2003年 7月16日 作成 プレゼンテーション の しかた (論述の進めかた) >> 目次 (作成日順)
2008年 8月 1日 補遺  


 
 TH さん、きょうは、論述の進めかたについて お話しましょう。

 
 論述の進めかたには、3 つの 「型」 あります。

 (1) 演繹法
 (2) 帰納法
 (3) 半肯定論法

 
● 演繹法は納得しやすいが反例を提示されやすい。

 演繹法は、科学的な推論に向いていますが、日常のことがらを対象にしたときには、「大前提」 の選択がむずかしいので、なかなか、使いにくい、と思います。日常のことがらを対象にしたときには、「(科学的な) 法則」 が すんなりと適用できる訳ではないので、せいぜい、「(顕著な) 傾向」 を前提にするしかない。とすれば、反例を提示されやすい。

 たとえば、「事業というのは、云々」 とか 「経営というのは、云々」 とか 「人間というのは、云々」 というような 「一般論」 を大前提にすれば、すぐさま、いくつかの反例を提示することができる。「一般論」 を大前提にするやりかたは 「the thing to do (多くの人たちがやっているから、あなたもやったほうがいい)」 という安直な 「同調」 を感じてしまう。

 
● 帰納法は関心を喚起しても納得を得にくい。

 帰納法は、多数の (あるいは、いくつかの) 事実を観て、「新たな」 視点を提示するには良い論法なのですが──聴いている人々が すでに 知っていることがらを材料にして、彼らが いまだ 気づいていなかった視点を提示するには最高の論法なのですが──、かれらの関心 (あるいは、感心) を喚起することはできても納得 (総意) を得ることはむずかしい。しかも、事実の網羅性を保証しにくいので──暗喩法を巧妙に使うこともできますが──、「論理の飛躍」 に陥りやすい論法です。

 
● 半肯定論法は演繹法と帰納法の折衷案であり、通説も反例も加味している。

 半肯定論法は、「通説」 を対象にして、以下の論法を使います。
 「たしかに、、、、である。しかし、、、。」

 日常のころがらを対象にしたときには、「法則」 が適用できないので、演繹法では、かならず、反例を提示できるし、「新たな」 視点を提示するために、説得材料として多数の事実を収集する労苦を味わう帰納法に比べたら、半肯定論法は、演繹法と帰納法の折衷案と云ってもよいかもしれないですね。
 つまり、「通説を肯定しながらも (盲点を喚起して) 新たな視点を提示する」 という やりかた です。

 たとえば、以下の論法がそうです。

 「たしかに (疑いもなく)、戦略とは環境適用能力のことです。
  しかし、環境に対して意識的に作用しない 『自給』 という態度も戦略と云ってよいのではないでしょうか。
  消極的な無作為は適用能力のないことを意味しますが、積極的な無作為は 1 つの選択です。」

 訴えるという点では鮮やかな記憶が遺る やりかた です。

 
● 半肯定論法は 「開き直り (so-what)」 にも使うことができる。

 半肯定論法は、訴えるという点とは逆に、貶すときにも効果的に使うことができます。
 貶すときに半肯定論法を使った見事な例は 「侏儒の言葉」 (芥川龍之介 著) のなかで詳しく述べられています。
 (「侏儒の言葉」 のなかの 「批評學」 を参照してください。)

 さて、小生の駄文に対して以下のような半肯定論法を使うことができるでしょうね。

 「正に器用には書いている。が、畢竟それだけだ。」



[ 読みかた ] (2008年 8月 1日)

 補遺を綴るために、本 エッセー を読み返してみて、ロジック の組み立てかたとして、私は 「半肯定論法」 を、いままで多用してきていることに改めて気づきました。というのは、たぶん、すでに疎通している (generally accepted) 考えかたを再検討するには、しかも、自然法則が一貫して適用できないのであれば、論証は 「半肯定論法」 になるのでしょうね。勿論、証明のみで構成される概念の領域では、演繹法 (「一般的に真」 とされる命題から特殊な命題を導びく証明法) や帰納法 (数学では、再帰的な定義を前提にして、具体的な項を起点にして全体的な構成を導く証明法) が使われますし、私も、モデル を組むときには、それらの証明法を使います。

 「三段論法」 は、演繹法です。たとえば、以下の推論がそうです。

 (1) 人は死すべきものである。[ 大前提 ]
 (2) ソクラテス は人である。 [ 小前提 ]
 (3) ゆえに、ソクラテス は死すべきものである。 [ 結論 ]

 集合論的に言えば、「死すべきもの」 の クラス のなかに 「人」 の クラス があって、「人」 の クラス の構成員として ソクラテス がいる、ということです。ただ、本 エッセー のなかで述べたように、ふだんの生活のなかで──あるいは、われわれの社会現象のなかで──、演繹法としての 「大前提」 を定立するのが難しいでしょうね。ロジック を尊重するひとは、「すべての (∀x)」 という ことば を使うことに対して慎重な態度をとるはずです。

 私は、帰納法を多用するほうです──ただし、帰納法を使う際には、「適用範囲 (domain)」 を あらかじめ限定しますが。或る限られた範囲で、なんらかの クラス (あるいは、セット) の構成員を列挙 (枚挙) できるのであれば、私は、帰納法を躊躇しないで使います。帰納法を上手に使うには、「閉包 (closure)」 と 「外点 (exterior point)」 が役立つでしょう。すなわち、或る限られた範囲から外 (はず) れた点 [ これを 「外点」 といいますが ]──言い換えれば、或る限られた範囲 (セット) の外に存在する点 (個体)──を、その限られた範囲の構成員 (メンバー) に足したときに、構成員を並べる関数があるかどうか──外点が構成員になるかどうか──調べれば良い、ということです。つまり、集合 A に対して、外点 p を足したときに、{ A, p } が集合になるかどうかを調べれば良いということです。そして、もし、外点 p が集合 A に対して、特徴関数 (並べる関数) の項になるのであれば、p をふくんだ・(もとの集合 A をふくんだ) いっそう広い範囲が集合になるということです。この いっそう広い範囲が 「閉包」 です。

 「半肯定論法」 は、数学用語辞典には記載されていません (笑)。この論法は、たぶん、芥川竜之介の オリジナル でしょうね。芥川竜之介の オリジナル というふうに言いましたが、その命名が そうであって、「so-what (それで、だから なんなの ?)」 という 「debate では 『禁じ手 (don'ts)』 とされる」 論法は──たとえば、「why?」 と訊かれて、「why not?」 として対応しているような論法は──、社会生活を送るうえでの ひとつの wisdom として、多くの人たちが使ってきているでしょう。この論法は、批評の対象にしたくないときに、そして、じぶんは、それを無視しなけれども、真摯に考える対象ではないと判断するときに、多くの人たちが使っています。たとえば、私が、多々、耳にする言いかたとして、だれかが 「... だよね」 と言ったときに、ほかのだれかが 「たしかに、そうだよね。でも、... もありだよね」 というふうに応対している 言いかたがそうでしょうね。この応対は、反対意見を やわらかく述べているようにも聞こえるし、相手の意見を賛成しているのだけれども、それが すべて ではないということを述べているようにも聞こえますし、しかじかの反例を直ぐに思い浮かべることができるのだから、その意見は まじめに取り扱う意見でもない──畢竟それだけだ──、というふうにも聞こえます。ただ、真意がいずれであれ、無下に拒絶しない聡 (さと) い応対だと思います。

 ただし、「半肯定論法」 も語順を変えたら、「意味」 がちがってきます。以下を参照してください。

 (1) 「正に器用には書いている。が、畢竟それだけだ。」
 (2) 「畢竟それだけだ。が、正に器用には書いている。」




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  佐藤正美の問わず語り