2004年 1月16日 作成 センテンス のありかた (1つの文 = 1つの概念) >> 目次 (作成日順)
2009年 2月 1日 補遺  


 
 TH さん、きょうは、センテンス のありかたとして、「1つの文 = 1つの概念」 について考えてみましょう。

 
文は短いほうが わかりやすい。

 1つの文 (センテンス) は、基本的に、「主語 + 述語」 の形として、1つの概念を記述します。つまり、事態を単純に記述するなら、「だれが、どうする」 や 「なにが、どうなる」 という形が基本形なのです。そして、それを詳細に (網羅的に・正確に) 記述するなら、いわゆる 「5W1H (who, when, where, what, why, how)」 という配慮がされていれば良いのでしょうね。
 「主語の省略」 というのは、日本語の特徴ですが──主語を省略しても、敬語を巧みに使いながら、「だれ」 のことを言及しているかが推測できるのですが──、実用的な文では、主語が隠れるとわかりにくい文になるので、主語を、かならず、記述して、「(主語が繰り返されているので) しつこい」 と思われても、(主語を省略したがために) 誤解されるよりも、マシ (lesser evil) でしょう。

 「主語 + 述語」 の基本形のなかに、修飾語 [ 副詞 (句)、形容詞 (句) ] を加えれば加えるほど、文は長くなりますが、日本語は、文の最後 (述語の最後) まで読まないと、書き手の 「判断」 がわからない言語ですから、主語と述語が離れたら、文の筋がわかりにくいようです。

 短い文ばかりを並べれば、接続語を巧みに使わないと、寸断された文の ベタ 打ちになって、思考も寸断されるので、読みにくい。「文は短いほうが わかりやすい」 という意味は、1つの文を綴るとき、「綴られる文字数が少ない」 という意味ではなくて、「だれが、どうする」 (あるいは、「なにが、どうなる」) の形式として、主語と述語の距離が短ければ良い、ということでしょうね。つまり、「だれが、どうする」 (あるいは、「なにが、どうなる」) ということがわかりやすければ良い、ということです。そういうふうに考えれば、主語と述語との間に、長い修飾語を数多く挿入することをしないでしょう。「主語を、かならず、記述する」 ように前述した理由は、「だれが、どうする」 (あるいは、「なにが、どうなる」) という伝達を確実にするためばかりではなくて、主語と述語との距離を計測して長めの修飾句を排除するためです。

 
「の」 をみだりに使わない。

 「ぜんまいののの字ばかりの寂光土」(川端茅舎)

 この句は、文芸的な文として、「の」 を意識的に使って、映像を遺すようにしているのですが、実用的な文では、「の」 が続けば、論理が曖昧になってしまうようです。
 たとえば、「今年の富士山の登山のつらさは」 というふうに、「の」 が続く記述では、「今年の富士山」 なのか 「今年の登山」 なのか、ということが曖昧です。あるいは、「妻の写真」 という記述では、「妻が映っている写真」 なのか 「妻が撮影した写真」 なのか、という点が曖昧です。

 助詞 「の」 は、或る モノ と他の モノ を直接に接続して、関係があることを記述しますが、どのような関係であるか、という点を記述しない点が特徴です。たとえば、「朝の コーヒー」、「1月 9日の セミナー」、「私の パソコン」 や 「SDI 社の佐藤正美」 など。これらの例は、関係を正確に記述すれば、「朝に飲む コーヒー」、「1月 9日に開催される セミナー」、「私が使っている (あるいは、所有している) パソコン」 および 「SDI 社に勤務する佐藤正美」 となるでしょう。
 逆に言えば、モノ の性質が、そのまま、関係として成立するなら、関係の記述を省略しても良い、ということでしょうね。たとえば、「コーヒー = 飲む」、「セミナー = 開催する」、「パソコン = 使う」 とか 「会社 = 勤務する」。とすれば、「モノ の性質 = 関係」 が成立しないなら、「の」 を使わないほうが良い、ということでしょう。たとえば、写真は、「撮影」 と 「写像」 の 2つの性質が成立しますから、「妻の写真」 は、意味が曖昧になります──さらに、「妻が所有している写真」 という意味も成立します。そして、「の」 が 2つ以上続けば、2階層以上の関係が混入するので、意味が曖昧になる、ということでしょう (たとえば、「今年の富士山の登山のつらさは」)。したがって、助詞 「の」 が 2つ続くなら、言い換えを検討したほうが良いでしょうね。

 
修飾する語と修飾される語は接近していたほうがよい。

 さきほど、主語と述語との距離は短いほうが良い、と綴りましたが、同じように、関係のつよい語句は、接近していたほうが良いでしょう。篠田教授は、この法則を、「縁語接近」 という端的な言いかた をなさっています。

 「縁語接近」 の悪文、
 「我ながら、さきほど提出した独自の意見を述べた論文は、なかなか、良い出来だったと思う。」

 添削例、
 「さきほど提出した論文のなかでは、独自の意見を述べたので、なかなか、良い出来だったと、我ながら思う。」

 
 「縁語接近」 の悪文、
 「どうしても、多くの人たちが、そういうふうな考えをするのが納得できない。」

 添削例、
 「多くの人たちが、そういうふうな考えをするのが、どうしても納得できない。」

 
論理的な文 (あるいは、概念) の単位で句読点を打つ。

 句読点は、原則として、論理的な単位で打ちます。

 句読点の悪文例 (1)、
 「私の家は会社から遠い町はずれにある。」

 添削例、
 「私の家は、会社から遠い町はずれにある。」

 句読点の悪文例 (2)、
 「上司も喜び同僚も喜んだ。」

 添削例、
 「上司も喜び、同僚も喜んだ。」

 句読点の悪文例 (3)、
 「私は、雨が降れば行かない。」

 添削例、
 「私は、雨が降れば、行かない。」

 
 読点を適切に使うことは、意外と、むずかしいようです。
 私も、読点の的確な打ちかたを、いまだに知らない (苦笑)。上述した悪文例のなかで、(1) と (3) に関して、正しい読点を打つことができる人は、多くいないのではないでしょうか。

 私の文は、読点が多い、と思います。というのは、私は、「息継ぎ」 を目安にして、読点を打っていますから

 



[ 読みかた ] (2009年 2月 1日)

 「文は簡潔なほうがいい」 と作文の書物には書かれていますが──私は この意見に対して反対するつもりはないのですが──、ただ、この 「簡潔さ」 に関して、若干の抵抗感を覚えます。というのは、この 「簡潔さ」 というのは、どうも、文を読むときに、「目読 (黙読ではない点に注意されたい)」 を前提にしているように思われるので。
だから、「簡潔な」 文を綴ろうとすれば、視界に入りきるように、「短い文が良い」 などという思い違いが出てきて、「の」 を多用して文を縮めてしまうのではないかしら。新聞の文なら、それでよいと私は思いますが、一般の文を そういうふうに綴るのは、はたして妥当なのかしら。

 文を読むというのは (「目読」 ではなくて、) 「朗読」 を前提にしたほうがいいのではないでしょうか。そして、「朗読」 を前提にすれば、読点を それなりに的確に打つことができるでしょうし、「の」 も乱用しないでしょう。そして、たとえ、長文であっても、読点が適宜打たれていて、logical thread が乱れていなければ読みやすいはずです。「ひとつの文は 或る文字数を超えないほうが良い」 などと機械的に扱うほうが、文に対する作法を間違っていると思います。たとえば、以下の文を読んでみてください──この文を綴っている私のてもとに置かれている・或る書物のなかから無作為に ひとつの文を採ってみました。

    たびたび作家は、処女作に向かって成熟するということが言われるのは、作家にとって、まだ
    人生の経験が十分でない、最も鋭敏な感受性から組み立てられた、不安定な作品であるところの
    処女作こそが、彼の人生経験の、何度でもそこへ帰って行くべき、大事な故郷になるからにほか
    ならない。

 作文作法の書物が述べている点から判断すれば、上に引用した文は、おそらく、悪文になるでしょうね──ひとつの文が長すぎるとして。でも、上に引用した文が伝えようとしている意見は、私には、きっちりと把握できますし、長い文にもかかわらず、読点が適宜打たれていて、読みやすい文だと思います。ちなみに、引用した文は、三島由紀夫氏(小説家)の文です。作文作法を綴っているひとが、はたして、これほどの中身ある文を綴れるのかしら。

 作文作法に記述されている作文の技術は、膨大な事例を分析して得られた結果だと思うのですが、そういう類の書物に記述されている技術は、「良い文には、そういう特徴がある」 というくらいに読み流しておくのが無難でしょうね。というのは、「逆かならずしも真ならず」 という法則は、そういう類の書物にも言えることでしょうから。





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  佐藤正美の問わず語り