2004年 1月 1日 作成 センテンス のありかた (1つの語 = 1つの意味) >> 目次 (作成日順)
2009年 1月16日 補遺  


 
 TH さん、きょうは、センテンス のありかたとして、「 1つの語 = 1つの意味」 について考えてみましょう。

 
1つの言葉が多義になってはいけない。

 記号論理学では、日常の言語表現を記号論理の記述として変換することは----つまり、記号化する技術は----、記号列を扱う技術と同じくらいにむずかしい。記号論理では、多義・曖昧・強調・合成・解体などを 「虚偽 (fallacy)」 とみなしています。これらの詳しい意味については、記号論理学の書物を参照していただくとして、それらのなかから、多義について考えてみましょう。

 以下の 2つの文を考えてみましょう。

  (1) 彼は セミナー の講師をしに行き、私は彼といっしょに行った。
  (2) 彼は セミナー をしたあとで帰宅したが、私は彼といっしょに行かなかった。

 さて、以上の文を、次のように記号化します。

  p = 「彼は セミナー をしに行った。」
  q = 「私は彼といっしょに行った。」
  r = 「彼は セミナー をしたあとで帰宅した。」

 とすれば、(1) の文と (2) の文は、以下のように記号化されます。

  (1) p ∧ q.
  (2) r ∧ ¬q.

 とすれば、(1) と (2) の複合文は、以下のようになります。

  p ∧ q ∧ r ∧ ¬q.

 とすれば、q ∧ ¬q が成立するので、矛盾が起こります。
 さて、矛盾が起こった理由は、「行く」 という言葉が多義になっているからです。(1) のなかの 「行く」 は 「参加する」 という意味ですが、(2) のなかの 「行く」 は 「帰宅する」 という意味です。

 日常言語のなかの 「基本語」 は、多義語です。国語辞典では、基本語は、多岐に及んだ 「語義・語釈」 を記述しています。的確な伝達では、「1つの言葉が多義になってはいけない」 ことは、言われてみれば、当然なのですが、作文技術のなかで、多義が、たいがい、論点になっているということを鑑みれば、多義を、なかなか、排除することができていない、ということかもしれないですね。なぜなら、基本語は多義語ですから。

 多義を回避するためには、綴り終えた文を推敲する際、「ほかの言いかたはできないか」 と問いながら読み返してみたら、どうでしょうか。

 たとえば、上述の文 (1) では、「講師をしに行く」 は 「講師をしに出向いた」 と言い換え、「いっしょに行った」 は 「同行した」 とし、(2) では、「いっしょに行かなかった」 は 「いっしょに帰らなかった」 とすればいいでしょう。
 言い換えには類語辞典が役立ちます。

 
副詞と形容詞は、なるべく、使わない。

 副詞や形容詞が、ほとんど、使われていない文は、贅肉を削ぎ落とした (曖昧さを排除した) 文になります。

 副詞には、状態副詞・程度副詞・陳情副詞の 3つがあります。
 状態副詞は、たとえば、「すっかり・さっそく・すぐに・すでに・ぴったり」 などを例示でき、程度副詞としては、「もっと・非常に・ずっと」 などが例示でき、陳情副詞は、「けっして、少しも、断じて、どうして、きっと、たぶん、おそらく、もし、たとえ、仮に、どうか、ぜひ、ちょうど、まるで、さも」 が例示できます。

 以上から判断できることは、ほとんどの副詞 (状態副詞・程度副詞) は、英語でいえば、greatly とか badly とか completely とか already とか at once であり、陳情副詞は、not at all とか why とか maybe とか probably とか if とか as if ですね。陳情副詞は、論理の すじみち のなかで使うので、論点になる副詞は、状態副詞と程度副詞でしょうね。状態副詞と程度副詞は、ざっくばらんに言えば、「スゲー」 とか 「ヒデー」 ということでしょう。状態副詞や程度副詞が論点になるのは、「どの程度なのか」 という正確な記述を避けているからでしょうね。事態を報告することを目的としている実用的な文では、副詞の多用は、文が曖昧になるから、副詞を避けるのが良いとされるのでしょう。

 形容詞は 「活用」 のある自立語であり、状態や性質を表す単語です。形容詞の多用は情感の満ちた文になるので、報告を旨とする実用的な文にはぶさわしくないのでしょうね。たとえば、以下の文を検討してみましょう。
 「たとえ、この報道が、すべて、事実ではないとしても、この美しくもあわれな出来事に対して云々」。

 「美しくもあわれな」 は、作者が、ひとりで (独断的に) 「美しい」 とか 「あわれ」 と言っているだけであって、なんら、事実の報告になっていない。副詞や形容詞を使った記述に対して、以下の反対意見を提示することができます。
 「How so?」

 
漢語・専門語・カタカナ 和製英語は、相手を考えて使う。

 コンピュータ 業界のなかで使われている用語は カタカタ 表記が多いので、私は、カタカナ の記述には慣れているのですが、出張の際、飛行機 (国内線) のなかで読んだ雑誌に記載されていた 「スベニア」 という カタカナ は意味がわからなかった。その言葉は、或る随筆のなかに出てきたのですが、(その随筆の) 1ページ の文字数の 50%は カタカナ だった(!) スベニア は、たぶん、souvenir のことだろうと私は想像したのですが、「記念品、みやげ」 と綴らないで 「スベニア」 と カタカナ 書きにした理由が私にはわからなかった。

 或る女性から 「ヘルシー」 の意味を私は訊かれて、意味がわからなかった (苦笑)。彼女は、「ヘルシー」 の 「シー」 を 「she」 のように発音していたので、私は、皆目、「ヘルシー」 の英単語を想像することができなかった。ちなみに、上述の随筆のなかに、「ヘルシー」 も、出ていました(笑)。

 以上の例は、実用的な文ではないので、文を読んでいて不愉快になれば読書を止めればいい、というだけのことですが、実用的な文のなかに、カタカナ 読みの英語が入ってくると報告が円滑に伝わらないことも出てきます。
 たとえば、NHK の ニュース のなかで、「シックハウス」 という用語が出てきたのですが、私は、全然、単語を想像することができなかった、、、。画面には、「シックハウス」 という カタカナ しか表示されていないし、キャスター は、「シック」 を 「chic」 のような発音をしていたから。

 sick は impaired の意味があって、「欠陥のある」 ことをいいます。ただし、単なる 「欠陥住宅」 ではなくて----「欠陥住宅」 は、「手抜き工事された住宅」 という意味で、かって、使われていたので----、toxic mold をいう意味を示すために、そのまま、シックハウス というふうに カタカナ 読みにしたのかな、と想像します。 sick house は「有毒化学物質の材料を使って建てられた住宅」 のことなのだから、(有毒性 [ toxic ] という言葉が露骨すぎるなら、有害という言葉を使って) 「有害建材を使った住宅」 としても良かったのではないでしょうか。
 「有害建材を使った住宅」 という言いかたを繰り返すのが、しつこいなら、「有毒性の建材を使った住宅、いわゆる シックハウス」 というふうに最初に述べて、それ以後、シックハウス とすればよかったのではないでしょうか。NHK の ニュース では、「IT」 という言葉を使うときには、「IT、つまり、情報技術」 というふうに、日本語も添えているのですが、シックハウス に関しては、そういう措置を、どうしてしなかったのか、という点を私は不思議に思いました (というよりも、不愉快に感じました)。

 私が、皆目、理解できない コンピュータ 業界の カタカナ 用語として、以下の文を記載しておきます。

 「私どもは トータル・ソリューション を提供いたします。」

 言葉の多義を回避するために、学術上で、特に限定された意味で用いる語として 「学術語 (専門語)」 が生成されるのでしょう。「相手意識と目的意識」 について、以前、語りましたが (238ページ参照)、執筆量には制限があるので、記述は、或る知識枠を前提にして、さらなる一歩を進めることを狙いにしています。そのために、その書物を読むために前提とされている知識枠を共有していなければ、書物のなかで言及されている概念を適切に理解することができないでしょうね。

 隠語というのは、「仲間意識」 を露骨に示す特別の語です。たとえば、エンジニア たちが ソフトウェア の接続性に関して使う 「相性(相性が良いとか、相性が悪いとか)」 という語を私は隠語だと思っているのですが、この語が日常の使いかたと違っていることを痛感した出来事に遭遇しました。
 その出来事というのは、(仕事から帰宅途上に) 電車のなかで、私の後方座席で、マネジャー らしき年配の人が連れの同僚に対して大声で愚痴を言っているのが聞こえてきました。彼の話の筋は、以下に示すとおりです。

 (1) 彼の パソコン が壊れた。
 (2) パソコン を修理するために、サポート・センター の エンジニア がきた。
 (3) エンジニア は、「相性がないのかなあ」 と言った。

 それを聞いた マネジャー は、「(マネジャーが) パソコン と相性がない」 と言われたように勘違いして八つ当たりしていた、という次第です。また、エンジニア たちの間で、まことしやかな噂話として、以下の話が伝わっています。

 「パソコン の環境を整えてください。そう言われた人が部屋を掃除したそうです。」

 
言葉の意味は文脈のなかで成立する。

 言葉の意味を考える際、辞書的な語幹を最初に調べることは、まず、しないのではないでしょうか。
 文というのは 2つの段階----言葉の意味を的確にする段階 (中味) と言葉を配列する段階 (形式)----というふうに切り離すことができる訳ではない、と思う。言い換えれば、中味と形式は、いっしょになって、混沌のなかから生まれ出るというのが正しい。ピアノ の鍵盤のように、1つの言葉という キー (鍵盤) を叩けば、1つの観点が出てきて、言葉を配置して、言葉と言葉の響き合いのなかで、意味を伝達するのが作文でしょうね。
 だから、文を綴るには、最初、執筆の体系を用意して、次に、一気に綴るのが良いと思います。そして、執筆のあとに推敲すればいい。推敲しながら、多義を排除して、副詞や形容詞を削除すればいいでしょうね。ただ、推敲が過ぎれば、文の 「流れ」 が寸断されて、文が無味乾燥になるようです。推敲の度合いが むずかしいようです。ちなみに、私は、ほとんど、推敲をしない。

 作者の体温が滲み出ているような文こそ、「生きた」 文だと私は思っています。このことは、実用的な文についても、そうだと思っています。すなわち、文のなかで使う個々の単語にしても、文体にしても、およそ、執筆した人がさらけ出されてしまう、というのが作文の怖さと醍醐味でしょうね。なぜなら、同じ 1つのことを記述するにも、数々のしかたがあるから。

 



[ 読みかた ] (2009年 1月16日)

 取り立てて補遺はいらないでしょう。
 私は、言語学者ではないので、「センテンス のありかた」 という テーマ を言語学の観点から述べる知識もないし、あるいは、もう少し非専門的に云って、「作文法」 という観点から述べる知識もないので、私が センテンス を綴る際に、気になっている点を無作為に列挙したまでです。カタカナ・副詞・形容詞・漢語および専門語などの使用について注意しなければならないことは、作文の書物に 「定石」 として綴られていますので、私が ここで改めて述べるほどのことでもなかったのですが、私は コンピュータ 業界で仕事をしていて、コンピュータ に関する概念・技術は ほとんどすべてが (日本で生まれたのではなくて、) 西洋からの移入なので、日本語のなかに対応する概念がないので、どうしても、カタカナ 表記にならざるを得ないので、カタカナ が満載の書物を読む機会が多い。ただ、もし、それらの カタカナ を 「強いて」 日本語に翻訳したら、かえって、「意味」 が曖昧になってしまうでしょう----たとえば、オペレーティング・システム や ソフトウェア などを日本語に翻訳できないでしょうね。カタカナ 表記に慣れている私でも、本 エッセー のなかで綴った 「スベニア」 「シックハウス」 には、少々、辟易 (へきえき) しました。

 私が、本 エッセー で述べたかった点は、「作者の体温が滲み出ているような文こそ、『生きた』 文だ」 という点です。小林秀雄氏 (文芸評論家) は、以下の名言を遺してします。

    現実といふものは、それが内的なものであれ、外的なものであれ、人間の言葉という
    ようなものと比べたら、凡そ比較を絶して豊富且つ微妙なものだ。そういう言語に
    絶する現実を前にして、言葉というものの貧弱さを痛感するからこそ、そこに文体と
    いうものについていろいろと工夫せざるを得ないのである。工夫せざるを得ないので
    あって、要もないのにわざわざ工夫するのではない。

 この文を、私は、本 ホームページ のなかで、いくども引用してきましたが、私は、この ことば を みずからの戒めにしています。





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  佐藤正美の問わず語り