2005年11月 1日 作成 文を綴るための辞典 (和英対訳の国語辞典) >> 目次 (作成日順)
2010年11月 1日 補遺  


 
 TH さん、きょうは、「文を綴るための辞典 (和英対訳の国語辞典)」 について考えてみましょう。

 
 国語辞典 (日本語辞典) では、日本語の語彙に対応して、(簡単な) 英訳を添付している辞典があります。こういう 「日本語 対 英語の 『1 対 1』 対応」 的な記述は、語義の理解を misleading にする危険性が高いことを、以前、述べました (118ページ を参照してください)。

 あるいは、研究社版の 「和英大辞典」 は、国語辞典としても使うことができるし、もし、国語辞典として使えば、「和英対訳」 として、語義の記述が 「(研究社版の) 和英大辞典」 は (ふつうの国語中辞典に比べて) 詳細なので、和英辞典のほうが、当然ながら、的確です。「(研究社版の) 新和英大辞典 第 5版」 は、本 ホームページ のなかで (トップページ のなかで)、「推薦図書」 として記載しようと思ったほど、日本語を丁寧に分析しています。ただ、和英大辞典は、版形が大きいので、つねに、てもとに置いて参照する という辞典ではないでしょうね。なお、和英大辞典を国語辞典として使っている人たちは、意外に多いのではないでしょうか。

 或る対象を理解するためには、他の対象を参照項として対比すれば、理解しやすいでしょう。したがって、日本語を丁寧に学習しようと思えば、英語や他の言語を対比したほうが理解しやすいのは確かですね。日本語を主体にして、英語を対比して、日本語を使った運用力を、いっそう、高め、かつ、英語も、日本語の運用力──そして、日本語を使った思考力──を前提にして学習する、というのが効果的・効率的な やりかた ではないでしょうか。
 英語を起点にして、「英語 対 日本語の 『1 対 1』 対応」の 「翻訳」 を回避して、日本語を使って英語の概念を記述する やりかた も当然ながら、同じように役立ちます。そういう やりかた を導入した辞典が 「英英和」 辞典です。

 私は、最近、読書に比べて、執筆──書物の執筆や、ホームページ の作成など──が多いので、(以前に紹介した) 「例解新国語辞典」 と 「ハンディ 版類語辞典」 を使うことが多いのですが、ときどき、和英対訳を記載した国語辞典を使います。私が使っている和英対訳国語辞典は、以下の辞典です。

   「ローマ 字で引く 国語新辞典」、福原麟太郎・山岸徳平、研究社

 福原麟太郎氏は英語研究者として、山岸徳平氏は日本語研究者として、それぞれ、大家であることは、語学に興味のある人たちなら、ご存じでしょう。福原氏と山岸氏という大家を冠にしていますが、実際には、清水氏・福原氏・山岸氏・和田氏・小沢氏の 5人が作成なさったことが、「はしがき」 のなかに述べられています。この辞典は、版が古いので (1952年版)、使われている漢字が旧字体です。しかも、見出し語は、ローマ 字記法なので──研究社の和英大辞典も、第 4版まで、見出し語を ローマ 字記法にしていましたが──、使いにくいかもしれない (日本語を学習する外国人にとっては、役立ちますが)。

 ローマ 字記法を例にすれば、「万華鏡」 の発音として、「まんげきょう」 というふうに言う人たちが多いと思うのですが、「ローマ 字で引く 国語新辞典」 では、「banka-kyo^」 という語彙として収録されています。

   banka-kyo^ 万華鏡 (名) [ kaleidoscope ] = nishiki-megane

   nishiki-megane 錦眼鏡 (名) = banka-kyo^ (万華鏡)

 そして、「まんげきょう」 としての語彙は記載されていない。
 そういう記述を読んでいたら、私の想像力が走って、以下の諸点を調べてみたい、と思いました。

  (1) 辞書の記述から判断すれば、banka-kyo^ の発音のほうが mange-kyo^ に比べて、先に使われていたのか。
  (2) banka-kyo^ が、mange-kyo^ という発音に変わったのは、いつ頃なのか。
  (3) banka-kyo^ は、「万華」 鏡という綴りだが、「万華」 は 「万花」 が起点になっているのではないか。
  (4) kaleidoscope は 「舶来品」 として日本に入ってきて、その翻訳として、「banka-kyo^ (万華鏡)」 を使ったのか。
  (5) kaleidoscope に似た作り物が、日本にも存在していて、その作り物を 「banka-kyo^」 と言っていたのか。
     そして、「banka-kyo^」 に似た kaleidoscope も 「banka-kyo^」 と呼ぶようになったのか。

 それらの疑問点を調べようと思えば、書斎のほうに往って、国語大辞典・漢和大辞典・百科事典や語源大辞典、さらには、事物起源事典を、かたっぱしから調べてみればよいのだけれど、私は、いま、(書斎ではなくて) 拙宅のほうで、この文を綴っていて、それらの辞典・事典を参照することができない。もっとも、後々になっても、調べない、と思うけれど (笑)。こういう興味は、私の仕事には直接に関与しないので、こども じみた好奇心にすぎないけれど、私の思考力が走ります (笑)。
 「万華鏡」 について綴ったので、ついでに、もう 1つ、「鏡」 の話をしてみます (笑)。「ローマ 字で引く 国語新辞典」 のなかに、たまたま、「sho^ma-kyo^ (照魔鏡)」 という語彙が目に入りました。

   sho^ma-kyo^ 照魔鏡 (名)
     1. これにうつすと、妖怪・変化 (ヘンゲ) の本体があらわれるという、不思議な鏡。 [ magic mirrow ]
     2. (比喩的に) 社会の裏面の悪をさらけ出すもの、又 その文書。 [ searching glance ]  (例) 財界照魔鏡。

 「財界照魔鏡」 という言いかたは、いまでは、古風ですが、逆に、洒落た言いかたとして響きますね。新聞の 「辛口 コラム」 の見出しや、ホームページ の ヘッドライン に使えそうな語彙ですね。

 さて、「banka-kyo^ (万華鏡)」 は、語-構成として、「万華 (万花) + 鏡」 なので、「banka-kyo^ (万華鏡)」 は 「鏡」 の類 (ブロック、類別) であって、もとの同値類として、「鏡」 の 「意味」 を知りたいですね。「ローマ 字で引く 国語新辞典」 では、「鏡」 の語義になかで、「昔から鏡を婦女の魂として重んじた」 と言及されています。この感覚は、50歳を超えた 私 には理解できるのですが──たぶん、年配の人たちは、この感覚を体得していると思うのですが──現代の若い世代は、どうなのかしら。さらに、祝いの席で、酒樽が用意されていて、「鏡を抜いて下さい」 と言われたら、若い人たちは、意味を理解できるのかなあ、、、(酒樽の蓋を開けて、酒をふるまうことです)。

 「鏡餅」 は、円く平たい大小の餅を重ねて、神仏に供えたり、おめでたの折りに飾ったりするのですが、大小重ねた形が、青銅で作られた昔の鏡に似ているから、そういう呼びかたになったそうです。また、昔、武家の年中行事の 1つとして、鏡餅を、男は鎧・兜に供え、女は鏡台に供えたそうですが、正月二十日 (のちには、十一日に改まりましたが) に切って食べることを 「鏡開き」 と言い、私が こども の頃には、そういう風習が、私の育った田舎にも継承されていました。「切る」 という言いかたは縁起が悪いので、「開く」 という言いかたをします。ちなみに、能舞台の正面の、松が描いてある板を 「鏡板」 と云います。

 いままで述べてきたように、国語辞典を読んでいたら、日本語の語彙や日本の風習を学習できますね。もし、もっと詳細な知識を得たいなら、風俗辞典を調べればいいでしょう。尤も、こういう知識は、さり気ないように習得していればよいのであって、ひけらかすこともないでしょうね。

 さて、「鏡」 に関して知識を得たならば、(和英対訳として、) 英語の 「mirror」 の語感を知りたいですね。ジーニアス 英和辞典 (電子辞書版) によれば、「mirror」 は、「見る (mir) もの」 が原義だそうです。そして、「真理・分別・知恵などの象徴」のようですね。しかも、mirrow image や mirrow symmetry のように、「対称性」 を重視しているようですね。「mirror」 が、欧米文化のなかで、どのような 「像 (image)、比喩、暗喩など」 を与えられてきたのか、という点は、風物辞典を調べてみて下さい。

 「鏡」 と 「mirror」 は、物としては、同じ形態の物体を示すのですが、日本人と欧米人では、「鏡」 に対して抱いている 「像」 が相違するようです。

 
 私は、「ローマ 字で引く 国語新辞典」 を気に入っているので、愛用していますが──ちなみに、2冊 (使用と保存) を所蔵していますが──、いま、たとえば、それが復刻されても、「現代の言語生活」 向けとして、適切な (well-timed) 辞典にはならないでしょうね。辞典 マニア (好事家) でなければ、まず、入手しないし、使用しない、と思います。「辞典と ○○ は、新しいほど良い」 という言い伝えは、そうなのかもしれない (笑)。

 私が、この随筆のなかで言いたかったことは、「日本語を学習するには、他の言語を対比したほうが、理解が、いっそう、深まるのではないか」 という点です──そういう対比は、或る ことば に関して、国語辞典 (日本語辞典) と英語辞典を、それぞれ、丁寧に調べればいいのだけれど、改まって、そういう段取りをするのが、なかなか、bothersome なので、日頃、和英対訳の国語辞典を使っていれば、自然と、そういう感性が養われるのではないか、という点です。



[ 読みかた ] (2010年11月 1日)

 私の記憶が曖昧なのですが──たぶん、去る八月 (2010年 8月) [ あるいは、九月 ?] のことだったと記憶しているのですが──、日経新聞の第一面の下に掲載されている書物広告のなかに、「ローマ 字で引く 国語新辞典」 (研究社) が復刻されたという広告を眼にしました──値段は数千円だった、と朧気に記憶しています。今、私の手許 (てもと) に置いてある 「ローマ 字で引く 国語新辞典」 の値段は、800円です [ 出版当時の値段です ]。本 エッセー のなかで綴りましたが、「それが復刻されても、『現代の言語生活』 向けとして、適切な (well-timed) 辞典にはならないでしょうね。辞典 マニア (好事家) でなければ、まず、入手しないし、使用しない、と思います」。ちなみに、私は辞典 マニア です (笑)。本 エッセー のなかで、「『現代の言語生活』 向けとして、適切な (well-timed) 辞典にはならない」 と綴っている私が この辞典を愛用しています (笑)。

 国語辞典 (日本語辞典) の目的は、(日本語の) 単語の意味・用法・表記に関する情報を与えることなので、それらの情報が記載してあれば、数多い国語辞典のなかで どの辞典を使っても さほど異 (ちが) いがないように思われるのですが、国語辞典にも それぞれ個性があって、私の好みにあう辞典と そうでない辞典──たとえ、その辞典が世評の高い辞典であっても [ たとえば、岩波書店の広辞苑 ]──があって、この 「好み」 の感覚は、友人とか恋人に対する思いに似ているのかもしれない。国語辞典に対する私の好みは、私の年齢が重なるにつれて変化して来ています。今の私 (57歳) が愛用している国語辞典は、「ローマ 字で引く 国語新辞典」 「新潮国語辞典 古語・現代語」 「辞林 21」 です。それらの国語辞典は紙形式なので家にいる時に使っていて、外出時には電子辞書 (casio EX-word と SII IC-dictionary の 2台) を携帯していて、電子辞書には広辞苑が収録されているので [ 私の好みにはあわないのですが ] 広辞苑も使っています。

 紙形式の辞典に対する 「好み」 のなかには、中身の記述法のほかに、版型の大きさ [ 嵩・寸法 ] や装幀などもふくまれるので、決め手は、手に持った時 [ 使っている時 ] の触感でしょうね。国語辞典を たまにしか使わないのであれば、そういう 「好み」 などに拘 (こだわ) らないでしょうが、私は、国語辞典を たびたび使うので、どうしても 私の嗜好を重視します。今の私の好みにあう国語辞典が前掲の 3冊です。

 小林秀雄氏は著作のなかで菊池寛氏の次の言説を引用していました──「作家を志すのなら、外国語の一つはできなければならない」、と。 [ なお、この引用文は、私の記憶を辿って綴っているので、原典からの正確な引用ではない点を注書きしておきます ]。ちなみに、小林秀雄氏は フランス 語が得意だった。私は作家ではないけれど、英語を ずいぶんと学習して来ました。そして、日本語の文を綴るときに、時折、英語を対比して考えたりもします。本 エッセー のなかで、国語辞典が 「日本語 対 英語の 『1 対 1』 対応」 的な記述を記載するのは語義の理解を misleading にする危険性が高いと注意していますが、英訳付きの国語辞典は和英辞典とは異 (ちが) う役割を担っていると思います。「ローマ 字で引く 国語新辞典」 を、今、無作為に開いて、「根囲い」 という語が眼に入って来ました。「ローマ 字で引く 国語新辞典」 では、「根囲い」 は、以下のように定義されています。

    ne-kakoi 根囲い (名) 植物の根のまわりを、わらやむしろその他でつつむこと (多くは冬の霜
      などから守るため). [ mulch ] 〜suru (自・サ) [ mulch ]

 試しに和英辞典 「新 ポケット 和英辞典」 (増田綱 編、研究社) で 「根囲い」 を調べたら、以下のように記述されています。

    ne-kakoi 根囲い a mulch; mlching.
      「根囲いする mulch

 Idiomatic and Syntactic English Dictonary で mulch を調べたら、以下のように記述されています。

    mulch n. a layer of straw, dead leaves, etc. spread over the ground to protect the roots of
      newly planted bushes, etc. ──vt. (P 1) cover with mulch.

 さて、辞典を使う場合に、「国語辞典 → 英英辞典」 という調べかたをするか、それとも、「和英辞典 (→ 国語辞典) → 英英辞典」 という調べかたをするか、という点は一様には言えないのですが、日本語の文を読んでいて、日本語の意味を調べる場合であれば──上掲した 「根囲い」 の場合は、たまたま、眼に入って来た語を調べたのですが、もし、日本語の文を読んでいて、「根囲い」 の意味がわからないのであれば──国語辞典を先ず手にするでしょうね。そして、日本語の意味を調べた後で、その意味に対応する英訳に関して英英辞典で英語の意味を確認するでしょう。

 英訳付き国語辞典が和英辞典に較べて便利だと言うつもりは更々ないことを注意しておきます──それらの役割が異 (ちが) うということを言いたいだけです。たとえば、「ローマ 字で引く 国語新辞典」 を使って、他の語──意味を知っている語──を調べてみましょう。「ローマ 字で引く 国語新辞典」 を、今、無作為に開いて、「訪れ」 という語が眼に入って来ました。「ローマ 字で引く 国語新辞典」 では、「訪れ」 は、以下のように定義されています。

    otozure 訪れ (名) 1. 人の所をたずねること. 訪問. [ visit ] 2. たより. [ tidings ]

 「新 ポケット 和英辞典」 では以下のように記述されています。

    o「tozure 音信 tidings; news. ⇒ onshin, oto-sata.

    o「tozure 訪れ a visit; a call. 「訪れる call ((on a person at his house)); visit;
      make (pay) a visit ((to)).

 英作文を綴るのであれば、明らかに、和英辞典のほうが具体的な用法を教示しています。
 日本語に対する英訳について、「ローマ 字で引く 国語新辞典」 の 「はしがき」 で、以下のように所思が述べられています。

    ぴったり当たる英語はほとんどないのが本当で、全く無いといつてもかまわない。それを、どこか
    通じるところのあるもの、心持の似たことば、むしろ直訳の方がわかるだろうというようなやりくり
    の訳語などで、かろうじてその試みを、出来る限り、臆面もなく実行してみた。

 「ローマ 字で引く 国語新辞典」 は、カバー に記述されている 「本辞典の特色」 のなかで、「簡単な和英辞典の代用」 というふうに謳っていますが、あくまで、国語辞典です。日本語を正確に把握するために、英語に訳してみるという対比法を導入している、というふうに考えたほうがいいでしょう。





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  佐藤正美の問わず語り