2004年11月16日 作成 読書のしかた (書物との出会い) >> 目次 (作成日順)
2009年12月 1日 補遺  


 
 TH さん、きょうは、「書物との出会い」 について考えてみましょう。

 
 読書が、人生のなかで、どのように作用するのか、という点を語ることは、むずかしい。
 読書は、直ちに使う技術を習得することを目的としているかもしれないし、自らの思考を養うためを目的としているかもしれないし、気晴らしや暇潰しを目的としているかもしれないし、あるいは、気晴らしとして読んだ書物が、自らの思考に対して、おおいな影響を与えるかもしれないし、、、。

 書物との つきあい も、生身の人たちとの つきあい と同じであることを、かって、綴りました [ 138ページ 参照 ]。
 ただ、人と人が、直接に、具体的に、交渉する形態は、活字を読んで考える形態とは、あきらかに、相違する点があります。それは、生身の人が相手であれば、交渉のなかで、相手の反応が出るということと、長い年数のあいだには、相手は、昔と同じ性質に止まらないということです。つまり、2人の関係では、2人とも変移する、ということです。したがって、相互関係の主体たる 2人が、しだいに、性質が変わってゆくので、交渉そのものが、豊富な綾を織るということです。

 いっぽう、書物は、長い年月のあいだでも、記述されている中身が変わらない。或る書物を、はじめて読むときも、再読するときも、書物の中身は同じです。くりかえして読んでいるうちに、中身の理解度が増した、というのは、読み手のほうが変わったのであって、書物が変わった訳ではない。とすれば、書物は、読み手の思考 (の変移) を対比できる測量点である、と云えるでしょう。つまり、書物は、「鏡 (かがみ)」 としての作用がある、ということですね。

 「自我」 が芽生えるまで、我々が、考えかたの 「鑑 (かがみ)」 とするのは、親や友人や (学校の) 教師でしょう。そういう身近な人たちとの交渉のなかで、我々は、育ちました。「鑑」 と云いましたが、ときには──自我が芽生えるにつれて──、親や (学校の) 教師は、反抗の対象にもなりました。ただ、たとえば、親や (学校の) 教師が年老いて、我々のほうが、壮年として、力がまさっても、我々は、考えかたを指導してくれた人たちに対して、謝念を抱いているでしょう。

 「自我」 が芽生えてからはじめた読書では、「鑑」 となる作家が出てくるかもしれない。そういう作家の書物が、おおかた、座右の書になるのでしょうね。膨大な量の出版物のなかで、そういう作家と巡り会えたことは、友人との 「邂逅 (かいこう)」 と似ているでしょう。

 さて、あなたに、読書を愉しむ弾みを与えてくれた作家は、だれですか。私自身のことを言えば、有島武郎でした。私が高校一年生の頃、(弟が、夏休みの読書感想文として、「カイン の末裔」 を読んでいたのですが、) たまたま、私は、弟が机のうえに置いていた書物を手にして、拾い読みしたら、のめり込んでしまい、一気に読破しました。そして、有島武郎の他の著作を読みたくなって、「生まれいずる悩み」 や 「惜しみなく愛は奪う」 や 「或る女」 などを買って、読みました──ちなみに、「惜しみなく愛は奪う」 や 「或る女」 は、当時、字づらを読んではいたけれど、中身を理解することができなかった。それらの作品に対して感応できるようになったのは、もっと、あとになってからのことです。
 大学生の頃には、亀井勝一郎さんの作品を読み漁りました。川端康成や三島由紀夫を読んだのも、その頃です [ 正確に言えば、川端康成・三島由紀夫を読み始めた時期は、大学受験に落ちて 「浪人」 になったときです ]。「眠れる美女」 (川端康成 作) は、私の感性 (美意識) を直撃しました──以来、愛読書です。

 多くの人たちは、じぶんの読書を振り返ってみれば、読書が、「鑑・鏡」 として作用したことに対して、邂逅の思い出をもっているでしょうし、謝念を (あるいは、悔恨かもしれないけれど) 感じているでしょう。自らの人生に対して、痕跡を遺した書物は、生身の人たちとの つきあい と同じように、強烈な 「思い出」 となるようです。

 



[ 読みかた ] (2009年12月 1日)

 文学史の書物は、或る意味では、「古典」 を読むための読書案内になるでしょうね。ただ、文学史に記載されている 「古典」 を順次読破してゆくというのは、文学を専門にしている学者くらいであって、そうでない人たちは、数多い 「古典」 のなかから じぶんの嗜好にあった書物を選ぶという行為は、本 エッセー で述べたように 「偶然」 の巡りあわせであることが ほとんどではないかしら。その意味において、書物との出会いは、生身のひと との邂逅に似ているのでしょうね。そして、常日頃 「探し求める」 状態にいるひと と、そうでないひとでは、出会いに対する感知の程は違ってくるでしょうね。

 私は、いま、56歳ですが、高校生・大学生の頃に読んだ書物は、いまに至っても、私の性質・思考に対して多大な影響を及ぼしていると感じています──それが果たして どういう影響を及ぼしてきたのかを、いまの私は詳細に述べることほどの文才をもっていないのですが、来しかたを振り返ってみれば、それらの書物が私の生きかたに影響を及ぼしてきたことは否定できない事実でしょうね。かつて、「反文芸的断章」 のなかで、「戯れに恋はすまじ」 という エッセー を綴ったのですが、その エッセー を いま読み返してみて、書物 (文学書) が私に与えた影響は、私にとって必ずしも良い影響だったとは思っていないようです。「戯れに恋はすまじ」 というのは、この文脈のなかでは、勿論、男女の恋愛のことを言及しているのではなくて、(生身の恋人に出遭うように、) 書物に出遭って、書物に 「恋」 したという比喩です。

 私の読書は文学書のみを対象している訳ではないのですが──本 ホームページ の 「読書案内」 を ご覧いただければ、文学のほかに、数学・歴史・哲学・宗教などの書物も多数読んできているのですが──、私の性質に直接に・多大に影響を及ぼしている書物は、やはり文学書であったのは否定できない。では、私は、どうして文学に惹かれるのか、、、その理由を詳細に述べることは、だれにもできないのではないかしら。喩えれば、恋人に対して、「どうして私を好きになったの?」 と問うのと同じでしょうね──その問いに対する返事として、「曰く、言い難し」 としか謂えないでしょう。恋愛は──もし、それが真摯な状態であれば──、長時の・膨大な エネルギー を費やすことになるでしょう。だから、「戯れに恋はすまじ」。そして、たとえ、長時の・膨大な エネルギー を費やして真摯に愛しても、破局に至ることもあるでしょう──費やした エネルギー が多大であればあるほど、破局したときの反作用は強大でしょうね。文学書は、私の感性を頗 (すこぶ) る鋭くしたけれど、人生に対する夢 (あるいは、幸福感と云ってもいいかもしれない) に対する滋養にはならなかった、、、。あるいは、こう謂っていいかもしれない 「『生活の実態を沈着に・悠然と観る眼』 を養ってはくれたが、生活のなか から幸福を掬 (すく) いあげる術を毛頭示してはくれなかった」 と。しかし、恋愛に夢中な恋人たちが、果たして、実生活など意識するのかしら、、、。そして、私の感性は、小説・詩を気晴らしに読み捨てるほどの逞しさがなかった。





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  佐藤正美の問わず語り