思想の花びら way out >>
職業と労働と成功 芸術と学問と勤勉 友情と恋愛と家庭 自然と文化と衣食住 生と死と信仰


「あはれ」 とは
亀井勝一郎
(批評家)
宣長は何故 「あはれ」 をこれほど重んじたか。言うまでもなく人間の言動に対する従来の価値判断への不信に発していた。儒教風の 「善悪」 で判断することを極度にきらった。あるいは仏教的な立場から、悟りを得たとか得ないとか、そういう面から判断することにも強く反対した。「古事記伝」 の 「直毘霊」 でも述べているように、「おのづからのまにまに」 という人間性の在るがままの相に直入しようとしたのである。すべての偏見や先入観を捨てようとした人の、端的な感動を 「あはれ」 に見出したのである。そこに人間性の複雑な ニュアンス を、はっきりみようとしたと言ってもよかろう。

 

ザッと言うな
沢木興道老師
(禅僧)
ザッ と言うな。
アホ のくせして黙っとれ。

 

意志とは
アラン
(哲学者)
善は信じなければならぬ、なぜかというと、そんなものは存在しないのだから、正義もまたそうだ。正義は愛せられ望まれると信ずるなかれ。そう信じても正義になにもの加えることにならぬからだ。ただ、自分は正義をおこなうと信じたまえ。正義は、僕らの手をわずらわさずとも、力によってなる、とある マルクシスト は信じている。この思想をたどってみるがよい。成るものは正義ではない、事物の一状態にすぎぬ。僕自身に関する正義の思想も同じことだ。すべてのものが、僕の思想もまた、ひとりでにできあがるなら、およそ思想の価値に高下はないわけだ、力によって得るものしか思想は持っていないのだから。(略) なおろうと欲しない病人は放っておかねばならぬ。

 

意識とは
アラン
(哲学者)
そうなると、どうやら、意識の統一というものがなければ、はっきりした部分もあり変化もある物は眼前に横たわっていまいということになる。もう一つの物とは要するにもう一つの物だが、僕というのは全体だ。逆にいえば、物の知覚がまるでなければ、主観の統一も現れない。(略) 僕は僕自身を思いだすにすぎない、また僕は物を思い出すにすぎない、物の真理だけが、僕に親しい持続の感情に意味を与える。まったく同じあんばいに、運動の心像だけが、僕が腕を延ばすときに感ずるものに意味を与えるのだから。最後に言っておくが、僕が意識をもっている以上、僕とはつねに悟性だ。

 

偉人とは
ヴァレリー
(詩人)
偉人とは、死後、他人を困惑させる人間である。

 

インスピレーションとは
ゲーテ
(詩人)
インスピレーション とは、二、三年漬けておけばできる鰊の塩漬のようなものではない。

 

歌とは
古今和歌集
世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、いひいだせるなり。花になく鶯、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地 (あめつち) を動かし、目に見えぬ鬼神 (おにがみ) をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛きもののふの心もなぐさむるは、歌なり。

 

歌とは
本居宣長
(国学者)
ただの詞は、その意をつぶつぶといひつづけて、ことはりはこまかに聞ゆれども、なほいふにいはれぬ情のあはれは、歌ならではのべがたし。

 

自惚れとは
ジード
(小説家)
じぶんに もっと理解力がないことを苦痛に感じるためには、すでに相当の理解力がなくてはならない。馬鹿ほど自惚の強いものはない。

 

音楽とは
レーニン
(政治家)
しかし たびたび 音楽を聴くことはできません。神経に影響して、愛すべき愚にもつかぬことを言いたくなったり、汚い地獄に住んでいながら、こんな美しいものを創ることのできるひとびとの頭をなでてやりたくなったりするんでね。

 

懐疑とは
アラン
(哲学者)
だれでも自分のいちばんよく知っていることをいちばんよく疑うものだ。これをみて傍人は、彼の証明の弱さを感じたからだと言いがちだが、当人にしてみれば、反対に、証明の強さを感じたからこそだ。作った人はまた壊すことができる人だ。証明が、その細部にいたるまで、力強い充実した懐疑によって試みられたことは経験によって明らかだ。懐疑を恐れていては、証明の力も展びもないものだ。ユークリッド は、自明に対して疑いがいだけた人であり、非 ユークリッド 幾何学は、いっそう強固な言葉でもう一つ懐疑を表現した。僕は、この懐疑について疑いをいだく。こうして次々に思想は生れ変わるのである。

 

懐疑とは
アラン
(哲学者)
  思想の記憶というようなものはこの世にない、言葉の記憶があるだけだ。だから常に証明を新たに見つける必要がある。また、そのために疑う必要があるのだ。「苦労だけが立派なのだ」 とはある古人の言葉だ。自分の書いたものをひきずっている人々に僕は多くを望まない。ジャン・ジャック は、書き終われば、すぐ忘れることにしていた、と語っている。だが、これはおそらく、最後の判断の眼前で、すでに書かれたものはことごとく倒壊したという意味だ。それでこそ同じ粘土が、新しい像を作る役にも立ったのだ。(略) 思想の対象にはただ事物あるのみだ。そしてそれだけで充分なのだ。

 

懐疑とは
アラン
(哲学者)
  世には上すべりの懐疑がある、不安にすぎぬ。そういう心がけで本を読んではならぬ。ジャン・ジャック がしたように、愛と信念とでもって疑いたまえ。まじめに疑いたまえ、悲し気に疑うな。(略) まじめということについては、いろいろ言うことがありそうだ、悲しげな顔をすることはむずかしいことではないからだ。それは坂を下るようなものだ。しかし、幸福になることは困難な美しい仕事だからだ。常に、さまざまな説明に負けぬ強い人間でいたまえ。諸君を襲撃するいろいろな思想は、とくに諸君が武器を取りに走るようでは、少しも有益なものではない。そういうときに ソクラテス は笑ったのだ。

 

科学とは
アラン
(哲学者)
真の科学は近似性によってすなわちあやまりを量の上で制限することによって、自然の事物をとらえるが、通俗な考え方は、経験の力にたよって、一種の蓋然性に到達する。累積によるこの種の証明は、帰納法としばしば呼ばれる。秩序ある探究にあっては、理論が経験を充分に厳格に枠に入れていれば、唯一の経験でも証明の役に立つ、また、それでも経験をいくどもくり返してみるのは、証明を確立するためというよりむしろ一段とはっきり知覚するためだ、そういうことを人々は忘れがちである。

 

科学者とは
ニュートン
(科学者)
私には、じぶんの生涯が、海辺の砂浜に遊ぶ一人の少年のようであったと思われる。私にあらゆる未知のものを示す真理の大海の浜辺で、ひときわなめらかな小石や、ひときわ美しい貝がらをみつけて、ときおりをたのしく遊びふけっていた一人の少年であったと思われる。

 

学者とは
リヒテンベルク
(小説家、自然科学者)
凡庸な学者たちのうちの多くの者は、偉大な人間になることもできたであろう、もしもあんなに多くの書物を読まなかったならば。

 

学習とは
吉田兼好
(歌人)
能をつかんとする人 「よくせざらんほどは、なまじひに人に知られじ。うちうちよく習ひ得てさし出でたらんこそ、いと心にくからめ」 と常に言ふめれど、かくいふ人、一芸も習ひ得ることなし。いまだ堅固いかたほなるより上手の中に交りて、毀 (そり) り笑はるるにも恥ぢず、つれなく過ぎて嗜む人、天性その骨なけれども、道になづまず、妄りにせずして年を送れば、堪能の嗜まざるよりは、終に上手の位にいたり、徳たけ人に許されて、双 (ならび) なき名を得る事なり。

 

学習とは
荘子
(中国戦国時代の書物)
五十歳にして四十九の非を知る。

 

学習とは
亀井勝一郎
(批評家)
「求める」 という言葉の中から、あらゆる意味での功利性を排除しなければならない。現代では、文学美術はむろんその他多くのことについて、その 「見方」 といったものが極めて発達している。そのためのさまざまな入門書や解説書もある。初心者にとって、ある程度必要なことではあるが、その 「見方」 なるものが実はそれを書いた人間の限定された見方にすぎず、それを読んだ人は要するに他人の目でみている場合が極めて多いのである。

 

学習とは
亀井勝一郎
(批評家)
私は十年毎に、その十年間の自分をかへりみて、精神の自伝といつたものを書くことにしてゐる。さゝやかではあるがそれは私の道標である。同時に、自分の尊敬する人物の人間像を再現することを、主要な仕事としてきたのである。
したがって私は文芸評論家とみなされてゐるが、それにとらはれてゐるわけではない。宗教評論家と呼ばれることもある。要するに人生いかに生くべきかを問うて、宗教へ赴いたり、文学へ赴いたりしてきたわけである。芸術一般は好きで、文学作品についての批評や作家論も興味がり、自分なりに全力をつくしてやつてきたわけだが、私の裡には、いま述べたごとく、宗教と芸術の二つが互に争ひながら住んでゐるといつていゝのである。

 

学問とは
荻生徂徠
(儒学者)
されば、見聞広く事実に行わたり候を、学問と申事に候故、学問は歴史に極まり候事に候。古今和漢へ通じ申さず候へば、此国今世の風俗之内 (うち) より、目を見出し居り候事にて、誠に井の内の蛙に候。

 

学問とは
森 鴎外
(小説家)
しかし わたくしは 学殖なきを憂うる。常識なきを憂えない。天下は 常識に富める人の多きに堪えない。

 

学問とは
亀井勝一郎
(批評家)
即ち 「無求の求」 というものがあって、(略) 厳密に言えば真理は説くことも出来ない。何故なら、説くこと、示すこと、直ちにそこに自分の分別なるものが入ることだからである。こういう困難を自覚しながら、しかも説きかつ示すということが大切だと言うのである。換言すれば、真理とはすべて語り難いものであり、語りつくしえないものである。そして語り難く、語りつくし得ないもののみを語ろうとするところに、真理探究の本質があるという意味である。だから薄氷をふむような危険な作業なのだ。もし教えるものが自分の見解によって真理をゆがめたならば、そのことで、今度はそれを求める人々の汚れない魂に傷をつけたということになる。真理の名において人間の本性をゆがめるような結果を生むことさえある。人間は学問や知識を積みかさねることによって、逆に人間性の素直な美しさを失って行く場合もある。(略)

 

学問とは
デカルト
(哲学者)
学問はすべて相互に結合しているゆえ、一つを他から分離するよりも、すべてを一度に学ぶ方が、はるかに容易であることを、人はよく心得ねばならぬ。

 

学問とは
亀井勝一郎
(批評家)
人間は学問や知識を積みかさねることによって、逆に人間性の素直な美しさを失って行く場合もある。したがって、知識や学問を身につけるほど、それが自己に加えられた人工的なものではないかという疑いを絶えず抱いていなければならない。

 

学問とは
アラン
(哲学者)
学問は ものの最も正確な知覚に存するということが、あとでわかってもらわねばならぬ。これから僕らは感覚のうちにも理性を発見し、つづいて理性のうちにも感覚を発見するように努力するのだが、いつも内容と形式とをはっきり区別し、しかも両者が離れ離れにならないように仕事をすすめなければならぬ。

 

仮説とは
アラン
(哲学者)
法則に準じた悟性の諸形式である仮説と、多少は整頓された想像の戯れである憶測とを混同しないだけの準備は、もう読者諸君にはできているはずだ。(略) 裁判官がこの被告は有罪だあるいは彼はこの窓から逃げたとかこの足跡は当人の足跡だとか思いめぐらす際、裁判官は憶測をしているにすぎない。しかし、殺人者の姿勢と短刀の位置とを力学上から結びつけて考える際には、二つの形跡から一つの運動を再建するのだから、一種の仮説を立てていることになる。運動は常に精神によって再建されるもので、変化の形式であり、感じられる変化とは運動の素材にすぎないのだから。(略) 憶測は存在を設定し、仮説は本質を設定する。またいろいろな学問があんまりたくさんの憶測を背負いすぎているということもわかる。これを機会に言っておくが、存在は、決して設定されも仮定されもしない、ただ認知されるものだ。以上述べたところをよく考えてみると、近頃はすぐれた書物のなかでも、仮説と憶測とが混同されているのに気がつくと思う。

 

仮説とは
アラン
(哲学者)
アトム もまた美しい仮説だ、真の科学に準じた システム のなかには、何にたいしても内部というようなものはない、なにかのなかに収容された物とかいうようなものはない、すべてが外部の関係だ、ということをこの仮説は正しく説明している。大きさも アトム となんの関係もない、アトム という観念によって、その内部には、およそ考えられるものが何一つないそういう物体が簡単に設けられたのである。それでも諸君は、アトム はあるかないかとたずねるだろうか。アトム の見せ物小屋に行ってみたいか。それならいっしょに赤道と子午線をみせてもらうとよろしい。

 

形とは
松尾芭蕉
(俳人)
およそ天下に師たるものは、まづ おのが形、くらゐをさだめざれば、人おもむく所なし。

 

考えるとは
アラン
(哲学者)
よく考えなければならなぬということがすなわち思想の身代金なのだ。考えなくてはどうしていいかわからない以上、よく考えなければよく行為することはできぬ。周知のように、まずいことをしでかしはしないかというおそれが、ここでも重大な障害となるのであり、この種のおそれが、また常にあらゆるおそれのうちでいちばん幅をきかせているものである。しかし、このおそれは、動き始めようとして互にかみあう無数の行為の感情にすぎない。このおそれに打ちかって、望むところをおこなうには、望むところだけをおこなうようにしなければいけない。(略) いちばん簡単な練習も情熱に対する戦い、とくに恐怖や虚栄心や焦燥に対する戦いなのである。

 

感覚とは
アラン
(哲学者)
感覚は ただ理性の材料を供給しているにすぎない。(略) 知覚というものは、すでに理性の働きではあるまいか。(略) 考えられた、結論された、判断された関係だ。ここに僕らの認識の形式と内容との重要な区別があらわれてくる。

 

関係とは
アラン
(哲学者)
最高の知性がいったんとらえた秘密は、いずれも 関係 というものの中にあり、またそれ以外にはありえないのである。

 

感受性とは
有島武郎
(小説家)
私の個性が表現せられるために、私は自分ながらもどかしい程の廻り道をしなければならなぬ。数限りもない捨石が積まれた後でなければ、そこには私は現れ出て来ない。何故そんなことをしていねばならぬかと私は時々自分を歯がゆく思う。それは明らかに愛の要求に対する私の感受性が不十分であるからである。私にもっと鋭敵な感受性があったなら、私は凡てを捨てて詩に走ったであろう。そこには詩人の世界が截然として創り上げられている。私達は殆んど言葉を飛躍してその後ろの実質に這入りこむことができる。そしてその実質は驚くべく純粋だ。

 

鑑賞とは
亀井勝一郎
(批評家)
たつた一枚の絵でもいゝ。自分の好むものの前に立つて、五分間これを凝視すること、たゞそれのためにだけ博物館は訪れるものだといふことを、私は忘れがちなのである。五分間とは実に短い時間だ。しかしその間全身全霊を傾けて眺めつゞけるといふことは、容易なことではない。(略) 一流の作品に対しては、鑑賞者は汗を流すべきだ。芸術とはまづ汗を流すものである。大急ぎで博物館を巡つて、労力なく多くのものを観て、たしかに見たと思ふその錯覚から離れなければいけない。美術に対しては眼の訓練が必要である。思考力も感覚もすべて眼に集中される。落着いた凝視、そのくりかへしといふ当然のことを、今の我々は実行しない。

 

鑑賞とは
亀井勝一郎
(批評家)
たとへば仏像は、元来仏殿に安置されて拝むものであり、茶碗は茶を飲む道具であり、刀剣は人を殺す武器であるか護身用のものである。各々その本来在るべき場所、即ち日常の信仰とか生活から隔離されて、博物館の ガラス の ケース の中に陳列されることは、それに対する鑑賞に制約をもたらす。これは重大なことだ。茶碗は手にとつて眺め、愛撫し、それで茶を飲むことによつて、はじめて我々と親しい肉体的関係に入る。さういふ美的鑑賞の態度が日本では発達した。
絵は、ふすまもあり、屏風もあり、掛軸もあるが、すべて日常の生活にとけ入つたものとして愛好されてゐた。新しい絵にしても、自分で買ひ求めて、自分の座右においたとき、はじめて真の愛着が湧くだらう。この愛着以外に芸術の 「わかる」 方法はないのだ。

 

鑑賞とは
亀井勝一郎
(批評家)
私は入門書や解説を否定しないが、それは読者がそれにとらはれず、一の参考ぐらゐに考へて接する場合にかぎる。詩や小説に対しては、たとひ難解であつても、素手でとびこみ、翻弄され、迷ひ、自ら額に汗してつきつめてみることが大切である。解説がなければ不安心だと思ふのは心の一種の衰弱ではあるまいかと私は思ふ。尤も解説の性質によつては、読書の上に大へん役立つこともあり、また古典や外国作品の場合、説明や註解の必要なのもたしかだが、それをみても、心の中で一応それを捨てることが大切である。

 

観念とは
アラン
(哲学者)
観念なしに観察しても無駄だとは、だれでも言い、だれでも承知しているのだが、一般の人々は、観察の基準となる観念を、あまり物の遠方に探したがる、あるいは、もっと適切にいうと、機械的なお手本として、物の傍に探したがる。知覚の分析で、すでに物自身を考えによって限定する準備をしておいた。大哲学者たちがたくみに説いたように、観念は物の額縁であり、骨組であり、形式であることを述べておいたはずだ。

 

観念とは
アラン
(哲学者)
遅くなったり早くなったり曲がったりしない運動はまずない。厳密にいえばそんなものは全然ない。斉一運動とはただ惰性に殉じて作りあげたものである以上、一つの観念だ、何物にも連絡のない運動である、だからそんなものはどこにもない。しかし、悟性はこれを要素として設ける。つまりそれが力学の権利だ。ここから、この世でなにものも捕らえない速度というものが定まる。(略) 根源は一つだが、こういうさまざまな形式、恐らくもっとほかにいろいろの形式が必要だが、こういう諸形式がなければ、線も円も持たぬ牧人が、天体の外見を定めることができないように、僕らは、最も単純な実際の運動さえつかむことができない。

 

既定の概念とは
有島武郎
(小説家)
それは感激なくして書かれた詩のようだ。

 

教育とは
モンテーニュ
(批評家)
子どもの教育については、勉学の欲望と興味とを喚起することが いちばんである。さもないと書物を背負った驢馬を養うことに終わってしまう。

 

教育とは
林 語堂
(言語学者)
現在の教育制度が大量教育であり、従って工場同様であり、工場内で起ることは何事によらず、生命のない、機械的 システム によらなければならない。学校名を守り、製品を標準化するために、学校は卒業証書を発行して製品の証明をしなければならない。

 

教育とは
ゲーテ
(詩人)
人を教えようとするものは、じぶんの知っている最上の知識を しばしば黙ってすませることはできる。しかし生半可であることは許されない。

 

教育とは
林 語堂
(言語学者)
教養のある人とか、理想的に教育された人というのは、必ずしも多読の人、博学の人のことではなく、事物を正しく愛好し、正しく嫌悪する人のことである。

 

教育者とは
エッシェンバッハ
(小説家)
じぶんの幼年時代のことを はっきりと記憶していないような者は、悪い教育者である。

 

教師とは
ジャン・パウル
(小説家)
教科書のなかには、いつも何かいい事が書かれているのに、いい教師に めったに出会わないのは、どういうわけだろうか。

 

教養とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
現代人の失っているもの。 それは「静かで激しい拒絶」である。
けっして狂信におちいらない拒絶の激しさこそ高い教養のしるしである。

 

教養とは
ゲーテ
(詩人)
一面的な教養は教養とは言えない。ひとは一つの点から出発しなければならないが、しかし多くの面に向かって進まなくてはならない。

 

教養とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
教養といふ言葉は、大正期から用ひられたもので、その以前には、修養といふ言葉が主として使はれてゐた。文化といふ言葉の前には、文明開化といふ言葉があつた。時代によつて言葉は変化し、またその時代の様々なニュアンスを帯びてゐるのは当然である。修養といふ言葉は、修身の教科書を思ひ出させ、古風な道徳を感じさせる。教養といふと、それから解放された自由な知性を感じさせる。それだけの新鮮味があつたのだが、その知性が強烈な徳性によつて支へられてゐないこと、云はば背骨の喪失が、大きな欠陥としてあらはれてゐるのではないかと私は思つてゐる。

 

教養とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
熟練性こそ教養だと言ひたいのである。またそこにこそ道徳の基礎があると思つてゐる。道徳とは文字どほり道の徳である。道とは一つの職業に熟練した人の道であつて、さういふ人は道徳をあらはに説かずとも、おのづからにして道徳家ではないか。私はさう考へてゐる。そして一つの道に精通するとは、その道に関する知的努力の極限を示すことであつて、かゝる累積が彼の人格を磨き、在るがまゝのすがたで、何か底光りを発してゐる。(略) 生産者あるひは創造者としての苦しみの汗からにじみ出たものが教養だと私は思ふ。

 

教養とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
過剰なものへの鋭敏な反撥、これは教養の最大のしるしではないかと私は思ふ。

 

教養とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
兼好法師が、もし今の世に生きたならば、あらゆるものについて、その過剰性露骨さどぎつさに対して、毒舌をふるふであらう。この点からすれば、今日の都会風景や風俗の多くは、本質的に無教養そのものだと云つてよい。つまり 「いやしげなるもの」 が多いのだ。
かういふ状態に抵抗するためには、繊細な感受性を養ふことが大切である。繊細な感受性とは、ニュアンス への鋭敏さとも云へるだらう。日本語でいふなら陰翳への愛だ。(略) 人間は、語り難いところで親しくなるものである。愛情とはさういふものだ。(略) 教養の真のあらはれは、その人の 「はにかみ」 にあると。

 

教養人とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
思想をもつということも、畑を耕すことと同じである。疑問をもち、考へつゞけ、日常の様々な出来事の裡に体験し、時には失敗したり、いまひと息のところで挫折したり、七転八倒して、やつと収穫したやうな、さういふいかにもその人らしい思想といふものにふれることは稀である。今日の教養人は、外国輸入の、或は国産の、思想の缶詰を食べてゐるといつた具合だ。(略) 思想の生産者でなく、その収穫だけをあれこれ喰べちらして、味覚を楽しみ、饒舌してゐるのが今日の教養人ではあるまいか。

 

虚飾とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
ものを書いてゐると、傑作意識につきまとはれやすいものである。何かすばらしい傑作を書かう、人をあつと言はせよう、鋭さうな言葉や機智にみちた言葉を書かう、そんな気になるものであるが、さういふときなど、私は最初に挙げた 「徒然草」 の双六の名人の言葉を思ひ出す。傑作を書かうと思つてものを書くべからず、駄作を書くまいと思つて書け、といふ風に考へる。つまり地味で、着実で、ほんたうに自分の考へたこと感じたことを、出来るだけ正確に書くことを心がける。どんなに平凡でも、その点は着実にかいて、決して人を脅かすやうな文句や過度の飾りや、よけいな形容詞を使ふまいと心がける。むろんそのとほりにはゆかないが、しかしほんたうに熟練してくるにつれて、文章は簡潔に正確になるものである。

 

勤勉とは
ジューベール
(批評家)
無為は精神にとって、勤勉におとらず必要である。物を書きすぎれば精神を破産させることになるし、書かずにいれば錆がつく。

 

空間とは
アラン
(哲学者)
僕にとっては、いつもこの物の以前に他のいろいろの物が存在したのだ。時間と空間とは、遠近という抽象のうちでばかりではなく、僕の実際の経験のうちで、いつも結ばれているものだ。位置、道路、運動、時間、こういうものは、実際には切り離すことができない。少しもむずかしいことはない、どにいるか知るとは、どこからきたか知ることだ、いろいろの物のうちに、来られたら来られた他のいろいろな道のうちに、自分の道をみとめることだ。

 

空間とは
アラン
(哲学者)
未来とは、ある意味で、僕らにはいつも現在だとさえいえよう。たとえば、僕のいるこの町から地平線までの距離が、可能な未来というものでなければ、いったいなにを意味するか。同様に、空間のいろいろな大きさにしても、時間との関係、実際であると同時に可能な時との関係なしにはあるがままではない。時間の可能性は位置の形で考えられていることを申し添えたい。なおまた、前とか後とかいう言葉が、時間とともに空間も限定していることはいうまでもない。こういうことをくどくど述べるのも、学者によっては、僕らの思想の秩序たる時間と物の秩序たる空間というふうに両者をあまり区別したがるからだ。

 

芸とは
順徳天皇
 
一切、芸は学せずして、その能をあらはすことなし。

 

芸とは
世阿弥元清
(能役者)
命には終あり。 能には果 (はて) あるべからず。

 

形式とは
シラー
(詩人)
偶然的なものを除去すること、そして必然的なものを純粋に表現すること、そこに偉大な様式がある。

 

形式とは
アラン
(哲学者)
もし目に見えない形式という組織がなければ、僕らの記憶に、なに一つ確かなものを与えてはくれない、形式の諸関係があればこそ、すべての物が秩序立てられ、計量される。僕が注意したいのは、設けられ考えられたもので、決して現在はしていないが、たとえばこの建物の丸天井とか柱とかと同じように云々できる、この地球や地球の軸とか極とか子午線とか赤道とかいうものだ。

 

形式とは
アラン
(哲学者)
ここに重い石があるとする、手を離せば落ちる、石を落とすなり、石に僕の手を押しつけるなりさせる原因は、石の重さだという、重さは石のなかにあるという。ところが石のなかにはない、(略) 石が重いとは、石と地球との間に、両者の距離と質量に依存する力が働いている、という意味だ。(略) この重力は、地球のなかにも石のなかにもない両者の間にあって、両者の共有である、僕らにいわせれば、考えられた関係であり、形式だ (略)。

 

形式とは
アラン
(哲学者)
悟性の原理と理性のおきてをはっきり区別しておく必要がある。この仕事を最もみごとにやったのが カント で、両者が理路整然と書きわけられている。ここに彼の説を要約し説明しようとは思わないが、最もたいせつな点だけを述べてみよう。数学は、おのずから悟性原理の システム を形成している、言いかえれば、僕らが経験においてどういうものを捕えるにせよ、一定の形式をふまねばならぬ、その形式が無くてはなにものも捕えることができない、そういう形式の数々についての目録を形成しているのである。この事情は次のような一般原理で現わされる、すなわち時間と空間との関係によって、他のいっさいの物と結ばれていないような対象も事実も、経験のうちには絶対にない。完結した システム のなかの変化で、諸変化の間の空隙というものは別だが、なんらかの不変な量の存続を許さないような変化は断じてない。このあとの方の原理が、変化の定義自体であることに、注意したまえ。

 

芸術とは
ゲーテ
(小説家)
表現の固有性ということが、すべての芸術の初めであり終わりである。

 

芸術とは
コクトー
(詩人)
芸術は科学の肉化したものである。

 

芸術とは
ジード
(小説家)
芸術を熟させるための忍耐と努力は、おそらく、その後それを腐らすまいとする忍耐と努力とに較べれば、物の数ではあるまい。

 

芸術とは
シラー
(詩人)
大衆が芸術を低下させるという、よく聞かれる主張は真実ではない。芸術家が大衆を低下させるのであり、芸術が堕落した時代には、それは つねに芸術家によって堕落させられたのだ。

 

芸術とは
芥川竜之介
(小説家)
シェークスピア も、ゲーテ も、李太白も、近松門左衛門も滅びるであろう。しかし芸術は民衆のなかに かならず種子を残している。わたしは大正十二年に 「たとい玉は砕けても、瓦は砕けない」 と云うことを書いた。この確信は今日でも未だに少しも揺がずにいる。

 

芸術とは
A. フランス
(小説家)
表現法の新しさや或る芸術味などだけによって価値のあるものは、すべて速かに古臭くなる。

 

芸術とは
ファン・ゴッホ
(画家)
私は次の定義よりもよい芸術の定義を知らない。「芸術とは自然につけ加えられた人間である」、自然、現実、真実につけ加えられた人間である。

 

芸術とは
オスワルト・マールバッハ
(詩人)
芸術はひとを喜ばせたり、しあわせにしたりすべきではない。それは燃えあがり、そして燃えつきていくべきだ。

 

芸術とは
クローデル
(詩人)
芸術と詩は生活の否定である。芸術は生活を模倣すべきではない。いかなる芸術も決してこれをしなかった。芸術の目的は、生活がその断片的素描しか与えなかったものを実現することである。

 

芸術とは
バルザック
(小説家)
絶えざる労働が、生活の法則であると同時に芸術の法則でもある。芸術は観照による創造である。したがって偉大な芸術家や完璧な詩人は、注文や買手を待って初めて仕事に取り掛るのではない。

 

芸術とは
ニーチェ
(哲学者)
じぶん自身の悲劇や喜劇を満喫している者は、たしかに、劇場には行きたがらないものである。

 

芸術とは
アラン
(哲学者)
人をよろこばそうとして工夫し、また人の気に入るものをかき集めようと無理をするのが、間違いのもとなのだ。そうするうちにも、ミケランジェロ のような人たち、ベートーヴェン のような人たちは、めいめいであの防波堤の石組みを築いている。そして、人間たちは思わず立ちどまる。彼らはうっとりしているのでもなければ、魅了されているのでもない。彼らは去りがたくてじっとしているのだ。

 

芸術とは
亀井勝一郎
(批評家)
彼 (ミレー、画家) の憎んだのは サロン の芸術である。或は芸術の サロン 化である。そこには サロン の快楽性に対する本能的な反撥もあったやうだ。

 

芸術とは
亀井勝一郎
(批評家)
芸術に対してはすべて性急は禁物である。それは一種の、極めて忍耐ふかい労働と云つていゝ。制作者の場合も、鑑賞者の場合も。

 

芸術とは
亀井勝一郎
(批評家)
芸術の世界は広大無辺である。各人の好みといふものがあり、そこに執着することはもとより大切だが、それだけが絶対だと独善的になつては危険である。東西古今にわたつて、どれだけ我我の知らない美があるかわからないし、これからまたどんな美が創造されるかも予想出来ない。一つのものに愛着するとともに、眼を広く開いてゐなくてはならない。

 

芸術の修業とは
ベートーヴェン
(音楽家)
芸術の修業だけでなく、あなたの精神を益する修業をおつづけなさい。

 

芸術家とは
ロダン
(彫刻家)
芸術家よ、形成せよ。語るなかれ。

 

芸術家とは
ロダン
(彫刻家)
辛抱強くあれ! 霊感をあてにするな、そんなものはないのだ。芸術家の資格とは、知恵であり、誠実さであり、意力である。諸君の仕事を、あたかも実直な職人のように果たしたまえ。

 

芸術家とは
シューマン
(音楽家)
人間の心の深みへ光を送ること--芸術家の使命。

 

芸術家とは
松尾芭蕉
(俳人)
古へより風雅の情 (こころ) ある人々は、後 (うしろ) に笈 (おひ) をかけ草鞋に足を痛め、破笠に露霜をいとうて、おのれが心をせめて物の実 (まこと) をしる事をよろこべり。

 

芸術家とは
A. フランス
(小説家)
芸術家は人生を愛し、その美しさを われわれに見せてくれなければならぬ。世に芸術家というものがなかったら、われわれは人生の美しさを とうてい本当には知らないであろう。

 

芸術家とは
アラン
(哲学者)
主観などというものは、正確な分析によって、とっくり見こしていなければならなかったものだ。それをせずになにか巫女の霊感のようなものを天才のうちに求めるのは要するに一つの メカニスム、さらにもう一つの物を主観のうちに捜すことだ。人間は自省すると同時に、正しく物を考えられるものではない。文筆の奴隷は、つくりたいと思う作品よって、おのれを知ろうとしがちなものだ。芸術家は、できあがった作品のみによっておのれを知る。そしてまた次の作品におどりかかる者は幸福である。

 

芸術作品とは
アンドレ・マルロー
(小説家)
芸術家の最初の素材は、決して人生ではなく、つねに他の芸術作品である。

 

賢人とは
吉田兼好
(歌人)
人は己をつづまやかにし、おごりを退けて、財 (たから) をもたず、世を貪らざらんぞいみじかるべき。むかしより賢き人の富めるはまれなり。

 

倦怠とは
アラン
(哲学者)
行為の発端というものはなにもおもしろいものではない、それは、僕らになにごとかを教えようと強いる必然にすぎないのだ。だから僕らに、将来所有する喜びが決められる道理はあるまい、まして幸福は決められない、幸福は僕らを強いはしないのだ。もし決めてしまえば万事がおしまいだ。「あそこに喜びが見つかるだろうと確信したい」 というのもむろん愚かだが、「喜びなどは決して見つからぬと信じる」 という人はあわれである。そこで、退屈している人間とは、まず、たくさんいろいろな物を苦もなく得ていて、苦労して得た人たちはうらやましがっているだろうと思っている人だ。ここに、「僕は幸福なはずなのだが」 といういたましい観念が生まれる。(略) こうしてある性格ができあがり、むろん、これに似合った経験が応ずる。彼の目はすべての喜びをからす。喜びが多すぎるからではない、喜びには人は倦きやしないから。食べすぎて食事を拒むような人間ではない、むしろみずから摂制の地獄におちた、想像力の病人である。

 

行為とは
ヴァレリー
(詩人)
アキレス が空間や時間のことを考えていては、亀の子を追い越すことはできない。

 

行為とは
アラン
(哲学者)
まずなにをおいても、言語のたわむれが、どんなにたくみに精神を陥穽に引き入れるかに感心するがよい。言語をつくりだすためには、それがまず理解されていなければならぬ、だから話すことを学ぶまえにまず話すことを知らねばならぬ、という説をなす者がある。こういう議論こそ詭弁の典型であって、話さないでまず考えることを学ばなかった人が、これを哲学と間違える。
人間の行為、つまり叩くとか与えるとか取るとか逃げるとかいう運動だが、そういう行為というものこそ僕らが世界中でいちばん興味を感じているものだ、子供にとっては世界中で興味を感ずる唯一のものだ、子供の時代では、あらゆる幸不幸は行為に由来するのだから。この行為というものが最初の記号であって、行為を理解するとはまずすなわち行為の効果を試験することにほかならぬ。

 

好奇心とは
パスカル
(思想家)
好奇心は虚栄心にほかならない。多くの場合、人が知ろうとするのは、それを語らんがためにほかならない。

 

好奇心とは
亀井勝一郎
(批評家)
直接自分に関係がないかぎりは、いかなる悲惨な事件をもこれをのぞきこみ傍観する。そういう意味での好奇心が今日ほど激しくなったことはない。私はこれを好奇心の廃退現象と呼びたい。つまり極く普通の意味での思いやりという感情が失われてきたのだ。極端な見物人根性、傍観者意識が発達してきたのである。

 

向上心とは
ジード
(思想家)
私は、たとえ、愉悦のさなかであろうと、停滞を愛したことはない。
新しさが、鈍るやいなや、それを乗り越えて、進むことしか考えないのだ。

 

幸福とは
ゲーテ
(小説家)
考える人間の もっとも美しい幸福は、究めうるものを究めてしまい、究めえないものを静かに崇めることである。

 

幸福とは
ゲーテ
(小説家)
世の中のものはなんでも我慢できる。
しかし、幸福な日の連続だけは我慢できない。

 

幸福とは
アラン
(哲学者)
人間は、意欲すること、そして創造することによってのみ幸福である。

 

幸福とは
紫式部
(女流作家)
昔も今も、物念じして のどかなる人こそ、さいはひは見果て給ふなれ。

 

幸福とは
アラン
(哲学者)
人々は富をもてあそびたがる、ある者は音楽を、ある者は学問を。しかし富を愛するのは商人であり、音楽を愛するのは音楽家、学問を愛するのは学者である。アリストテレス のたくみな言葉をかりれば、現実的 (en acte) にそうなのだ。だから、ただじっとして受け取るだけでおもしろいことはない。(略) あらゆる苦労は、幸福の一部だといえる。庭は自分で造らなければおもしろくない。くどきおとさなければ、女もおもしろいものではない。権力を苦もなく得た者は、権力にさえ退屈するものだ。(略) 競走する者には走る幸福がある、見物人には楽しみしかない。(略) 子供がよく運動の選手になりたいというときに、正しい手段に事を欠いているわけではないが、やってみるとすぐ失敗する、苦労をはぶいて成功したと思いこむからだ。

 

幸福とは
アラン
(哲学者)
遠くから想像しているうちは、幸福もいいが、幸福はとらえようとすれば消えてしまうものだ、とよく人はいうが、これはあいまいな言葉だ。なるほど、競走の選手は、休息しながら、想像裡で幸福になろうと思えばなれる、しかし、この場合、想像は、働くのに適した肉体の中で働いているのだ、彼は月桂冠とはどういうものか知っている、ただもらうものではない、力を賭して獲得するから美しいのだ、というようなことを知っている。つまりこの場合想像とは、そういうふうにすべてを秩序だててみる行為の一つの効果である。(略) はじめての経験は苦痛しか与えぬものである。だから、トランプ を知らないものは、なにがそんなにおもしろいのだといぶかる。もらう前に与えねばならぬ、希望は常におのれに寄せ、事物に寄せてはならぬ。報酬として幸福を得るが、幸福を得る人は、これを追った人ではない、これを得る価値のあった人だ。要するに、僕らが喜びを得たのは僕らが望んだからであり、僕らの喜びを望んだからではない。

 

効用とは
アラン
(哲学者)
「なんの目的で」 からいかにしてに移る、つまり、さまざまな原因と条件との探究に移る。(略) 幾何学やその他の諸形式に準じて建て直した知覚を、決して忘れないようにしているなら、神学上の観念も、少なくとも指導観念として別に悪いことはない。が飛翔のために翼を作った、と言って安心している人の精神には、ただ言葉があるだけだが、もしその人が、どういう具合に翼が飛翔のために有効かということを承知しているなら、いわゆる諸原因をきわめて物を理解していることになる。という作者を一枚加えてみたところで、物についてもっている考えがなに一つ変わるわけではない。(略) 物において、目的を原因に結びつけるものは、まさしく効用の考えだ。仮定された効用とは目的であり、説明された効用とは原因あるいは法則、また、お望みなら説明された物自体ともよばるべきものだからだ。

 

こざかしい とは
亀井勝一郎
(批評家)
実際に仏典をよみ聖書をひもどいた折の感慨、またわが古仏の前に佇んだ時のいつはらぬ心情からものをかくべきであらう。日本の伝統はたゞ説明すればよいといふものではない。その語り方、表現の仕方のうちに、情操や恥らひの心を欠いた蕪雑な正体が曝露するものだと知るべきである。一夜漬で古事記や万葉集をよんで器用に引用したりする悲しむべき小才が我らに共通の病弊なのではなからうか。

 

個性とは
ジード
(小説家)
誠実は、芸術においては、それが努力の末ようやく認められたときでなければ、私には無縁である。じぶんの個性の誠実な表現にたやすく到達し得るのは、きわめて平凡な魂の持主だけである。なぜならば、新しい個性は、新しい形式のなかにしか、誠実に自己を表現することはできないからである。

 

個性とは
有島武郎
(小説家)
生命の向上は思想の変化を結果する。思想の変化は主張の変化を予想する。生きんとするものは、既成の主張を以て自個を金縛りにしてはなるまい。

 

個性とは
ピカソ
(画家)
個性は、個性的になろうとする意志から生まれるものではない。独創的になろうと熱中しているひとは、時間を浪費しているし間違っている。そのひとに何かがやれたとしても、じぶんの好きなものを模倣したにとどまる。やればやるほど、じぶん自身とは似ても似つかぬものを生むに終るのだ。

 

個性とは
ツルゲーネフ
(小説家)
どんなにその頭脳が偉大で抱擁力に富み、あらゆることを理解し、多くのことを知り、時代におくれぬ力があったにしても、じぶん自身のもの、独自のもの、固有なものが一つもなかったら、いったいそれがなんの役に立つのだ? がらくたを詰めこんだ倉がこの世に一つ増えただけのことではないか。

 

言葉とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
おたがいに意見を述べる会合に出席して、何も言わないと、あとで後悔する。言葉があまっているからである。何か言うと、あとで後悔する。言葉が足りないからである。

 

言葉とは
清少納言
(宮女、文筆家)
ふみことば なめき人こそ、いと にくけれ。世を なのめに書きなしたる詞のにくきこそ。

 

言葉とは
亀井勝一郎
(批評家)
(略) 真理だけでなく、美の場合にも、究極においてそれは 「語り難いもの」 を裡にひそめている。したがってそれを求め、それにふれるということは 「沈黙」 を迫られるということでもある。すべて感動とよばれるものは、この種の沈黙を裡にひそめている。それについて語り出すや否や忽ち虚偽におちいると思うような場合を、人々は経験している筈だ。「無心」 と 「沈黙」 と、真理はこのうちにしのびよると言ってもよい。人間の言説のはかなさを知った上で、真理と美を語るべきである。

 

言葉とは
亀井勝一郎
(批評家)
(略) もし熟練した思想家であるならば、自由という言葉を一つも使わずに、自由について語るだろう。平和という言葉を一語も用いずに、平和について語るだろう。そうしてこそ言葉は生きてくる。即ち思想も生きてくる。社会的に絶対的権威をもつ言葉を、符牒のようにもち出さなければ自分の思想を語りえないということは、一種の弱さではあるまいか。画一主義におちいっている証拠であり、画一主義というものは弱い人間に安心感を与えるものである。

 

言葉とは
アラン
(哲学者)
さて、言語が社会の子であることを考えてみなければならぬ。人間は最初孤独であったが、しだいに他の人々と提携するようになったというのはおろかな作り話にすぎぬ。いろいろな人の言葉があるが、アガシス の強い言葉引用しておきたい、「ヒース はつねに荒野に生えていたが、人間はつねに社会に住んでいた。」 人間はその誕生以前すでに社会生活をしていたのである。言語は人間と同時に生まれたのであって、僕らが社会における人間の力を感ずるのは、つねに言葉によってである。人々が逃げだせば逃げだす、ということがすなわち話すとかわかるとかいうことだといって、すこしもさしつかえない。そこで模倣によって、というのは教育によってと言うにほかならぬが、さまざまの記号がしぜんと単純化され普遍化されて、社会自体の表現となることを理解したまえ。したがって、さまざまの記号はつねに典礼的記号からなりたつ。

 

才能とは
吉田兼好
(歌人)
智恵出でては偽あり。才能は煩悩の増長せるなり。

 

才能とは
吉田兼好
(歌人)
分を知らずして強ひて励むは、おのれが誤なり。

 

才能とは
モーパッサン
(小説家)
才能は根気である。--表現したいと思うものはなんでも、充分に長い時間をかけ、また充分に心を留めて、そこに かつて だれも見も言いもしなかった点を注視することが重要である。いかなるものも まだ探検されない部分があるものである。

 

作品とは
小林秀雄
(文芸評論家)
作品とは自然の模倣を断じて出ることはできないのであって、作品とは芸術家が心を虚しくして自然を受け納れる その納れ方の刻印であるという事ができる。

 

作品とは
ボアロー
(詩人)
作品は少数の文学通から賞讃を浴びせられても駄目である。人間一般の趣味を刺激するに足る或る種の面白味と塩味がないならば、けっして よい作品として通用しまい。その面白味、塩味とは、主として、読者に真実の思想と正確な表現を提供することに存する。

 

作品とは
フォークナー
(小説家)
現在の自分の作品に決して満足してはならない。到達し得ない高みに登ることを目指さなければならない。同時代人や先人たちより優ろうとだけ努めてはならない。じぶん自身をのり越えようと努めなければならない。

 

作品とは
ユゴー
(詩人)
凡人は常に規則的な作品を作り、非凡な人は作品に秩序を与える。

 

作品とは
エミール・ゾラ
(小説家)
作品とは、作家の体質を通して眺めた自然の一角である。

 

作品とは
ゲーテ
(詩人)
私の発表した一切のものは、大きな告白の断片に過ぎない。

 

作品とは
ホフマンスタール
(詩人)
もっとも繊細なものを創る者のみが、もっとも強いものを創りうる。

 

作品とは
アラン
(哲学者)
描かれ書かれまた歌われた作品おいてのみ自分を知る。美の規則は作品のうちにしか現われず、またそこにとじこめられている。

 

作品とは
アラン
(哲学者)
正しい意味での思想、研究を積み、読書によって固められ、あらゆる道を探索し比較し、要するにあらゆる試練に耐えてきた思想にしても、やはりこれを口にしようという要求の一つを義務だと考えてはならぬ。義務ではない、強い喜びだからこそ、僕らは作家のうちあけ話にことを欠かないのだ。うちあけ話をせずにいられないのなら常に作物によるべきだ、記憶に頼ってはゆがんだものになってしまう。しかも、常に読み飛ばすことができないようなすきのないものを書くべきだ。あらゆる ニュアンス を盛り、あらゆる疑惑を盛るべきだ、立派な古典的言語が、これを愛する人々に報酬として与えてくれるような幾多の意味をたたえた調和を盛るべきだ。

 

作品とは
亀井勝一郎
(批評家)
人からちよつとほめられると大へんうぬぼれるし、人からちよつとけなされると忽ち失望するし、人間は自己について実に不安定である。自己の才能について空想的になりやすい。文学は我々の空想力を甚だ刺戟するもので、いゝ作品をよむと、自分も書きたいと思ひ、筆をとるのだが、しかし天才とか達人の作品はすべて長い間の努力、熟練のたまものであることを忘れてはならない。空想や インスピレーション にたよつてものを書かうと思つても駄目である。やはり表現上の異常なまでの苦心、そこでの知性と感情の極度に精密な計量がなくては、決して作品は出来あがらないのである。詩でも小説でも評論でも同じことである。

 

作家とは
ホフマンスタール
(詩人、劇作家)
有名作家も無名作家も理解されずに生きていることは同じで、ただその形式が違うだけだ。

 

作家とは
シャトーブリアン
(小説家、政治家)
独創的な作家とは、たれをも模倣しない人のことではない。だれもが模倣できない人のことである。

 

作家とは
亀井勝一郎
(批評家)
すべて一流の作家とは、何らかの意味で人間の化物性を摘出し描写する才能をもった人である。そうでなくても、数多くの人間を描き、年月を経て行けば、化物性にぶつかる筈だと私は思う。作家だけではない。どんな人間でも、長年月にわたって人間と交際してゆくかぎり、化物性に直面し、自分もまた化物となる。謀略の中に生きる政治家、実業家などの中に、時折そういう人物をみかける。あるいは人間は老齢に達するにつれて、次第に妖怪性を帯びると言っていいかもしれない。彼がもし一事に徹した人であったならば。

 

作家とは
亀井勝一郎
(批評家)
私のとくに強調したいのは、文学史に屡々みられる分類と限定と定義の虚妄である。一作家は一個の独自な運命である。社会的条件や文学思潮の影響はまぬかれないが、彼をして独自のものたらしめた原因をさぐり、彼がどのやうな固有の テーマ を提出し、いかに答へようとしたかを、個人に即してみつめなければならない。

 

座右の銘とは
亀井勝一郎
(批評家)
私はひまさへあれば古今の名人の言葉を読むことにしてゐる。私の最も尊敬する人物とは、どの道でもいゝ、そこで四十年も五十年も年期をいれた達人、つまり熟練者である。私はさういふ人の言葉を自分の座右の銘にしてゐる。(略)隠れたところに驚くべき達人がゐて、感動するやうな言葉を何げなく吐くものである。そしてさういふ人が日本の背骨であり、支柱であると私は思つてゐる。私は自分が文章をかくときも、これらの言葉を味ひつゝ、自分の技術のはげましとしてゐる。

 

詩とは
サント・ブーヴ
(文芸評論家)
詩に対する嗜好ぐらい、異説が多くて、不確定なものは少ない。如何なる時代の青年詩人たちでも、「われわれの詩が最も美しい」 と言っているが、これは 「私の恋人が最も美しい女だ」 と言っているのと同じことだ。

 

詩とは
ボードレール
(詩人)
長い詩については、つまり こう考えればいいのです。それは短い詩の書けない連中の拠りどころだとね。人間が詩形に払える注意力には限度があり、長すぎる詩というものは すべて、一篇の詩ではないのです。

 

師とは
森鴎外
(小説家)
帽は脱いだが、辻を離れて どの人かの跡に附いて行こうとは思わなかった。
多くの師には逢ったが、一人の主 (しゆ) には逢わなかったのである。

 

自意識とは
アラン
(哲学者)
時間の記憶が場所の記憶にしっかり結びついている。(略) 僕が僕であるのは、さまざまな真実な知覚の唯一の連続による。(略) 僕のこの世によって自分自身を考えるにすぎない。外界の物の存在を証明するには自意識というものでたりる、と、なかなかむずかしい定理だが、カント は言っている。主観的な外見をもった生活から、真実の物にいわば飛び移る道はないが、反対に、外観というものが姿をあらわすには、真実の物によらなければならない。そういうことが カント は言いたかったのだ。たとえば遠近といっても、実際の或る立方体ではなく、あるがままの立方体を僕が考えていることを仮定している。

 

自我とは
亀井勝一郎
(批評家)
自我の確立はたしかに近代精神の一つの特徴であるが、同時に我々が一番忘れていることは、その自我を放棄する場ではなかろうか。

 

時間とは
ヒルティ
(哲学者)
小さい時間の断片の利用。多くのひとびとは仕事にかかる前に、なにものにも妨げられない広大無辺の時間の大原野を常に眼の前に持とうとするから、だからこそかれらは時間を持たないのだ。実に、この小時間の利用と、「今はまだ着手しても駄目だ」 という考えをとり除くことが、或るひとの生涯の業績の半ばを形成するといってもさしつかえないくらいである。

 

時間とは
アラン
(哲学者)
たとえば、時間は分割できない諸瞬間からできあがっていやしないだろうか、と考えるのは、時間を運動と置きかえているので、しかも運動の影像からのがれていない、運動というものもまた、悟性にとって、挿話の連続とは別物なのだから。空疎な論理が、永遠を発見して嬉しがるのも、時間を物質化してしまった結果だ。ここでも、物と考えとを切り離さず、しかも両者をはっきり区別しなければならない。事実僕らはそういう態度でものを考えているのだ、僕らが通常の判断で考えるところを正確に知るということが、そもそも決してばかにならないことなのだ。

 

自己とは
森鴎外
(小説家)
己の感情は己の感情である。己の思想も己の思想である。天下に一人(いちにん)のそれを理解してくれる人がなくたって、己はそれに安んじなくてはならない。それに安じて恬然(てんぜん)としていなくてはならない。

 

自己とは
亀井勝一郎
(批評家)
(略) 自己が成り得るかもしれないあらゆる可能性へのそれは信頼だと言ってもよかろう。我々は世間とか他人の言葉によって自ら自己を限定されることに慣れてしまっている。そしてついにそのものであるかのごとくに思いこんで生きている。だからそういう自己とは一種の 「仮設」 だと言っていいかもしれない。しかし実際は、人間はすべて本来無限定の存在である。無限定の存在とは、いま述べたとおり、あらゆる可能性を含む存在という意味だ。それを限定によって殺しているのだ。

 

思考とは
アラン
(哲学者)
物のない考えは規律のない考えであり、ただ駄弁をろうするだけだ、ちょうど、判断のない経験が物をつかむことができないように。

 

思考とは
アラン
(哲学者)
他人からあるいはすべての物から截然と区別をつけて、僕のからだや行為をみごとに表現するこのというささやかな言葉は、ひとたびこれを自分に対立されたり、自分から区別したり、いわば自分で自分の葬式に出かけるようなことをすると、たちまち弁証法の源が姿を現わす。
(略) 僕は自分自身しか思い出さない、とは単なる重複で、僕は思い出すで充分である、と。こういう場合は、言葉というものが少々便利すぎるので、反省にたよって成功を過信した例である。物が欠ければ思想は支柱を失うものだ。考えは、考えの働きのうちに、しかも物を支持するものとしてとらえなければならぬ、これが思索というものの一条件なのだが、この条件は容易に人目に触れないところにあるので、まず人は言葉しか見つからない自己のうちにひっこみたがる。

 

自己観察とは
アラン
(哲学者)
ここまでくると、自分自身を知るとはどういう意味かはっきりわかる。自分が弱く無力だと思えば実際にそうなってしまうのだ。自分自身を知って、結局行為するようになりはしない、行為はしばしば希望以上のものだから、苦しむのが落ちだ。そういうしだいで、自己観察というのが、まさしく一種の狂気の端緒にほかならないのだ。

 

事実とは
アラン
(哲学者)
僕らの認識は、事実によって整頓され、事実によって制限されるとだれでもいうが、一般に充分理解されているとはいえぬ。経験とはあらゆる僕らの認識の形式だが、僕らは観念をおきざりにして、経験から出発するわけにもいかないし、ある観念と他の観念とどちらを取るか経験が定めるわけでもない。事実とは、学問により組み立てられ、諸観念、ある意味では、あらゆる観念によって定められた物自身だ。事実をつかむのには周到な用意がいる。
地球が回るとは事実だ、この事実をつかむには、念入りにつくりあげたいろいろな関係に準じて、たくさんの他の事実をいっしょに集めてみなければならぬ、しかもこのたくさんの事実が、めいめい同じ種類の条件をになっている。

 

詩人とは
ジード
(小説家)
大詩人になるということが価値あることではない。
われわれは、ただ、純粋な詩人を目標にしなければならない。

 

詩人とは
ゲーテ
(詩人)
ちかごろの詩人たちは インキ に水をたくさんまぜている。

 

詩人とは
小林秀雄
(文芸評論家)
私は、詩人肌だとか、芸術家肌だとかいふ乙な言葉を解しない。解する必要を認めない。実生活で間が抜けていて、詩では一ぱし人生が歌えるなどという詩人は、詩人でもなんでもない。詩みたいなものを書く単なる馬鹿だ。

 

詩人とは
ボードレール
(詩人)
つねに詩人であれ、たとえ散文の場合にも。

 

辞世とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
同時にいつかは終局に達するであらうと考へるのも駄目で、一歩一歩がそのまゝ終局のつもりで書かねばならぬ。(略) 芭蕉の言つたやうに、わが句作はすべて辞世といふ覚悟がなければならない。我々凡庸な人間には、さういふ張りつめた心を持続することは出来ないにしても、一作一作が終焉のきざみであることは事実だから仕方がない。(略) 人間はその永遠を思ひつゝ、やはり一歩を大切にして行かねばならぬわけである。

 

自説とは
亀井勝一郎
(批評家)
(略) 我々が自分の学問とか知識と称しているものは、一種の 「私有化」 状態にすぎないのである。即ち学問とか知識による自己限定である。それが固定化すると偏見となり、あるいは先入観となる。(略) その自説に対し、自ら絶えず懐疑していないような 「自説」 は悪徳となる。

 

思想とは
アウグスチヌス
(思想家)
当時、私は、ぎっしりいっぱいの空虚であった (copiosa egestas)。

 

思想とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
「思いつめる」 という心の状態なしに、思想の形成はありえない。

 

思想とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
元来宗教は、人に対して露骨に説くべき性質のものではない。これはさきに、「ものの見方」 でもふれたが、そこにだまって存在していて、逆に人の方から慕い寄ってくるような性質のものでなければならない。宗教だけでなくすべて思想の最も深い魅力は、そういう受動的なすがたに存するのではなかろうか。積極的であるということは、必ずしもその思想の深さをあらわすものではない。現代の政治も思想も宗教も、すべて自己を誇示することにのみ専心しているが、それは根柢において薄弱だからである。「弱さ」 は逆に 「積極的」 外観を呈するものである。

 

思想とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
私の最も好まないのは、自己の確信と称するものを、つねに外面にあらわそうとするときの、その 「厚顔」 である。説教とか宣伝の中には、必ず一種の厚かましさがある。人を説得してやろうという下心と言ってもよい。そして宗派でも党派でもまず自分の集団へ 「入れ」 と勧誘するが、私は思想の客引を好まない。

 

思想とは
アラン
(哲学者)
思想を変える唯一の方法は行動を変えることだということを、いっこうに知らない人が少なくない。情念に駆られている人間は例外なく、思想によって思想を祓 (はら) い浄 (きよ) めようとかかる。もちろん、これはうまくいかない。

 

思想とは
アラン
(哲学者)
野心的な思想に対立するものは、自分のしていることだけを観察する労働者の思想だ。ここには正確な方法、今日の物理学を支配し、ある意味では手も足も出ないようにしているあの正確な方法というものが現われている。問題となるのはただ物だけだ、というところからそういうことになる。いろいろな機械、てこも滑車も車輪も斜面も、力学の諸原理がまだ発見されないときにみな知られていた。(略) 無線電信の歴史を見ても明らかなとおり、実地の応用が成功した場合、思想はたちまち器具の列に加えられる。実験は方法の女王だという陳腐な考えは捨てなければならぬ。実験上の探究に道具や人の手を無視できないだけであって、道具をおき、手をこまぬき、精神から鋭敏な自然に質問を発することもまた必要なのである。

 

思想とは
アラン
(哲学者)
確かに、僕らは、どういうふうに自分らの思想が肉体の運動に翻訳されるか知らない、また将来もおそらく知ることはできまい。僕らにわかっているのは、肉体の動きがなくては、思想を形作ることはできないということだけだ。この緊密な関係でいちばんより知られているところ、すなわち判断によって僕らは僕らの筋肉を動かすということを考えるだけで、すでに、想像力の諸結果の大部分を、いやおそらくは全部を説明している。

 

思想とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
上代において 「東洋」 を学んだときは、周知のとおり儒教と仏教という源泉思想にまず直面した。この二代思想の伝来によって上代史は大きく転回している。思想が時代をつくるのだ。同様に、現代において、「西洋」 に立向うときには、必ず キリスト 教と ギリシャ 精神に直接参入しなければならないのは当然であろう。

 

思想とは
アラン
(哲学者)
僕らの習慣は僕らしだいというよりもはるかに物に依存している。(略) 僕らの思想を暗示するのは物だというが、それではとても言い足りないのだ、僕らの対象こと僕らの思想なのだ。だがとくに人間の手が扱うものが、順序や相称やさまざまな類似や反復によって、僕らの思想を混沌のうちから引き上げてくれる、そして思想は認識するとか計算するとかいう思想固有の機能に導かれる。

 

思想家とは
ショーペンハウアー
(哲学者)
学者とは、たくさん書物を読んだ者のことだ。思想家、天才、世界に光明をもたらす者、人類の啓発者は、しかし、世界という書物をじかに読んだ者である。

 

自由とは
亀井勝一郎
(文芸批評家)
誰もが、同じような言葉で、同じような表現をとって、それが社会的に一つの威力となってあらわれる場合がある。(略)
人間の自由には限界はあるにしても、「私は自由であるか」 という疑問を失ってはならないのは、この画一性への抵抗のためである。いかなる意味での画一性に対しても、つねにめざめているのが人間の自由というものであろう。出家遁世も、同一型のくりかえしになったときは明らかに堕落した。私は兼好や芭蕉の言葉から、「自由」 という観念を出来るかぎり明らかにしようと思ったが、「本音」 というものは、昔の人も今の人も容易に吐かないものである。「本音」 の自由はただ仏道に向ったときと、中世人は考えつめていたようである。人間の口にする自由の虫のよさに、失望していたのかもしれない。

 

習慣とは
ヒルティ
(哲学者)
ひとは、怠惰、逸楽、浪費、無節度、吝嗇などの習慣をやしなうことができるように、勤勉、節制、倹約、誠実、寛容の習慣をも実際にやしなうことができる。そして、どんな人間的美徳も習慣になってしまわぬかぎり、たしかに身についたものにはならぬ。

 

修練とは
亀井勝一郎
(文芸批評家)
デッサン の確実な修練を経ない 「印象派」 (即ち絵画における映画) に堕して行く。見物の期待するものも正にそれなのだ。どんな 「物」 が写されたか──その 「物」 の迅速な成立を興じてゐる。かくて自分はみられてゐる、周囲のものはみてゐる──平静な無感覚状態の生産──たしかにこれが技術の世界といふものだらう。しかし秘義の世界ではあるまい。

 

「主義」 とは
有島武郎
(小説家)
この近道らしい迷路を避けなければならないと知ったのは、長い彷徨を続けた後のことだった。

 

「主義」 とは
有島武郎
(小説家)
何という多趣多様な生活の相だろう。それはそのままで尊いではないか。そのままで完全な自然な姿を見せているではないか。(略) 主義者といわれる人の心を私はこの点において淋しく物足らなく思う。彼れは自分が授かっただけの天分を提げて人間全体をただ一つの色に塗りつぶそうとする人ではないか。その意気の尊さはいうまでもない。しかしその尊さの蔭には尊さそのものを凍らせるような淋しさが潜んでいる。

 

「主義」 とは
有島武郎
(小説家)
何故お前はその立場に立つのだと問われるなら、そうするのが私の資質に適するからだというほかには何等の理由もない。私には生命に対する生命自身の把握ということが一番尊く思われる。即ち生命の緊張が一番好ましいものに思われる。

 

上手とは
吉田兼好
(歌人)
天下の物の上手といへども、始めは不堪の聞えもあり、無下の瑕瑾もありき。されども、その人、道の掟正しく、これを重くして放埒せざれば、世のはかせにて、万人の師となる事、諸道かはるべからず。

 

小説とは
坂口安吾
(小説家)
すくなくとも、僕は人の役に多少でも立ちたいために、小説を書いている。けれども、それは、心に病める人の催眠薬としてだけだ。心に病なき人にとっては、ただ毒薬であるにすぎない。

 

[ 悪い ] 小説とは
A. フランス
(小説家)
よい小説とは果たしてどんな小説であるかということは容易でない。これに反して悪い小説はいずれも大体似たところがある。それらは鋳型にはめられて作られたような代物である。

 

[ 真の ] 小説家とは
ジード
(小説家)
下手な小説家は、その作中人物をつくり上げ、これを操り、これに喋らせる。真の小説家は、作中人物の言葉に傾聴し、かれらが行動するのを見守る。

 

[ 善い ] 小説家とは
芥川竜之介
(小説家)
最も善い小説家は「世故に長じた詩人」である。

 

情熱とは
アラン
(哲学者)
しかし、そんなものをまったく要求しないのがいちばん事が楽ではないか。要求したら、やがてそれを望むようになるものだ。なにもしないすべを知っていれば、情熱も遠くまで行かぬものだ。生き生きとした欲望だと信じているのも、単に行為が欠けていさえすれば、それは考えるだけで、たちまち消えてしまう。それにしても、最初の行為というものは、どんなにたくさんの欲望を生むだろう。かつて賛成した意見だという唯一の理由で、執拗にその意見を固持する人がよくあるものだ。

 

証明とは
アラン
(哲学者)
証明は人間の業である。宇宙は少なくともあるがままのものだ。よろしい。だが宇宙はあるがままの姿では現われぬ。目をあけて見るがよい、はいってくるものは誤りに満ち満ちた世界である。あらゆる物が立直しを望んでいる。経験は粗大な間違いを不手ぎわに正すだけだ。(略) ある文学者が、星の流れが東から西へと回転すると聞いて驚き、「回っていたのなら、そうとわかっているはずだが」 と言った。しかし、星が回るのが見える見えないがたいしたことか。惑星の運動はもっと見えない。僕等の情熱や思い出や夢が、この天空の画面をもっと混乱させている。誤りの多様を考え、信仰の雑多を考えれば、誤りとはいやむしろ思想の混乱、不統一、動揺とは、僕らの自然的状態だと充分なっとくできるだろう。この無秩序からのがれるには、ある命令にたよるほかはない。命令はまず拒絶であり懐疑であり期待である。「そのままでは互いに前後の関係もない事物のうちにさえ秩序を仮定して」 とは デカルト の言葉だ。

 

知るとは
レオナルド・ダ・ヴィンチ
(画家、彫刻家)
知ることが愛することだ。

 

知るとは
ヴァレリー
(詩人)
いかに じぶん を知らないか、じぶん の書いたものを読みかえして初めて気がつく。

 

知るとは
アラン
(哲学者)
たとえば正確な科学上の証明のようなものでも、僕にとって眼前の死物にすぎないこともしばしばある。その証明が立派だと、僕は承知している、が、その証明は立派だとは僕には証明してはくれない。その証明を蘇生させるにはよほどの骨折りが必要だ。放っておけばいよいよ僕から遠ざかるものだ。しかし蘇生するときにはいつも新しい姿を現わす、汚れない姿を現わす。もし諸君にそんな経験がないなら、先生として プラトン を選びたまえ。

 

真実とは
コクトー
(詩人)
ほんとうに奥深い人間は落ちこむものである。かれは昇らない。かれの死後長くたって、人々は埋没した その柱を、一度に全体を、または少しずつ、一塊ずつ発見するのである。

 

人生とは
森 鴎外
(小説家)
生まれて今日まで、自分は何をしているのか。始終何物かに鞭うたれ駆られているように学問ということにあくせくしている。これは自分にある働きができるように、自分を仕上げるのだと思っている。その目的は いくぶんか達せられるかもしれない。しかし自分のしていることは、役者が舞台へ出て ある役を勤めているにすぎないように感ぜられる。その勤めている役の背後に、別に何物かが存在していなくてはならないように感ぜられる。鞭うたれ駆られてばかりいるために、その何物かが醒覚 (せいかく) する暇がないように感ぜられる。

 

人生とは
上田 敏
(英文学者)
一日延ばしは時の盗人、明日は明日は明日はか、、、。

 

人生とは
亀井勝一郎
(文芸批評家)
人生は悪意にみちたものかもしれないが、どこかに善意はある。どんな人間の裡にも、一片の善意はひそんでゐるものだ。それに邂逅することは喜びであり、たとひさゝやかな喜びであつても、そのことが我々に生き甲斐を感じさせる。人生に対し、あまりに大きなことを望んではならない。自分の努力を忘れて、大きな期待だけをかける虫のよさが我々にはある。虫のよさのために欺かれ、人生に失望する人は多い。

 

真理とは
ヴォルテール
(詩人)
真理が明瞭な時は、党派や徒党の生ずることはまずない。
真昼間に ひとは けっして夜が明けたかどうか論争しなかった。

 

真理とは
レッシング
(劇作家)
真理が共通のものだと信ずることは、私には不可能だ。
世界中がいちどきに夜が明けると信ずることも、同様に不可能だ。

 

真理とは
ゲーテ
(詩人)
あたらしい真理にとっては、古い誤謬ほど有害なものはない。

 

真理とは
ドストエフスキー
(小説家)
本当の真理というものは、つねに真理らしくないものである。

 

真理とは
イプセン
(劇作家)
大衆というものは、キリスト が十字架におもむくとき、いったいどんな態度をとったか? 大衆というものは、地球が太陽を廻るという真理に反対し、ガリレオ を犬のように四つん這いにして曳きずり廻したではないか? その真理を肯定するのに、大衆は、五十年もの歳月を要した。多数が正しいのではない、真理そのものが正しいのだ。

 

推敲とは
ベートーヴェン
(作曲家)
Immer Simpler.
 (もっと、もっと、単純に。)

 

推敲とは
パスカル
(数学者)
私は、この手紙をいつもよりもずっと長く書きました。
というのは、それを短く書く時間がなかったからです。

 

頭脳とは
モンテスキュー
(法制史家)
神は、人間に頭脳をお授けなったとき、その中身まで保証しようとはされなかった。

 

性格とは
アラン
(哲学者)
しかし、ここに仮定された内奥の性格なるものは抽象的偶像にすぎない、そういうものは弁証法的心理学の研究に似つかわしいものだ。ふつうの宗教が弁別しているように、さいわいなことに、人間は、自分の内奥の性格などよりも自分の行為に頼っているものである。

 

制作とは
ピカソ
(画家)
私にとっては、画は破壊の堆積である。私は画を描き、そして直ぐにそれを打ち壊す。だが結局のところ、何も失われてはいない。ここで切り捨てた赤は、また別な処に現れる。画を描きはじめると、よく美しいものを発見する。ひとはそれを警戒しなくてはならない。画を打ち壊し、何度でもやりなおすのだ。美しい発見を破壊するたびに、芸術家はそれを失ってしまいはしない。実際は、彼はそれを変化させ、緻密にし、より実質的にさせる。成功は発見を否定した結果である。

 

制作とは
エマーソン
(評論家、詩人)
シェークスピア のような人物はけっして シェークスピア の研究から生れないだろう。

 

制作とは
アラン
(哲学者)
単なる可能のうちからどれが最も美しかろうなどと捜しあぐむのは時間の浪費というものである。いかなる可能も美しくはなく、ただ現実のもののみが美しいのだから。まず制作せよ、判断はそれからのことだ。これこそあらゆる芸術の第一条件である。(略) それは、現実の対象をもたぬあらゆる瞑想は必然的に不毛だということである。(略) しかし、人は存在するものしか考えることはできない。まず君の作品を作ってみることだ。

 

制作とは
アラン
(哲学者)
天才とは、思案せずしかもあやまたぬ、予見しがたい流暢な行為である。(略) 美しい音楽の中には、なにか非常に自然はつつましいものがあり、音を聞いている歌手は、他物に注意をひかれず、音という対象のうちに順次に現われるものを見守っていると信ぜざるを得ないが、こういう充実した注意は、反省とか懸念とか先入観があっては不可能である。ここでは問題は予見することにはなく、ただおこなうことにある。(略) 忠告とか計画とかによらず、ただ対象によって事を決してしまう、自由な仕事というものはそういうものだ。画家にあっても同様だ、画筆の一刷けが次の一刷けを生む、作家にあって言葉が次々に流れ出すように。(略) 他の戦争の モデル によって戦争を指揮する将軍というものが考えられるだろうか。

 

精神とは
アラン
(哲学者)
いわゆる実験心理学あるいは生理学的心理学というものの骨組の脆弱なことだ。「自己とは意識の諸状態の集合にほかならぬ」 おそらくこのくらい教訓に富む間違いもあるまい。この ヒューム の公式は、破壊にかけてはじつに勇敢だったが、再建にかけてはいかにも無邪気だったこの人物の限界を明らかに語っている。これでは意識の状態は事物の格好でうろつくものだということになるではないか。ヒューム の自称経験主義は、その細部に至るまで、弁証法的だ。彼は、石とか短刀とかくだものとかいうのと同じ調子で、感情とか心像とか記憶とかという。そしてこういうものを寄せ集めて、じょうずに精神を縫いあげてみせる。だが、じょうずにもへたにも縫い上げられた精神というものはこの世にない。

 

精神とは
アラン
(哲学者)
最も幸福なのは、適当に学ぶ余裕は充分にありながら、すべてを知りつくそうというむやみな野心に悩まされない人たちで、彼らは、物事を素直にむりなく考える。じつを言えばそういう精神の動きがいちばん正しいので、そういう精神は、他人の証明などは、いわば余計なお世話だと考える。(略) 彼らは、質問責めにもあい、相手の言い分をいちいち聞いて、理解もするが、証明の押売りにつけこまれぬような断固たる注意力で、各人の言い分を結びあわせてまとめ上げぬ、そういう術を知っているのだ。

 

精神とは
アラン
(哲学者)
道徳とか人格の完成とかの問題となると、少し考えれば、次のことは理解できるはずだ、すなわち、そういうものは存在していない、ただ考えられるものだ。しかも望まれなければ、考えられもしない、もっとはっきり言えば、経験の教えに反対しなければ考えられもしない、と。(略) 人間の間に正義は存在していない、正義は作り出されねばならぬものだということは明瞭だ。

 

精神とは
アラン
(哲学者)
思うに、正しい精神とは、小さな事物や小さな不幸をたいしたこととは思わぬ、人間のそうぞうしさとか不幸とか阿諛とか軽蔑さえもたいしたこととは考えぬ精神だ、そういうことはまっすぐな精神がどう扱っていいか知らぬものだ。

 

西洋の源泉思想とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
外国文学を専門としながら、キリスト 教に無関心でいられるということも考えてみれば奇妙な現象だ。「西洋」 を学んだ様々の専門家が、互に共通の広場をもたない一つの理由も、個々の部分は学んだが、背景となる二大源泉思想 (キリスト 教と ギリシャ 精神) に無関心であったからではなかろうか。

 

絶望とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
人生の様々な事に出会ふたびに、美しい夢をもつた人ほど失望するところも大きいであらう。絶望は人生に必ずつきまとふものだ。(略) 何らの努力も考へこともしない人に、絶望は起りえないからだ。絶望は彼が一個の まじめな人間であることの証拠だと云つてもいゝ。

 

先入観とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
正倉院の御物を拝して、その生ま生ましい悠久の美にうたれるか、それともこれは聖武帝時代のもので古い過去のものだといふ判断が来るか。要するに我々を惑はすものは、古典でなく、我々自身のとるに足らぬ思慮分別なのではなからうか。率直な驚きを我々は失つてゐる。色々な附加物に煩はされて虚心になれないのである。

 

想像とは
アラン
(哲学者)
想像は間違った知覚である。しかし、どんなに厳密な知覚のうちにも、想像はいつも流れている。

 

想像力とは
アラン
(哲学者)
眼の前にない物の外見を喚起する力などというものは、人のいうほど、また人の信じるほど、強いものではないこと、換言すれば、想像力はそれ自身の性質についてもわれわれを欺くものだということを、認めておくことである。

 

存在とは
ギットン
(哲学者)
存在の様相はどれほどさまざまであっても、存在というものは一つである。

 

体系とは
ギットン
(哲学者)
思考には骨組みとなるような体系が必要であるが、しかし人間が存在の体系と等しくなることは、おそらく不可能であって、真の救いは体系よりも方法を選ぶことであろう。

 

体系化とは
ギットン
(哲学者)
方法から体系へ、道程から真理への微妙な変貌は、きわめて悪質な誘惑であると思う。

 

再体系化とは
フルトヴェングラー
(指揮者)
全体を砕いて溶解し、またそれによって、私たちの音楽の場合を形象的に言えば、始源的な心的状況を再創造する、言わば創造に先行する混沌を再建し、その中からはじめて全体を新たに造形し直す、ただそれだけが作品を本源の形体において再現し、真に新しく創作することを可能にするでしょう。

 

多忙とは
亀井勝一郎
(批評家)
職業による制約は決定的であり、同時に現代にはもはや閑暇という時間は消滅した。複雑な社会組織の中にあって、その メカニズム の一員として、自発的というよりはむしろ他動的に働かされている。動くのではなく動かされている。間断なく動かされているというこの受動性から、独特の多忙さが発生する。絶えず何かを為していなければならないのである。それが パン のためであってもなくても、静止の状態が苦痛となってきたのだ。何もしない時間のもつ充実性を、現代人は失ったらしい。

 

探究とは
亀井勝一郎
(批評家)
むしろ一つの テーマ を根づよくくりかえし、探究し、深めて行くこと、これが精神の形成のために大切なことである。この同一の問題の持続的な探究ということ、これがやはり マンネリズム から免れる一つの道ではなかろうかと思う。そして持続ということの裡には、必ず 「初心」 があるにちがいない。初心にかえることによる持続と言ってもいいだろう。

 

知恵とは
ゴーゴリ
(小説家)
どうかすると、この人生では、知恵の多いのが、ぜんぜん知恵がないよりも悪いことがしばしばある。

 

知覚とは
アラン
(哲学者)
物は僕らの前に現われているのではない。僕らが物を現わすのだ。表象するのだ。どんな簡単な知覚を考えてみようと、知覚のなかには、いつも記憶がある、整理がある、経験の要約がある。

 

知覚とは
アラン
(哲学者)
見えるがままの世界を正直に描き出さなくてはならぬ。ところがこれが容易ではない。人々は感ずるままの世界を見ていやしないし、世界は見えるがままのものではないこともよく承知している。

 

知覚とは
アラン
(哲学者)
僕らはちょっとなにか見えると、あわてて判断しがちなもので、真の知覚というものは、ひるがえるさまざまな誤りに対する不断の戦いだといえるのだ。

 

知覚とは
アラン
(哲学者)
知覚とは常に思いうかべることだ。だから、どんな簡単な知覚にも、知覚のうちには、いわば暗黙の記憶がある。僕の経験の総和がおのおのの経験に集まっている。

 

知覚とは
アラン
(哲学者)
記憶をもたぬ、暗黙の記憶すら新しい人間には、距離を積ることもできなければ、一わたりいろいろの物を考えてみることもできない。僕らのように推測することもできない。つまりは見ることもさわることもできない。記憶とは切り離された働きでも、切り離すことのできる働きでもない。(略) もし、どんなものの知覚のうちにも、幾千という記憶が閉じこめられているものだとすれば、その物は他のさまざまな物のただ中で考えられた物ということになる。(略) これはすでに、現在はないがいずれ姿を現わすものという考えを仮定している。存在し、しかも存在しない同じ物、もっとくわしくいえば、姿を隠しているが、時間のある条件のもとでは姿を現わす同じ物を協力して取捨するというこの不思議な関係から、すでに時間というものがどうやら限定されているといえる。たとえば、僕の背後にある町とは、僕が三十分かかれば行ける町だ。

 

知覚とは
アラン
(哲学者)
確かに ある精妙な機械は蟻なみには みごとに動くが、考えはしない。ましてや、この機械のある部分が知覚だとか、ある部分は記憶だとか感情だとかいうことはできない。すべての知覚はこの世界と同じ広がりをもっている、いたるところで感情であり、記憶であり、予想である。思想は自己の内にも外にもない。自己の外というものもまた考えられるし、内外をいっしょにしたものも常に考えられるからだ。
これで諸君は、僕らのうちに、長い リボン のように、自我という本質をこねあげる言語のたわむれを、仮借なく審判することができるだろう。また、記憶の棚とか想像力の棚とか想像力の棚とか夢の棚とかいろいろの仕切りを設け、これによってあいまいな経験を解釈しようとする精神の生理学も、厳格に批判することができると思う。きわめて単純な学問の例によってみても、諸事実を構成するという仕事が明らかに いちばん困難なのは充分に知られたことだ。

 

知性とは
亀井勝一郎
(批評家)
色ごのみとか恋愛は、本来 「知的」 な行為である。(略) 兼好法師の言葉全体にみられるのは 「瀟洒 (しょうしゃ) な知性」 とも言うべきもので、彼はいかなる場合でも感情に溺れていない。頭の冴えきった人だ。(略) 元来すぐれた感情とは知性の原動力なのだ。兼好のそれを 「潤いのある知性」 とよんでもいいと思う。「色このまざらむ男はいとさうざうしく」 と言ったときの 「さうざうしさ」 とは潤いのない知性のことだと解してもよかろう。

 

知的生活とは
有島武郎
(小説家)
知的生活の出発点は経験である。 経験とは要するに私の生活の残滓である。 それは反省──意識のふりかえり──によってのみ認識せられる。(略) 即ち智識も道徳も既存の経験に基いて組み立てられたもので、それがそのまま役立つためには、私の生活が同一軌道を繰返えし繰返えし往来するのを一番便利とする。(略) だからもし私がこの種の生活にのみ安住して、社会が規定した智識と道徳とに依拠していたならば、恐らく社会から最上の報酬を与えられるだろう。 そして私の外面的な生存権は最も確実に保証されるだろう。

 

知的生活とは
有島武郎
(小説家)
ある人が純粋に本能的の動向によって動く時、誤まって本能そのものの歩みよりも更に急ごうとする。そして遂に本能の主潮から逸して、自滅に導く迷路の上をまっしぐらに馳せ進む。そして遂に何者でもあらぬべく消え去ってしまう。それは悲壮な自己矛盾である。彼れの創造的意向が彼れを空しく自滅せしめる。知的生活の世界からこれを眺めると、一つの愚かな蹉跌として眼に映ずるかも知れない。たしかに合理的ではない。またかかる現象が知的生活の渦中に発見された場合には道徳的ではない。しかしその生活を生活した常体なる一つの個性にとっては、善悪、合理非合理の閑葛藤を挿むべき余地はない。かくばかり緊張した生活が、自己満足を以て生活された、それがあるばかりだ。

 

デカルトとは
アラン
(哲学者)
デカルト を理解するために僕らに不足しているものは、常に知恵である。見たところ明瞭で、模倣も容易なら反駁も容易なようだ。しかも、いたるところはほとんど底のしれない感じだ。おそらくだれもこれほどみごとに、おのれのために思いをこらしたものはなかった。あんまり孤独すぎるかもしれない。語っているときの彼はことに孤独だ。彼の言葉は、なにごとも吹聴しない、世のならわしどおりの言葉だ。デカルト は、自分の宗教も情熱も性癖も、ただ一つの言葉さえつくりだしはしなかったが、そういうものはみな一体となって、すべて内からの光に照らされ、あの癖のない自然な言葉に乗って僕らに伝わる。言葉の意味を変えるどころか、一語一語のすべての意味を同時に悟った。人間が当然すべきことをしたまでだ。

 

デカルトとは
アラン
(哲学者)
(デカルト は、) 組織の改変はしなかったが、革命もなく、新しい道もなく、精神のうちで、すべてを改変したのだから。
  整然と思索して、ひとたび思想と延長とを区別したら、もはやどんな混乱も困難も忘れなかった。すべては、持ち場持ち場におくりかえされた。魂を精神のうちに確保して、物の手にゆだねない、そのかわり、あらゆる運動は、延長をもった物の手に回送され、あらゆる情熱は、おそろしいものだが、結局限定された扱いうる物として、肉体のなかに投げこまれる。読者がとやかく考えをめぐらすまでもなく、これでことはかたづく。

 

哲学とは
ウィトゲンシュタイン
(哲学者)
哲学は、本来的に、ただ詩作としてのみ書かれるべきである。

 

哲学とは
デカルト
(哲学者)
正しく哲学するためには、一生に一度は、自己のあらゆる持説を棄てる決心をしなければならぬ。たとえその中に真実なものがあるとしても、それらをもう一度一つ一つ取り上げてみて、疑問のないもののみを認めるためには、そのくらいの決心をしなければならぬ。

 

哲学とは
アラン
(哲学者)
プラトン がわかるなどというのは、べつに大したことではないので、自分自身が プラトン になり、えっちらおっちら、つまずきながら考えるのでなくてはだめです。網は魚をとるだけです。しかし、海から引き離された魚とは、いったい何ですかね。

 

哲学とは
アラン
(哲学者)
正しく考えることほど適切な哲学上の経験は おそらく あるまい。(略) この種の探究がおもしろくないというなら、それは もう神さまの お言葉のようなもので、こんな書物を読まないでもよろしい。

 

哲学とは
アラン
(哲学者)
これは哲学者の大きな秘密だが、どんな証明も証明自体で一本だちできるものではない。証明は常にどこからか外敵を受けているもので、ただ鉄条網を張りめぐらして防禦しているようでは、さっそく圧倒されてしまうのである。精神は証明の背後にかくれているのでは強い精神といえない、証明の唯中に身を置き、証明を常に激励しているようなものが精神だ。(略) 哲学とはまさしく倫理学であり、空虚な好奇心ではないことを知らねばならぬゆえんだのだ。

 

哲学者とは
シオラン
(哲学者)
ひとりの哲学者の遺すもの、それは彼の気質だ、、、。生きれば生きるほど彼はますますおのれ自身に立ち帰ることになるだろう。

 

哲学の目的とは
ウィトゲンシュタイン
(哲学者)
哲学における君の目的は何か?
蠅に蠅取り壺から脱出する路を示すことである。

 

デッサン とは
エドガール・ドガ
(画家)
デッサン は物の形ではない。デッサン は物の形の見方である。

 

天才とは
ロダン
(彫刻家)
天才? そんなものは、けっして、ない。
ただ勉強です。方法です。
不断に計画しているということです。

 

天才とは
芥川竜之介
(小説家)
天才とは僅かに我々と一歩を隔てたもののことである。
同時代は常にこの一歩の千里であることを理解しない。
後代は又この千里の一歩であることに盲目である。
同時代はその為に天才を殺した。後代は又その為に天才の前に香を焚いている。

 

天才とは
アラン
(哲学者)
デッサン の技術は、なるほど モデル にしたがうが、この技術のなかにも常に デッサン 自体にしたがって デッサン を続けたり止めたりするある運動が存するので、デッサン の非常な美しさが、モデル との類似には由来しないゆえんなのである。(略) この事情はたとえば モリエール、ことに シェクスピア など書き方に一致している。彼らの仕事の美しさは、主題もなければ、あらかじめ定められたものにもない。むしろいわば筆の勢いというものにある。すなわちあやまたずに持続する、行為であり同時に自由な判断であるものにある。(略) 必然と自由とをともに表現している点で、音楽に似ている。

 

独学とは
ファーブル
(昆虫学者)
独学にも それ相応の価値がある。
野生の果実も熟せば、温室の果実とは べつの風味がそなわる。

 

読書とは
ラスキン
(美術評論家)
人生は短い。
この書物を読めば、あの書物は読めないのである。

 

読書とは
伊藤東涯
(儒学者)
凡そ書を読むに流覧十過は熟読一過に如かず。

 

読書とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
人間の声といふものに対する郷愁を抱かなければ、ことに宗教とか文学の場合は、身にしみてわからないと言つてもいゝのではないかと思ひます。(略) 親鸞聖人も信ずるといふことと、聞くといふことを一つのものとして重要視してゐることです。道元の 「正法眼蔵」 を読んでみますと、如来全身といふ言葉があります。つまりお経といふものは如来そのものであつて、如来の声そのものであるといふな言ひ方をしてをります。本を読むと言はずに、本を聞くといひませうか、本のなかに、つまり経文のなかに如来の音声を聞く、さういふ態度をとつてゐる。つまり邂逅の直接性を、いかに重んじたかといふことのあらはれだと思ふのです。

 

独創とは
ユゴー
(小説家)
独創は不正確の口実に使われてはならぬ。

 

謎とは
アラン
(哲学者)
彼ら (マラルメ と ヴァレリー) は謎をゆさぶり、その妙音をたのしんでいる。若い人たちはそういうところから出発するのだ。ソクラテス も プラトン も、まさにそんなふうに ホメロス の謎をゆさぶったものである。(略)
明るい謎、つまり解くことの可能な謎、いいかえると数学的な謎、解けなければわれわれが怠慢だということになるような謎が、いまでは求められている。

 

習い事とは
吉田兼好
(歌人)
年五十になるまで上手に至らざらん芸をば捨つべきなり。励み習ふべき行末もなし。

 

ニュアンスとは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
抹殺されたものに素早く眼をむけること、それが叡知というものである。

 

認識とは
アラン
(哲学者)
肉体の認識も直接なものではない。やはり関係というものを含む場所とか距離とかの考えに由来するのだから、決して直接な印象で与えられるものではない。肉体の認識も物の認識も僕らに与えられているようで、じつはみんな僕らが学ぶものだ。どのように学ぶか、その細部や秩序は、習練をつめば立派に見抜くことができるのだが、あんまりそういうことにこって、どう見ても本当らしくないような理屈を編みださないように気をつけるがいい。精妙などこまで行ってもはてしないような議論は、元来真の哲学には無縁なものと知りたまえ。

 

能力とは
林 語堂
(言語学者)
どんな形式にせよ、人間の知識を考査したり測定したりできるという考え方は 捨てなければならない。

 

馬鹿とは
エドワード・ヤング
(詩人)
利口になるにも スピード が肝心だ。四十歳の馬鹿は、本物の馬鹿だ。

 

馬鹿とは
紫式部
(女流文学者)
いとしも、物のかたがた得たる人は難(かた)し。ただ わが心のたてつる筋をとらへて、人をばなきになすなめり。

 

馬鹿とは
バーナード・ショウ
(劇作家)
馬鹿な人間が気恥ずかしいことをやっているとき、そいつは いつでも、これが 義務なんだ と断言する。

 

発想とは
ギットン
(哲学者)
発想に富んだ豊かな頭脳をもつことは、決して危険なことではない。
幻影を神託と思ったり、自分の精神の痙攣を何か内面的な直観だと思ったりすることがなければ。

 

反・科学主義
ウィトゲンシュタイン
(哲学者)
はじまりを みいだすことは むずかしい。
否、はじめにおいて はじめることが。
そして、さらに、そこから遡ろうとしないことが。

 

判断とは
アラン
(哲学者)
人は自分の持っていないものを悪く判断するものである。

 

判断とは
アラン
(哲学者)
理性の原理となると、一段と抽象的な段階にあるといわねばならぬ。すなわち、自然の支持が一段と薄弱なもので、精神はいわば健康上必要な規律として、おのれの好む原理に従うという具合だ。たとえば、既知の秩序では手にあまるような、しかもただ一度しか現れないような事件は、これを事物の気まぐれに帰すよりむしろ想像とか情熱とかの戯れに帰するという類である。(略) 要するになに一つ見のがすまいと注意して外界におこるさまざまな不思議のあとを追うよりむしろさまざまな情熱つまり感動的な意見をつつしむ側に理性の原理はあるのだ。
この種のおきては経験よりむしろ意志に由来するもので、だれもかくかくのおきてがあってどうにもならぬとは決して見なしはしないから、厳守されるというわけにはいかぬ。適切に言えば、判断なるものがこれで、広い意味で道徳上の秩序に属するものだ。したがってこの価値を感ずることのできるのは、情熱の陥穽とか言語の軽佻とかを充分に知った者に限る。言ってしまえば、堅くおのれを持するすることが精神に必要なのである。

 

判断とは
ヴァレリー
(詩人)
もっとも偉大な人間とは、かれ自身の判断に信頼することを敢えてした人間である。もっとも愚かな人間もまた、それと同様である。

 

判断とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
たいていは自分の欲する側面しか見ていない。ないしは先入観や偏見をもって接している場合も少なくない。「全面的な判断」 の大切なことは自覚しているが、実際にそれを運用出来るかどうか。

 

美とは
小林秀雄
(文芸評論家)
美しい花がある。
「花」の美しさという様なものはない。

 

美とは
アラン
(文芸評論家)
規則をもたぬ即興は美しくない。

 

美とは
坂口安吾
(小説家)
美というものは物に即したもの、物そのものであり、生きぬく人間の生きゆく先々に支えとなるもので、よく見える目というものによって見えるものではない。美は悲しいものだ。孤独なものだ。不幸なものだ。人間がそういうものだから。

 

美とは
ボードレール
(詩人)
美を表現しようとつとめる人間が、審査委員先生の規則なるものを拳々服贋したとすれば、美そのものが地上から消え去る羽目になるだろうことは、だれにだって簡単に解ることだ。

 

[ 間違った ] 比較とは
芥川龍之介
(小説家)
百足 「ちっとは足でも歩いて見ろ。」
蝶   「ふん、ちっとは羽根でも飛んで見ろ。」

 

批判とは
世阿弥元清
(能役者)
そもそも、能批判といふに、人の好みまちまちなり。しかれば、万人の心に合はんこと、左右 (さう) なくありがたし。さりながら、天下におし出されん達人を以て、本とすべし。

 

批判とは
小林秀雄
(文芸評論家)
人は如何にして批評というものと自意識というものを区別し得よう。彼 (ボードレール) の批評の魔力は、彼が批評するとは自覚する事である事を明瞭に悟った点に存する。批評の対象が おのれであると他人であるとは一つの事であって二つの事ではない。批評とは畢に己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか !

 

批評とは
アラン
(哲学者)
名観客になるのには、おそらく 名優になるくらいの時間がかかる。

 

批評とは
荻生徂徠
(儒学者)
自分より見え申さざる内は批評も無益に候。

 

批評とは
ラ・ブリュイエール
(批評家)
批評することに楽しみを覚えると、本当に立派な作品に深く感動する喜びが奪われる。

 

批評とは
ハイネ
(詩人)
精神の作品は永遠に不動であるが、批評には変わりやすいところがある。批評はその時代の意向から生じてくるからだ。

 

批評とは
リルケ
(詩人)
批評的な言葉によって近づくほど芸術作品にふれることのできないものはありません。すべては、とかく人が私たちに思いこませたがるほど理解しやすいものでもなく、言葉で語りやすいものでもありません。とくに、芸術作品はもっとも口で言いあらわしがたいものです。

 

批評とは
ルメートル
(批評家)
批評とは書物を愛読し、それによってじぶんの感覚を豊かにし洗練させる術である。

 

批評とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
批評の原理は様々あるにしても決定するのは愛着といふことである。そして一作家の全集をよみ、その出発、成育、成熟、死を凝視し、そこにその作家の肖像を再現しうるならば、それだけでも大へんなことであり、芸術鑑賞を深めるにも拡大するにも、畢竟はかういふ点から出発する以外にない。個人的な恋愛の深さから、世の多くの愛の深さを知るやうに、一個の美術品、一つの作品、それへの愛着からすべては発する筈だと私は考へてゐる。

 

批評家とは
A. フランス
(小説家)
よき批評家とは、傑作の間を歩む自己の魂の冒険を語る人間である。

 

批評家とは
ルナール
(小説家)
批評家は寛大にしてもらう権利がある。いつも人のことばかり言っていて、じぶんのことはけっして言ってもらえないのだから。

 

批評家とは
ヴァレリー
(詩人)
批評家。きわめて薄汚い子犬でも、致命傷を与え得る。つまり狂犬でありさえすればよい。

 

批評家とは
ヴァレリー
(詩人)
真の批評家の目的は、作者がじぶんに向っていかなる問題を提出しているかを見きわめ、且つ作者がその問題を解決しているか否かを探求することであるべきだ。

 

批評家とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
どんなときに批評家としての生き甲斐を一番感じるかと云へば、文学の場合には、何と云つても感動した作品に出会ふこと、その作者から直接に教をうけるときである。そしてその作者の肖像を描くことが喜びである。批評の最高はこの意味で云ふなら「讃歌」をかくことにつきると云つてよい。随分悪口もかくし、悪口も云はれるが、批評家としての喜びは何と云つても快く「讃歌」を書けるときであり、私はそれを人生の幸福と思つてゐる。

 

批評家とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
私は宗教に関心を深め、文明批評に興味をもち、人生論とか恋愛論もかき、また古典の地を訪れて古美術を語ることも楽しみにしてゐるわけで、その上文学批評もやるので、いかにも多才のやうにみえるかもしれないが、決してさうではない。人生いかに生きるかといふ唯ひとつの問ひから出てくることで、貫くものは一つである。表現の様式は異つても、表現上の苦労をかさねてゐる点ではすこしも他の文学者と異つてゐるわけではない。私は更に視野をひろくし、山積する日本の様々の問題にとり組んで行きたいと思つてゐる。

 

暇とは
ボードレール
(詩人)
ぼくが、いくらかでも偉くなったのは、暇のせいだ。
ただし、ぼくの非常な損失において。
なぜなら財産がなくて暇があれば、借金はふえるばかり、借金に伴う屈辱もふえるばかりだから。

 

表現とは
スタンダール
(小説家)
表現は芸術のすべてである。表現のない絵画は、一瞬眼を喜ばす映像であるにすぎない。

 

表現とは
志賀直哉
(小説家)
作者は どんなに変わったものを書いたつもりでも、真似でないかぎり、決して じぶん以外には出られない。安心して どんな事でもやって見るがいい。

 

表現とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
私は二十代にかいたものはむろん、つい昨日書いたものでも、過ぎ去つた文章は悉く意にみたない。何かを書くことは悦びではあるが、また悔恨の種になるものである。それだからこそ次から次へと執念ふかく書きつゞけるとも云へるわけだが、表現の苦心だけは一生かゝつても減らないと思ふ。小説家もさうである。十年二十年と小説をかいてゐると、誰でも一応は表現の技術を身につけるわけだが、そこで満足してゐると忽ち腕がおちてしまふ。語り難い難問題にいつもぶつかつて、一番表現しにくいところで表現しようと身もだえしてゐなければならない。

 

表現とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
尊敬も愛情も興味もない題材の場合は、どんなに工夫したところでいゝものが出来る筈がない。また色々の本を参考にして、それをぬき書きして間にあはせようとする人も多いが、どんなに拙くとも自分の感じたことを率直にかくことから始めなければ、少なくとも文学の場合は害毒のみ多い。(略) いつも ペン をとつてゐなければ、表現力は養はれないものである。(略) 書くこともまた長年月の熟練を要する仕事だからである。

 

評論家になるとは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
私の家へは小説の志望者はたくさん来るが、評論を書かうといふ人はめつたに来ない。何かむづかしく勉強して、むづかしい表現をとらねばならぬやうに考へてゐるらしいが、決してさういうものではない。私はさういふ人に、自分の精神生活の一断面を素直にかくこと、或は自分の尊敬する作家の作品論か、作家論をかくことをすゝめる。尊敬のあるところ必ず愛情があり、愛情のあるところ必ず人をうつものがある。

 

文学とは
夏目漱石
(小説家)
私は始めて文学とは何 (ど) んなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるより外に、私を救う途はないのだと悟ったのです。

 

文章とは
ルソー
(思想家)
他の作家のように文章に凝って文字にあくせくしていると、じぶんというものが描けない。それに粉飾を施してしまうおそれもある。私が書きたいのは、自分という人間で、美しい本ではない。

 

文体とは
小林秀雄
(文芸評論家)
現実といふものは、それが内的なものであれ、外的なものであれ、人間の言葉というようなものと比べたら、凡そ比較を絶して豊富且つ微妙なものだ。そういう言語に絶する現実を前にして、言葉というものの貧弱さを痛感するからこそ、そこに文体というものについていろいろと工夫せざるを得ないのである。工夫せざるを得ないのであって、要もないのにわざわざ工夫するのではない。

 

文体とは
フローベル
(小説家)
巧みに書かれたものは、読む人を少しもあかせない。文体──これこそ生命だ。これこそ思想にとって血液そのものである。

 

文体とは
ヴァレリー
(詩人)
「飾られた」 文体。文体を飾ること。ありのままの、清潔な文体を書ける人だけが、真に文体を飾ることができる。

 

文体とは
ジロドゥー
(劇作家)
唯一の仕事は、文体を見出すことで、思想は後からやって来る。

 

文体とは
ビュッフォン
(植物学者)
立派に書かれた作品のみ後世に残るであろう。知識の量、事実の特異性、探究された内容の新しささえ、作品の不朽を確実に保障するものではない。これらの事柄はその人間の外にある。文体はその人間自体である。

 

文体とは
アラン
(哲学者)
だれだって、危い賭けをするおそれがなくなったとたん、巧みに考えるくらいなことはする。文体は、あえて危地に身を置くことを私に強いる。

 

分類とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
現代の社会は様々の限定によって成立し、いかなるものも名称によってある ワク をはめられている。たとえば、職業、流派、党派、さまざまの思想、イデオロギー、その他のすべての芸術作品にしても、そこにはかならず分類があり、分類による限定がある。これは、社会生活の便宜上、やむをえないことではあるけれど、しかし限定とはあくまでも一つの仮設にすぎない。この自覚をもつことが必要なのではなかろうか。社会はこの仮設の上に成立しているが、この仮設を一度破壊してみてはどうか。

 

弁証法とは
アラン
(哲学者)
ゲーテ が メフィストフェレス に、「ぶどう酒はぶどうの実からできる、ぶどうの実はぶどうの樹からできる、ぶどうの樹は木だ、だからぶどう酒は木からできる」 と言わせたのは偶然ではない。これがあらゆる魔法の主題なのだ。習慣的な信仰はむしろ動物のもので、語られた証明こそ人間的な信仰なのである。原始人の奇怪な迷信の数々は、充分に研究されているが、みな、軽卒な帰納法に近いよりむしろ抽象的な演繹的な神学に似ているのである。あらゆる魔術は一種の弁証法だ。だからあらゆる弁証法が魔術だとしても驚くにはあたらないのである。(略)
形而上学あるいは神学の名のもとによばれているものの、最も豊富な感動的な不明瞭な言語を呼び集めてたくみにおこなう推論の力を考えてもらいたい。こういうものに対しては、純粋な論理の正確な研究と数学者の証明に関する注意深い反省がいちばんものを言うのだ。

 

法則とは
アラン
(哲学者)
無秩序な経験は、重ねれば重ねるほど、単独な物よりももっと人をあざむくものだ。無秩序な経験が悟性ににせ金をつかませるのは統計の拙劣による。地平線とか鐘楼とか並木道とかの知覚には、考えられた距離がなくてはならないように、落下の知覚にもなくてはならぬ、分割できない惰性とか速力とか加速度とか力とかという、目には見えない、考えられ設けられた諸関係は、ひとえに物の考察から、ひとえに物を知覚しよう、物の表象を得ようとする不断の努力からのみ生れるのだ。この世は法則以前に与えられたものではない。たとえば明け方と暮れ方に現われるあの妙な二つの星が、たった一つのケプレルの軌道の上のたった一つの星となるように、法則が姿をあらわすに準じてこの世はこの世となり物となる。

 

法則とは
アラン
(哲学者)
自然がどれほど固定しがたいものとなろうとも、再びかえらぬ旋風が四季に代って荒れまわるようなことになろうとも、それは曲がりなりにでも考えられるものであるはずだ。方向、距離、力、速度、質量、張力、圧力、数、代数学、幾何学、そういう不断の支配の手をかりて。(略) こういう自然の諸法則や諸形式は僕らの道具であり、器械であり、星の進路をしらべて、ぎりぎりの正確さまで行きつこうとすれば、星の進路は勢い果てしなく複雑なものになるだろうが、これを捕える直線や円や楕円や力、質量、加速度などという道具は依然として通用する。こういう諸要素は運動自体の諸要素であり、運動は形式に由来するものであって、はじめて目がさめたときの影像によりできあがったものとして与えられたものではない。正しくいえば、法則のない運動は運動とはいえない。

 

法則とは
アラン
(哲学者)
法則のない運動は運動とはいえない。もう充分に述べたことだが、運動を知覚するとは、一定不変の運動体という考えと連続的に変化する距離という考えとによって変化を整理することだ。最も簡単な知覚においても、運動とは表象され限定されたものであり、分割できないものである。運動自体が当の変化の法則なのであって、この法則が完全になるに準じて、すなわち間段なく物が動いていった道筋をこの法則が明らかにするに準じて、運動はまさしく運動となる、つまり実際の運動となる、運行する物と他のすべての物との関係が限定されていくわけだから。

 

法則とは
アラン
(哲学者)
認識はすべて経験によるが、法則はすべて先験的なものだ。(略) ここでもまた考えと物とをしっかり結びつけておくことを忘れてはならない。

 

ポエジー とは
ジャン・ジュネ
(小説家)
詩とは、精根を涸らす努力によって得られる世界像である。
ポエジー とは意志的なものだ。

 

本能的生活 とは
有島武郎
(小説家)
無元から二元に、二元から一元に、保存から整理に、整理から創造に、無努力から努力に、努力から超越力に、これらの各の過程の最後のものが今表現せらるべく私の前にある。

 

真似とは
世阿弥元清
(能役者)
至りたる上手の能をば、師によく習ひては似すべし。習はで似すべからず。上手は、はや究め覚え終りて、さて、安き位に至る風躰 (ふうてい) の、見る人のため面白きを、唯 (ただ) 面白きとばかり心得て初心、是れを似すれば、似せたりとは見ゆれども、面白き感なし。

 

真似とは
レッシング
(劇作家)
僕に真似のできにほど器用な動物がいたら言ってみたまえと、猿が狐に向かって自慢した。すると狐は答えた。君の真似をしようという気になるような、くだらない動物がいたら、言ってもらいたいものだ。わが国の作家たちよ、私はもっとはっきりと説明する必要があるのだろうか?

 

真似とは
松尾芭蕉
(俳人)
かりにも古人の涎 (よだれ) をなむることなかれ。(略) この道に古人なし。

 

真似とは
紫式部
(女流作家)
心浅げなる人まねどもは、見るにも からはらいたくこそ。

 

迷いとは
ゲーテ
(小説家)
人間は努力しているあいだは、迷うにきまったものだ。 [ ファウスト ]

 

見るとは
アラン
(哲学者)
人は見ることを学ぶものだ、つまり光や影や色によって与えられた物の外観を解釈することを学ぶものだという事実に注意が向けられた。この種の医学上の観察も確かに知っておいてよいことだが、僕らの視覚を分析して、僕らに見えたものと僕らが判じたものとを区別してみることが、哲学の方法にはいっそう適当だ。

 

無神経とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
明快に言いあらわすことは大切だ。
しかし無神経なために明快である場合もある。

 

メカニスム とは
アラン
(哲学者)
深淵にのぞんでまず簡明な運動を投げ、あたかも網が魚類を捕え引き寄せるように、これを試験し複雑化して、ついに運動の正確な目録を編みだすあの精神の働きというものを (略)。メカニスム とはまさしく自由の証明であると同時に、自由の手段ないしは道具である (略)。自然はこのとてつもない システム をささえていてくれるが、この システム を提供してくれはしない。
運動による変化の表象とは断じて偏見である。玉突きの玉がころがるような簡単な場合でも、その外観には運動の仮説を強制するなにものもない。(略) 玉は同一時には一つの場所にあるほかはないのだから、運動を呈示するのは決して玉ではない。(略) メカニスム もまた同じように僕らが欲したところのもの、選んだところのものだ。むろん選びやすいから選んだのではない。容易だということなら夢を見ている方が容易なわけだ。あらゆる呪文を祓う恩人として、精神の武器として、僕らは運動というものを選びとったのである。

 

目的とは
吉田兼好
(歌人)
一事を必ずなさむと思はば、他の事の破るをもいたむべからず。
人のあざけりをも恥づべからず。
万事にかへずしては、一つの大事成るべからず。

 

物とは
アラン
(哲学者)
或る物は他の物との関係、つまり他のすべての物との関係によって決定される。単独に考えられた物とは真の物ではない。つまり、物とは分割できない諸関係の組織のうちに成立しているもので、考えられるもの、感じられるものではない。

 

物とは
アラン
(哲学者)
物のなかに閉じこめられた魂というようなものを考えようとはしないはずだ。(略) ものにおける原因、もっと正しくいえば物として原因を扱おうとするには、物を物自体に投げ返す必要がある、生きている肉体という物にも、延長すなわちまったく外的な関係だけを見るようにしなければならない。これが真の知識の鍵だ。

 

物とは
アラン
(哲学者)
物とは存在するものだ。物としての変化とは、変化のもとに物は存在するという意味での変化である。ここで問題は、混沌と秩序とのいずれを選ぶかではなく、現実と虚無といずれを選ぶかにある。なぜ虚無というか、僕らのうちの秩序、思い出や愛や望みの秩序も、物の秩序だけにささえられているからだ。だから、ジュール・ラニョオは言った、「我といっさいの物は存在するかしないかどちらかだ」 と。

 

模倣とは
亀井勝一郎
(批評家)
文学を志す人、或は文学好きの人に、案外怠け者が多いといふことである。文学とはやはり一種の学問である。自分の経験や周囲の事件をたゞ書くのではなく、ひまさへあれば自分の範となるに足る古人先輩の作品に接して、これを学ぶ必要がある。(略) 誰か尊敬する人をひとり選んで模倣することが必要である。独創的たらんとするよりは、尊敬する人の前に自己を放棄して、専ら模倣することが、結局人間を独創的たらしめるのである。模倣のうちにすでにその人の能力はあらはれてくる。高く模倣する人もあり、低く模倣する人もある。模倣を実は非常に困難なことなのだ。さういふ点で勉強は一刻も忘れてはならぬ。

 

問題とは
亀井勝一郎
(批評家)
さまざまな問題に直面するとき、それを出来るだけ早く解決したいと思うのは当然である。しかし問題というものの性質から言って、それが容易に解決しがたいものであればあるほど問題としての重要性を増すものだ。

 

弱い人間とは
有島武郎
(小説家)
偽善者なる私にも少しばかりの誠実はあったといえるかも知れない。けれども少なくとも大胆ではなかった。私は弱かったのだ。(略) 彼れ (佐藤正美 註、ニーチェ のこと) も亦弱い人の通性として頑固に自分に執着した。

 

夢とは
アラン
(哲学者)
僕らは、夢を語りながらでも、夢をこしらえあげるということも明らかだ。僕らの内部生活は、いつもこういう具合に展開するものだ、いつも物に翻訳された印象からできあがっているものだが、決して完全な知覚には到達しない。到達したら目がさめてしまう。目がさめるとは、まさしく目や手の運動で物の真理を探ることだ、僕らの夢とは、探求の欠如すなわち知覚の欠如と批判の力によるものの実際の出現との間の通路にすぎぬ。この道路で書く怠惰な感想文が僕らの夢だ。

 

リアリズム とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
北斎は化けものを描く名手であった。
人間のあらゆる姿態と表情を追求しつくしたあげく、そうなったのである。 冷徹な リアリス゛ム のそれは所産である。 空想家は決して化けものを描くことはできない。

 

理解とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
伝わるということは奇蹟に近い。 いかに 多くのことが省略され、歪曲され、あるいは忘却されたか。 伝わるということは一種の受難でもある。

 

理解とは
小林秀雄
(文芸評論家)
誰も思想の或る型など信じて生きているわけではない。又、生きられもしない。理解するという事と信ずるという事は、人間が別々の言葉を幾時の間にか必要としていた その事が語っている通り、全く性質の違った心の働きである。人間は、万人流に いくらでも理解するが、自己流にしか決して信じない。

 

理解とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
しかし物語や詩歌に接する態度とはその割りきれないものの中で翻弄され、感動をうける以外あるまい。ある分別をこころみ、または理論化しなければ、理解したと思えない人がある。それも一つの理解ではあろうが、口に出して表現出来ず、ただ沈黙のままに心に感ずるという理解もある。

 

類推とは
アラン
(哲学者)
類推には、なにもたとえば両者が同じように感ずるとか動くとかという共通な性質を必要としない。ただ悟性にだけ語りかける関係というものの一致があればよい。だからこそ類推は完全なときに最も目に入りにくい。(略)
  類推の根源とか範型とかいうものは、類似というものがまったく除かれて、相違した物のなかに関係の一致だけしか残らない最高級の数学のうちにある、と。ここでは、幾何学者は、想像に、類似からくる間違った証明を与えるということもほんとうだ、観測者が符号の厳正さによって正しくその眼力をみがくには、高級な数学にたよるほかはない。数学者がさきで、物理学者があとだ。

 

連続とは
アラン
(哲学者)
連続と連続に関する僕らの認識とを混同してはいけない。一般の経験からいって、前者と後者は別々のものだ。はっきりした僕らの思い出にしても、秩序整然と自動的にうかびあがりはしない。僕が続けざまに三通の電報を受けとったとして、内容を見ても時間の関係が読みとれなければ、どういう順序で電報が到着したか知るよしがあるまい。だからこそ、そういう場合、数の順序だとか時間の指示だとかを採用する。これでわかるとおり、連続という秩序を定めるには、一般の数のいろいろな配列を使用するのだが、こういうあたりまえのことに、人々はあまり注意しない。

 

連続とは
アラン
(哲学者)
僕らの経験を探って見つかる、確固たる連続の秩序が二種ある。まず物の秩序が僕らの知覚に、一種の秩序を強いる。僕が行こうと思う道を指名するとき、同時に僕は、共存するさまざまな物のある秩序を描き、さまざまな知覚のはっきり限定されたある連続を描く。「まず小屋が見つかる、つぎに四つ角、次には標柱、やがて小道だ」。ある場所に行くには、道は一つではない。世界をかけまわるには、無数の方法がある。はっきりと定めたある物との関係なしには、共存するさまざまな物の間に前も後もないが、一度歩きだして運動の方向を定めれば、共存しているいろいろな物の秩序を同時に連続の秩序が定まってしまう。

もう一つの連続は、世の事件の連続だ。ここでは過去になった項目は姿を消していて、二度と見つけ出すことができない。(略) ここに、連続の真理として、原因という考えが姿を現わすのだ。(略) 僕らが、経験上の運動を知覚するのは、連続の理論的な考えすなわち原因と結果との関係による。

 

連続とは
アラン
(哲学者)
物としての連続とは因果性自体だということになる。これが悟性の原理に関する証明の様式である。

 

論理学とは
アラン
(哲学者)
一般に論理学とよばれている純粋な修辞学の関するところは、ただ命題の等価というものである。いいかえれば種々さまざまな言葉における意味の一致という点である。またこうもいえる。純粋な修辞学は一つあるいは若干の命題から、対象を念頭におかず、ただ言語だけにたよって、新しい言いかたをどうしたら引き出すことができるかを調査するものだ。つまりすべての正しい人たちは幸福だ、という命題から、若干の幸福な人たちは正しい人たちだ、は引き出せるが、すべての幸福な人たちは正しい人たちだ、は引き出せない。しかし正しくない人たちはだれも幸福ではない、という否定体からは、幸福な人たちはだれも正しくない人たちではない、が引き出せる。

 

論理学とは
アラン
(哲学者)
一つの書かれた思想から、もう一つの書かれた思想を、対象に無関心で、引き出すことは悟性にゆるされてはいない。有名な同一性の原理は、論理の研究において、ただ確定した言語だけに働きかけて認識の世界をひろげようとする理論家への警告として、おのずから姿を現わすのである。知覚を欠いたあらゆる推論は、精妙になるにしたがって必ずあやまりをふくんでくるようになる。

 

論証とは
アラン
(哲学者)
弁護するとは論証することだ。正しいと認めるとは裁くことだ。道理を吟味するので、力を測るこではない。

 

若い世代とは
孔子
(儒家の祖)
後生畏るべし。
焉 (いずく) んぞ来者 (らいしゃ) の今に如 (し) かざるを知らんや。

 

私とは
アラン
(哲学者)
僕という言葉は、現われていようが隠れていようが、僕のあらゆる思想の主格だ。現在、過去、未来にわたり、僕がなにを描こうとし、なにを作ろうとしようとも、僕が形成するものあるいは僕が保持しているものは、常に僕についてのある観念であり、同時に僕の感ずる感情である。僕は変わる、僕は老いる、僕は否定する、僕は改宗する、諸命題の主格はいつも同じ言葉だ。僕はもはや僕ではない、僕は他人だ、というようになれば、命題の自壊だ。もっと空想的なものになると、僕は二人だ、なぜなら両方ともという不変なものだからというようなものになる。このきわめて自然は論理から、は存在しないという命題は不可能になる。つまり言葉の力によって僕は不滅なわけだ。これが霊魂不滅を証明する議論の根底にあるものだ。これが、生涯を通じて常に同一なを僕らに見つけさせる自称経験の原文である。他人からあるいはすべてのモノから截然と区別をつけて、僕のからだや行為をみごとに表現するこのというささやかな言葉は、ひとたびこれを自分に対立させたり、自分から区別したり、いわば自分で自分の葬式に出かけるようなことをすると、たちまち弁証法の源が姿を現わす。

 



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