著 30 スピノザ ライプニッツ、中央公論社

 ● ライプニッツ 普遍記号学、哲学書房 [ 本邦初訳、以下の論文が収録されている。]

    - 結合法論、山内志朗 訳
    - チルンハウスへの書簡、伊豆蔵好美 訳
    - 普遍的総合と普遍的分析、伊豆蔵好美 訳
    - 第一真理、山内志朗 訳

 
[ アラン、ヴァレリー ]

 ● 世界の名著 66 アラン ヴァレリー、中央公論社

 ● 私の見るところ、 ホ゜ール・ウ゛ァレリー 著、佐藤正彰・寺田 透 訳、筑摩叢書 60

 ● 精神と情熱とに関する81章、アラン 著、小林秀雄 訳、東京創元社叢書 58

 ● 考えるために、アラン 著、仲沢紀雄 訳、小沢書店

 
[ 対話あるいは断章の形式で思考するのなら、以下をお薦めする。]

 ● 世界教養全集 2、平凡社刊 [ 以下が収録されている。]

    - M. モンテーニュ、随想録
    - ラ・ロシュフコー、箴言と省察
    - B. パスカル、パンセ
    - サント・ブーヴ、覚書と随想

 ● 世界の名著 14 アウグスティヌス、中央公論社
   [「告白」、山田 晶 訳 ]

 ● ゲーテ との対話 (上・中・下)、エッカーマン 著、山下 肇 訳、岩波文庫

 


[ 読みかた ] (2006年 7月16日)

 私は、ウィトゲンシュタイン の著作を座右書としていますが、かれのほかにも、上記した哲学者たちを愛読しています。ほかにも、ギリシア哲学・スコラ哲学・デカルト・カント も読んでいます (これらの書物については、「読書案内」 のなかで、べつの ページ を設けていますので参照して下さい)。

 スピノザ・ライプニッツ・パース から 「形而上学」 を学び、クワイン から論理学の考えかたを学び、アランとヴァレリーからは 「生活哲学」 を学び、アウグスチヌス・モンテーニュ・パスカル から宗教的な思考法を学びました。私は キリスト 教徒ではないし、哲学を できるかぎり 「技術」 として学習したいと思っているのですが、アウグスチヌス・モンテーニュ・パスカル の キリスト教的思考に惹かれています。そして、キリスト 教的思考の現代版として、「絶望のなかの閃光」 とも云える シオラン の哲学にも惹かれています。「シオラン の感性」 の延長線上には、「自殺」 が 朧気に揺らいでいるのですが、かれが 「自殺」 できなかった歯止めが、やはり、キリスト 教が底辺にあったからではないでしょうか。パスカル と シオラン を読んだときに、「明晰に考える」 ことの寂しさ・やるせなさ を感じました。

 ウィトゲンシュタインは、「哲学は、本来的に、ただ詩作としてのみ書かれるべきである」 と言い、シオラン は、「ひとりの哲学者の遺すもの、それは彼の気質だ、、、。生きれば生きるほど彼はますますおのれ自身に立ち帰ることになるだろう」 と言いました。「明晰に考える」 ことには、なにかしら、寂しさが漂うようです--たぶん、その寂しさは、「存在 (生存して朽ち果てること)」 そのものに起因しているもかもしれないですね。哲学を学習するということは、「明晰に考える」 ことを学習することですが、ひょっとしたら、「考える」 寂しさに耐えることを学ぶことなのかもしれない。

 



[ 読みかた ] (2007年 2月 1日)

 私は、一般の読者として、哲学書を読んでいるのであって、哲学の思想を専門的に探究しようという狙いをもっていないので、ここに記載した書物は、なんら体系だって集めた訳ではない。私の思考法 (あるいは、気質) にあう哲学者の著作を乱読しているにすぎない。しかも、これらの著作を読んでいるといっても、作者たちは天才だから、かれらの意見を理解するのが、とても難しいので、いくども読み返して、少しずつ噛みしめながら読み進めるしかない。

 パース と ライプニッツ を読んでいて、「『統語論と意味論』 の原型」 に出会った気がする。ただし、学問的に そうであるかどうかは、私にはわからない。というのは、私は、哲学の思想史を丁寧に調べた訳ではないので。ただ、パース と ライプニッツ から学習した点は--そして、クワイン からも--、「技術的な」 観点の比率が高い。「ものの見かた (視点)」 という点では、ヴァレリー から学習した点が多い。「感性」 という点では、シオラン に共感する点が多い--ただし、かれほど、私には繊細な感覚がないが、、、 (かれの繊細な記述が、ときどき、末梢神経の絡まり合った様態ように感じられて、閉口したが、、、でも、私は、かれが示す気質に惹かれている)。アラン には--そして、ゲーテ にも--、「常識の健全な力」 を感じる。シオラン と アラン のあいだで、私は揺れている。シオラン 曰く、

    ひとりの哲学者の遺すもの、それは彼の気質だ、、、。
    生きれば生きるほど彼はますますおのれ自身に立ち帰ることになるだろう。

 




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