2001年 5月27日 作成 日本古典文学 (「徒然草」 を読む) >> 目次 (作成日順)
2005年11月16日 更新  


 以下に記載する文献は、小生が 「徒然草」 を読むために使っている文献です。


[ 読みかた ] (2005年11月16日)

 「徒然草」 は、中学校・高等学校の教科書に収録されているので、中学・高校を卒業した人たちの ほとんど全員が--言い換えれば、(学校教育を終えた) 日本人の ほとんど全員が--(「徒然草」 のいちぶを) 読んでいます。ただ、「徒然草」 の全編を読んだ人たちとなれば、きわめて、数少ないのではないでしょうか。

 学校教育では、「徒然草」 の特徴として、いくつかの キーワート゛ が、まず、与えられて、その特徴を示す例文が引用される、という やりかた だった、と ぼくは記憶しています。特徴を示す キーワート゛ としては、たとえば、「王朝趣味、有職故実に対する関心、貴族文化に対する尚古的態度、無常観、擬古文」 などが与えられるのではないでしょうか。(これらの キーワート゛ は、「原色 シク゛マ 新日本文学史 ヒ゛シ゛ュアル解説」 を参考にしました。) それらの キーワート゛ は、専門家たちが、丁寧な調査・研究をして、まとめた概念ですから、正しいという信を ぼくは置いているのですが、いっぽうで、「徒然草」 の全編を読んだ ぼくの印象とは、微妙に乖離しているようにも感じています。その乖離は、「徒然草」 を文学として観るほかに、ぼくは、「出家」 という観点から、兼好法師の 「人生観」 を判断しているからかもしれない。

 「出家」 とは云っても、兼好は、(30歳前後で 「出家」 して、) 「行者 (ぎょうじゃ)」 ではなくて、「隠者 (いんじゃ)」 であり、世俗を離れて、自由な精神で和歌や随筆などを作った 「世捨て人」 であって、「徒然草」 は、鎌倉末期 (1331年頃) 、兼好が 40歳代終わり頃に、重立った編がまとめられていて、「出家」 という観点からすれば、たとえば、1231年から書き綴られた 「正法眼蔵」 (道元 作) に比べて、「色好み」 が濃厚です。「行者」の眼から観れば、兼好は、「生臭入道」 なのではないでしょうか (笑)。「徒然草」 は、無常観を立脚点にしていると云っても、「隠者」 の眼から観た 「無常の美」 を綴っているのであって、「行者」 が堅持する 「一生の大事」 の悟りではないようですね。ぼくが そういうふうに言っても、兼好法師を軽蔑しているのではないのであって、寧ろ、その 「生々しい色好み」 に惹かれています--たとえば、「出家」 していながらも 「祭り」 を観るために下山する兼好法師の態度を、ぼくは、微笑んで、共鳴します。

 「徒然草」 の全編を読む前は、(学校教育の悪影響ではないと思いたいのですが、) 「徒然草」 を、まるで、人生訓を述べた 胡散 (うさん) 臭い書物のように、ぼくは先入観を抱いていたのですが、全編を読んでみて、兼好法師が、「出家」 していながらも--本職は歌人なのだから--世事に対して好奇心旺盛な 「世捨て人」 であって、世の無常を感じながらも、その はかない営みのなかに 「美」 を感知する貴族趣味的な性質であることを知って、親近感を抱いています (--というのは、ぼくも、そういう性質に近いようなので)。

 「徒然草」 を、10歳代半ばで読んだ理解に比べて、50歳を超えて読む理解は、当然ながら、相違します。10歳代半ばで読んだときには、兼好法師のことを 「世の中を斜に観て、小賢しい アフォリス゛ム を言い散らす嫌な知識人」 と思っていたのですが (笑)、50歳になって読んでみて、親近感を覚えると同時に、兼好法師といっしょに酒を飲みながら、かれが綴った意見に対して、少々、小言を呈したい点もあります (笑)。

 「徒然草」 は、序段を除いて、全編 243段です。そして、意外なことに、「自然」 に関する記述は、4段ほど (19段、44段、104段および 105段) であって、「世捨て人」 にしたら、自然に対する関心が薄いようです。逆に言えば、兼好法師の関心は、自然のほかのことに向いていた、ということですね。その 「自然のほかのこと」 というのは、社会や人生であって、「いでや、この世に生まれては、願はしかるべき事こそ多かめれ。」 という最初の段の はじまり が、「徒然草」 の性質を示しているようです。
 (仏教的な思想を前提にして、人生観を綴っている段が多いのですが、) 飲酒 (1段、117段および 175段) や住まい (10段および 55段) にも言及していて、およそ、「行者」 が認 (したた) める書物ではない (「正法眼蔵」 と比べてみて下さい)。

 そして、「徒然草」 の記述のなかには、不思議なことに、(「徒然草」 は鎌倉末期の作ですが、) 武士階級に関する批評が、ほとんど、ない (80段および 122段)。「王朝趣味、(貴族の) 有職故実、貴族文化」 を共感していた兼好法師は、鎌倉時代に台頭してきた武士階級を嫌っていたのかもしれないですね。かれは、「滅びゆく」 対象に対して、「美」 を感じていたのかもしれない。そして、そういう性質が強い いっぽうでは、生々しい生活感 (旺盛な好奇心) も強かったので、「平家物語」 を読んでいたようです (226段、ただし、この段に記述されている中味は、伝承を記したのであって、兼好法師が 「平家物語」 を読んでいた確証にはならないかもしれないのですが、「蒲冠者の事は、よく知らざりけるにや、多くのことどもをしるしもらせり。」 という一文があるので、兼好法師は 「平家物語」 を読んでいた、と推測しても良いのではないでしょうか)。「平家物語」 を読んでいたとすれば、「平家物語」 を読んでいながら、武士階級に対する意見が少ないのは、やはり、兼好法師の共感は、王朝貴族階級に向いていて、それを潰そうとしている武士階級に対して、なんらかの抵抗感があったのかもしれないですね。
 [ 以上に示した段落は、「岩波小辞典 日本文学 --古典--」 を参照して引用しました。]

 ちなみに、僧堂では、平積みしていた仏典のあいだに、物語の書物を隠していた禅僧が破門されて、しかも、その僧の 「単」 (坐禅したり、寝たりする一畳ほどの場所) の真下にある土地が穢れたとみなされて、土地が掘り出されて、その土が捨てられた、という逸話もありますが、「出家した行者 (沙門)」 が堅持する行持の凛烈さは、兼好法師にはない。

 山麓に住所を移して、晴耕雨読の生活を送りたい--そして、たまには、街のほうに下りてきたい (笑)--と思っている ぼくは、(出家しながらも、旺盛な好奇心を脱落できなかった [ 脱落しなかった? ]) 兼好法師の 「視点」 に共感する所が多い。
 法衣を着流し風に着用している感が、兼好法師にはあるようです (笑)。「徒然草」 は、「いとをかし」 を無常感で包んで、「美」 意識にした、というふうに、国文学の シロート である ぼくが言えば、over-simplification になってしまうかなあ。でも、ぼくは、「徒然草」 を読んでいて、そういう 「(観念的でもないし、そうかといって、べっとりと世俗的でもない) 洒脱さ」 を感じるのですが、、、。兼好は、そもそも、歌人だから--当時の歌人たちのなかでは、「四天王」 の一人とされるそうですが--、筆を抑えながら、言いたいことを綴る芸は巧いはずです。兼好法師の文体に関して、歌 (文芸) の シロート たる ぼくが、どうこう言える力量はない。

 なお、兼好法師は、足利尊氏・足利直義・高師直・二条義基ら、そして、皇室関係では、後二条天皇の一宮、邦良親王という 「第一級の」 人物たちと交流しています。この点では、ぼくは、足下にも及ばない (笑)。

 「日本人の精神史」 研究のために、「徒然草」 を、まず、起点にしたのですが--その理由は、16ヘ゜ーシ゛ を参照して下さい--、1つの文芸作品として味わう愉しみを、ぼくは覚えたようです。
 なお、この ヘ゜ーシ゛ の最後に記した・もう 1つの [ 読みかた ] も読んでいただければ幸いです。

 




 

 ▼ テキスト および校本
 
 ● 新日本古典文学大系 39 「方丈記・徒然草」、久保田 淳、岩波書店
  [「正徹本」 を底本にして、諸本 (烏丸本、常緑本) を校合してある。]

 ● つれづれ草、山田孝雄、宝文館

 ● 徒然草 (上・下) [ 寛文七年の版刷り ]
  [ 流布本 ]

 ● ESSAYS IN IDLENESS, Donald Keene, TUTTLE
  [ 抜粋対訳本 ] よりぬき徒然草、講談社 ハ゛イリンカ゛ル・フ゛ックス
  [ 原文 (古文) を読んで理解できなかった箇所が、Keene D.氏の英訳を読んだら理解できた、というのは 「悲劇」 か 「喜劇」 か、、、、、。]


小生は、今、以下の文献 (古本) を購入しようと計画している。

「徒然草全注釈 (上・下)」、安良岡康作、角川書店、昭和42年・昭和43年。

 

 

 ▼ 注釈書

 ● 徒然草諸注集成、田辺 爵、右文書院

 ● 諸説一覧 徒然草、市古貞次 編、明治書院

 ● 徒然草辞典、守随憲治 監修、平尾美都子 編、紀元社
  [ 辞書という名称になっているが、いわゆる注釈書。]

 ● 徒然草事典 (「徒然草講座 別巻」)、三谷榮一 編、有精堂
  [ 目次: 項目索引、語法索引、人物系図、注釈書・研究書解題など。]


参照すべき重立った注釈書は、「新日本古典文学大系 39」 のなかに一覧記載されているので参照されたい。ただ、( 国文学を専門にしていない) われわれ シロート は、それらの文献を全て読破することは (時間的な余裕がないので) 無理であろう。最低限の読むべき注釈書として、田辺爵氏の 「徒然草諸注集成」 と市古貞次氏編の 「諸説一覧徒然草」 をお薦めする。

 

 

 ▼ 語彙集と文法書

 ● 徒然草総索引、時枝誠記、至文堂

 ● 古典解釈 シリース゛ 文法全解 徒然草、小出 光、旺文社
  [ 高校生向けの文法解説書。]

 ● 古典新釈 シリース゛ 徒然草、吉澤貞人、中道館
  [ 高校生向けの文法解説書。]


古文を読むには、筋道の立った読みが求められ、最終的な作品鑑賞に辿りつくためには、「正確な理解」 が求められ、「おおざっぱな (だいたいの) 理解」 は作品鑑賞にはなり得ないのであるから、文法を徹底的に解析して、一文一文を正しく理解する ことが大切である。

 

 

 ▼ 作品鑑賞

 ● 作品研究 つれづれ草、西尾 実、學生社版

 ● 徒然草通説批判、井出恒雄、世界書院

 ● 日本古典文庫 10 枕草子・方丈記・徒然草、河出書房新社
  [ 現代語訳。徒然草は佐藤春夫氏の訳。]

 

[ 読みかた ] (2005年11月16日)

 枕草子と方丈記と徒然草は、「三大随筆」 として、対比されることが多いですね。
 枕草子は平安時代中期 (1001年頃) に作られ、方丈記は鎌倉時代初期 (1212年頃) に作られ、徒然草は鎌倉時代末期 (1331年頃) に作られています。枕草子と方丈記では、200年ほどの隔たりがあり、方丈記と徒然草では、100年強の間があります。枕草子は、和文で、「をかし」 の感覚を綴っていて、方丈記は、和漢混淆文で、無常感を綴っています。そして、徒然草は、和漢混淆文・擬古文で、「をかし」 を無常観に包んで綴っています。

 前回 (31ヘ゜ーシ゛)、古辞書の説明のなかで、「をかし」 に言及したとき、「遣水より煙の立つこそをかしけれ」 (趣がある) という例文を示しましたが、この例文は、枕草子ではなくて、徒然草のなかに記されています。ぼくは、枕草子を、まだ、全編 読んでいないので、枕草子と徒然草を対比するほどの資料を持っていないのですが、方丈記は (原文で) 読んでいるので、徒然草と対比してみれば、方丈記では、無常感が生々しいほど (おどろおどろと) 溢れています。いっぽう、徒然草は、無常観を底辺にしてはいるのですが、「をかし」 を感じる洒脱さが漂っています。鴨長明も (兼好と同じように) 歌人ですが、方丈記では、前半、災厄 (安元の大火、治承の旋風、養和の大飢饉や元暦の大地震) が生々しく綴れていて、後半、隠者 (世捨て人) の安静な草庵生活 (音楽や和歌を嗜んでいる生活) が綴られて、そして、終段では、草庵生活に執着する おのれに対する怒りを綴っています。鴨長明は、「隠者」 生活に対して怒りを覚えて、「行者」 (求道者) たらんと願ったようです。以下に、終段の一部を引用します (新日本古典文学大系 39 「方丈記・徒然草」、岩波書店)。

    仏ノ教ヘ給フ趣キハ、事ニ触レテ執心ナカレトナリ。今、草庵ヲ愛スルモ、閑寂ニ着スルモサハ゛カリナルヘ゛シ。(略)
    ミツ゛カラ心ニ問ヒテ言ハク、世ヲ遁レテ山林ニ交ハルハ、心ヲ修メテ道ヲ行ハムトナリ。シカルヲ、汝、スカ゛タハ
    聖人ニテ、心ハニコ゛リニ染メリ。

 この 「行者の意識」 (罪意識、うしろめたさ) は、徒然草にはない。徒然草にも、たしかに、「道 (仏道)」 に対する心得を述べた段は、いくつもあります。たとえば、以下のような文が綴られています。

    されば、道人は、遠く日月を惜しむべからず。ただ今の一念、むなしく過ぐる事を惜しむべし。
    (108段)

    日暮れ、道遠し。吾生すでに蹉踏たり。諸縁を放下すべき時なり。信をも守らじ。礼儀をも思はじ。
    此心を得ざらむ人は、物狂いとも言へ、うつつなし、情なしとも思へ。譏るとも苦しまじ。褒むとも聞き入れじ。
    (112段)

    望月のまどかなる事はしばらくも住せず、やがて欠けぬ。(略)所願心に来らば、妄心迷乱すと知て、
    一事をもなすべからず。直に万事を放下して道に向かふ時、障りなく、所作なくて、心身永く閑也。
    (241段)

 112段では、「行者」 になろうとする強い思いが綴られていますが、おのれ (隠者生活、草庵生活) に対する 「罪意識」 は、一切、ない。さらに、終段では、8歳頃の想い出として、以下の文が綴られています。

    八になりし年、父に問云、「仏はいかなる物にか候らん」 と言ふ。父が言はく、...(略)と言ひて笑ふ。
    「問ひ詰められて、え答へずなり侍つ」 と諸人に語りて、興じき。

 そして、以下のようにも綴っています (122段)。

    人の才能は、文明かにして、聖の教へを知れるを第一とす。

 兼好法師は、仏道の行者 (修行者) ではなくて、仏道を熟知した教養人 (説経師) というふうに、ぼくには感じられるのですが、、、。そして、ぼくは--「正法眼蔵」 を愛読しながらも、出家できない ぼくは--、そういう兼好法師に共感を抱いています。
 道元禅師は、「正法眼蔵」 を記されるかたわらで、和歌も詠まれましたが、仏道を行持する 「行者」 でした。いっぽう、兼好法師は、和歌をすて去ることなど、考えてはいなかったのではないでしょうか--和歌に対する思いのほうが、仏道に対する思いに比べて、先行していたのではないでしょうか。兼好法師は、「隠者」 として、文芸と仏道という きわどい 綱渡りを巧みにこなしたと、ぼくには思えるのですが、、、。無常観が、兼好法師の 「末期の眼」 として作用して、ものごとを覚醒して観て、歌人としての感性と相まって、「をかし」 を看取する 「美」 意識を研ぎ澄ましたようにも思えるのですが、、、。
 兼好法師は、ぼくにとって、興味を惹かれる人物です。

 




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