2004年 4月16日 作成 セマシオロジー と オノマシオロジー >> 目次 (作成日順)
2008年 5月16日 補遺  


 
 統語論と意味論との関係を、モデル の観点から検討すれば、ふたつの間には、溝がある。
 この溝が、そのまま、概念設計と論理設計の溝になっている。

 データベース の モデル では──たとえば、関係 モデル では──、意味 (論理的意味論) は、モデル のなかで、制約条件として示される。つまり、記述された構造を観れば、意味を読むことができる、という考えかたである。関係 モデル では、意味は、従属性 (関数従属性と包含従属性) を使って記述されている。たしかに、記述されている データ 構造 (テーブル 構造) を観れば、意味を把握できるが、実は、データ 構造を設計する前に、意味を知らなければ、データ 構造を設計できない。したがって、論理 データベース 設計 (データベース 設計論) は、概念設計を前提にしている。

 さて、論点となるのは、概念設計のなかで扱われる意味論が、どういう構造になっているのか、という点である。
 概念設計の観点に立って、「構成を作る」 となれば、オノマシオロジー 的な アプローチ となる

 概念設計では、記述の対象は、事業の営みであり、事業の営みのなかから、データベース 化の対象が検討される。事業を対象とすれば、「感知 (感覚的認知) の対象」 は 「出来事」 である。「出来事」 は、推移する。推移するから、「出来事」 を感知することができる。同じ 「出来事」 を再現することはできないが──なぜなら、時間軸のなかで推移するから──、「出来事」 のなかに関与する対象というのは 「再現する」 性質がある。「認知 (知的比較作用)」 は、同一性を意識することである。したがって、「出来事」 を認知することはできないが──感知することはできるが──、「出来事」 のなかに参入する対象は認知される(注意)。「出来事」 が、どういう事態であるか、ということは、対象が、どういう物であるか、ということを調べれば理解できる。たとえば、商品と代金 (貨幣) が やりとりされた 「出来事」 は、「購入」 として感知される。そして、感知された 「出来事」 が記録され、測量の対象となれば、認知の対象となる。

 さて、「出来事」 を感知する (あるいは、認知する) 手段が、意味論では論点になる。
 オノマシオロジー 的な アプローチ では、商品と代金 (貨幣) が やりとり された 「出来事」 のことを、「購入」 という言葉を使って記述する、という アプローチ になるが、「購入」 は、事業の営みのなかで、事業に関与している人たちのあいだでは、すでに、「合意された認知対象」 になっているのである。と同時に、オノマシオロジー でも、「出来事」 を記述するために、前提として、対象を、すでに、認知している。もし、「出来事」 を形成している対象すら、改めて、感知しなければならないとすれば、無限後退に陥る。

 事業を対象にして構造を記述するのなら、事業のなかで、なにが 「合意された認知対象」 になっているのか、という点を調べるほうが、「出来事」 そのものを感知して記述することに比べて、事業の構造を記述しやすい。まったく新しい 「出来事」 に対しては、オノマシオロジー 的な アプローチ しか使うことができないが、すでに、営まれている事業を対象にすれば、セマシオロジー 的な アプローチ のほうが、的確な構造を記述することができる。言い換えれば、事業のなかで、事業に関与している人たちが、「合意された認知対象」 を記述するために、どのような言葉を使って伝達行為をしているか、という点を調べたほうが良い。たとえば、かって、紙形式の受注伝票を起票して、受注を認知していたが、さらに、ウェッブ からの注文が、受注形態として認知されて、「受注」 という意味が、通時的に観て、拡大することもある──しかも、かっての受注は、出荷してから請求する形態であったが、ウェッブ からの受注は、注文があったら、まず、請求して、入金を確認したあとで、出荷するかもしれない。

 データベース 設計論のなかで意味論を扱うために、T字形 ER手法が、事業のなかで伝達されている 「情報」 を対象にして、セマシオロジー 的な アプローチ をしているのは、以上の点を理由にしている。

 
(注意)
 ホワイトヘッド 氏(Whitehead, A.N.) は、出来事と対象との一般的関係を記述する用語として、「侵入 (ingression)」 を使っている。
 [ 科学的認識の基礎--自然という概念--、藤川吉美 訳、理想社、146 ページ。]



[ 補遺 ] (2008年 5月16日)

 TM (T字形 ER手法の改良版) は 「意味論 (しかも、論理的意味論)」 に属する モデル です。そして、それは、「データ・言語・意味」 の関係を記述するための モデル です。D. Davidson 氏は、かれの著作 「真理と解釈」 のなかで、かれの考えかたを以下のように述べています (以下の文は、「反 コンピュータ 的断章」 でも引用しました)。(参考)

    私が考えている意味理論の仕事は、ある言語を変えたり、改善したり、あるいは改変したりすること
    ではなくて、それを記述し理解することだからである。

    要求されることの多くは、通常の英語を あれこれの標準的な表記に直す際に現在われわれがうまく
    やっていることを、可能な限り機械的に行なうということである。

 二番目の文が、まさに、TM の狙いを撃ち抜いています。これらの ふたつの文で述べられていることを実現するために、私は、TM を作りました──もっとも、TM を作った当時 (10数年前) では、いまだ、Davidson 氏の著作を読んでいなかったのですが。

 さて、一番目の文で述べられていることを実現するために、TM は、事業過程のなかで使われている 「情報 (画面、帳票、レポート など)」 を対象にして、「『意味』 の構成」 を記述する アプローチ を導入しました。そして、二番目の文で述べられていることを実現するために、「情報」 のなかで使われている語彙 (と ロジック の語彙) を前提にして、文を作る 「文法」 (関係文法) を用意して、「情報の 『意味』」 を、できるかぎり機械的に記述するようにしました。すなわち、「文を分析する」 という セマシオロジー 的な アプローチ を導入しました。言い換えれば、(「真とされる」 集合を前提にして、) まず、構文論的に、「『意味』 の構成」 を記述して、次に、「構成された文」 が、実際の事態に対応するかどうかを験証するという接近法です。この接近法は、R. Carnap 氏の用語を借用すれば、まず、「(導出的な) L-真」 を構成して、次に、「(事実的な) F-真」 を験証するという接近法です。ちなみに、「L-真」 を構成する前提となる 「真とされる集合」 として、「合意」 概念を使いました──「合意」 概念は、L. Wittgenstein 氏の考えかたを参考にしました。ちなみに、「『L-真』 → 『F-真』」 という接近法は、期せずして、Davidson 氏が (タルスキー の 「真理条件」 を拡張して) 提示した 「規約 T」 と同じ接近法です。「規約 T」 を単純に言い切ってしまえば、「p という言明は、q という事実に対応している」 ということです──勿論、学問的には、「規約 T」 は、もっと正確に記述されています [ 「s が T であるのは、p の場合その場合に限る」 という規約であって、「T である」 という述語は、たとえば、「真である」 という概念であれば、そして、もし、自然言語での言明であれば、s と p が等値であるか、あるいは、共外延的であるという条件下になければならないとされています ]。

 Davidson 氏は、「意味」 を 「真」 概念に置換して、「真理条件 (規約 T)」 を判断手段にしています。「意味」 に関して、かれは、以下のように述べています (「真理と解釈」)。(参考)

    「意味」 という語を私は気ままに使用している。というのも、私が意味理論と呼ぶものは結局、文の
    それにせよ単語のそれにせよ、意味というものを全く利用しないということが判明するからである。

    真理理論についての タルスキ の構想がもつ価値のうちでも比較的重要なのは、それがわれわれに
    要求する方法の純粋性は、問題自身の定式化から帰結するのであって、ある外来の哲学的純粋主義
    が自己に課した制約からではない、ということである。
    論理形式ないし文法の問題と、個々の概念の分析とのこの区別を念頭においておくということの、
    言語哲学にとっての有益性は、どんなに誇張しても、し過ぎることはないと私は考える。

 これらの文を、私 (佐藤正美) は、そのまま、コンピュータ・システム 設計の、いわゆる 「分析行程 (job-analysis と称されている概念設計)」 に適用して良い──あるいは、システム・エンジニア たちに声を大にして訴えたい──と思います。

 
(参考) 「真理と解釈」、第一章 「真理と意味」、野本和幸 訳。     





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