| 生と死と信仰 | way out >> |
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| 愛とは 有島武郎 (小説家) |
基督は 「汝等互にさばくなかれ」 といった。その言葉は普通受け取られている以上の意味を持っている。何故なら愛の生活は愛するもの一人にかかわることだ。その結果がどうであったとしたところが、他人に絶対にそれを判断すべき尺度を持っていない。しかるに知的生活においては心外に規定された尺度がある。人は誰れでもその尺度にあてはめて、ある人の行為を測定することができる。だから基督の言葉は知的生活にあてはむべきものではない。基督は愛の生活の如何なるものであるかを知っておられたのだ。ただその現われにおいては愛から生れた行為と、愛の真似から生れた行為とを区別することが人間にとっては殆ど不可能だ。だから人は人をさばいてはならぬだ。しかも今の世に、人はいかに易々とさばかれつつあることよ。
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| 悪魔とは ゴーゴリ (小説家) |
一生のあいだに一度も悪魔と近づきにならなかったと言いきれる人間が、はたして この世にいるのだろうか?
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| 悪魔とは シェークスピア (劇作家) |
よしんば悪魔であるにもせよ、あなたは たしかに お美しい。
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| 生きるとは シラー (詩人) |
生きるとは、夢みることだ。 賢明であるとは、.....こころよく夢みることだ。 |
| 生きるとは エッシェンバッハ (小説家) |
あなたの夢が一度も実現されなかったからといって、みじめに思ってはいけない。ほんとうにみじめなのは、一度も夢みたことのないひとである。 |
| 生きるとは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
生きるとは執着することだ。同時にこれが一切の迷いと悪の根源である。 |
| 生きるとは キケロ (政治家) |
なんじは生きるために食うべきで、食うために生きるべきではない。 |
| 生きるとは ゴーリキー (小説家) |
他人をあてにしてはならない...それは期待するほうが、まちがいなのだ。 われわれは、みんな、取るために生きているので、与えるために生きているのではないのだ。 |
| 生きるとは 武者小路実篤 (小説家) |
なんのために あなたたちは生きているのですか。国のためですか、家のためですか、親のためですか、夫のためですか、子のためですか、自己のためですか。愛するもののためですか。愛するものを持っておいでですか。 |
| 生きるとは ドストエフスキー (小説家) |
人生において なによりもむずかしいことは──嘘をつかずに生きることである・・・そして自分自身の嘘を信じないことである。
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| 生きるとは 太宰 治 (小説家) |
生きてゆく力・・・・・・ いやになってしまった活動写真を、おしまいまで見ている勇気。 |
| 生きるとは カール・サンドバーグ (詩人) |
弁舌だけで生活しているようなひとから、私は宗教を得たいとは思いません。
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| 生きるとは 大伴旅人 (歌人) |
生けるもの竟 (つひ) にも死ぬるものにあれば、此の世なる間 (ま) は楽しくをあらな。
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| 生きる技術とは モーロア (作家・評論家) |
生きる技術とはひとつの攻撃目標を選びそこに力を集中することである。 |
| 祈りとは キルケゴール (哲学者) |
祈りとは呼吸であると古人はよくいってくれた。私はなぜ呼吸をするのか、しなかったら死んでしまうからだ。祈りについてもそうである。ただ、呼吸しつづけることで、世界を改革しようなどと思うのでなく、新陳代謝によって活力が再生されればよいのである。 |
| 一跳直入とは 薬山弘道大師 (禅僧) |
思量箇不思量底。(箇の不思量底を思量す) 不思量底如何思量。 非思量。 |
| 因果応報とは 保元物語 |
過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。 未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ。 |
| 怨みとは 紫式部 (女流文学者) |
世に亡くなりて後に怨残すは、常の事なり。 |
| 憂いとは 良寛和尚 (禅僧) |
君看雙眼色 不語似無憂 [ 君看よや 雙眼の色 語らざるは憂なきことをしめす ] |
| 憂いとは 旧約聖書 |
魂の憂は骨を枯らす。 |
| 運命とは ショーペンハウアー (哲学者) |
運命が カート゛ を混ぜ、我々が勝負をする。 |
| 運命とは 芥川竜之介 (小説家) |
運命は偶然よりも必然である。「運命は性格の中にある」という言葉はけっして等閑に生まれたものではない。 |
| 想い出とは シオラン (哲学者) |
かっては自分もひとりの子どもであったことを想い出す。 それがすべてだ。 |
| 思い出とは ショパン (作曲家) |
私の思い出に モーツァルト の曲を弾いてください。 (遺言) |
| 神とは 芥川竜之介 (小説家) |
我々は神を罵殺する無数の理由を発見している。が、不幸にも日本人は罵殺するのに値いするほど、全能の神を信じていない。 |
| 偽善とは ツルゲーネフ (小説家) |
ああ、いかにも自己満足的な、不屈な、安価にあがなわれた善行の 醜悪さよ。 それこそ、悪徳の露骨な醜悪さよりも、さらにいまわしきものでは ないか! |
| 気休めとは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
自分の耳に快い言葉の大半は、気休めの言葉である。 |
| 空 (クウ) とは 澤木興道老師 (禅僧) |
ユカ゛ミ のとれたところを宗といい、ひっきょう空という。 |
| 苦悩とは スタンダール (小説家) |
おのれの苦悩を精細に観ることこそ、おのれの心を慰める手段である。 |
| 欠点とは ゲーテ (小説家) |
我々は生まれつき、 美徳に転じえないような欠点を持っていないし、 欠点に転じえないような美徳も持ってはいない。 |
| 孤高とは 良寛和尚 (禅僧) |
世の中に まじらぬとには あらねども ひとり遊びぞ 我はまされる |
| 心とは 北条時頼 (将軍) |
わが心 鏡にうつすものならば さこそ 姿の醜くかるべし。 |
| 孤独とは パスカル (数学者) |
ひとは、ひとりぼっちで、死ぬであろう。 だから、ひとりぼっちであるかのように、行為すべきである。 |
| 災難とは 良寛 (禅僧) |
災難にあふ時節には災難にあふがよく候。 死ぬる時節には死ぬがよく候。 これはこれ災難をのがるる妙法にて候。 |
| 悟りとは 道元禅師 (曹洞宗開祖) |
本証妙修 [ 修行が、そのまま、悟りである。] |
| 悟りとは 道元禅師 (曹洞宗開祖) |
波もひき 風もつながぬ 捨て小舟 月こそ 夜半のひかりなりけれ |
| 悟りとは 澤木興道老師 (禅僧) |
自分が美味いものを食わんでもいい。また、出世せんでもいいが、しかし、人の美味いものを食いたがる気持ち、出世したがる気持ちもわからんような アホ では タ゛メ だ。 |
| 悟りとは 六祖壇経 (禅の書物) |
説似一物即不中 (せつじいちもつそくふちゅう) [ 一物を説きしめすも すなわち中(あた)らず ] |
| 悟りとは 澤木興道老師 (禅僧) |
修行して ホ゛ツホ゛ツ さとりをひらくのではない。 修行が サトリ であり、この サトリ を行ずる -- 仏祖の坐禅を坐るのである。 うっかりすると仏法を階段のぼることのように思うてしまうが、 |
| 悟りとは 澤木興道老師 (禅僧) |
「悟った」と言えば、一歩 余計じゃ。 「悟っていない」と言えば、一歩 足らぬ。 |
| 悟りとは 道元禅師 (曹洞宗開祖) |
眼横鼻直 (がんのうびちょく)。 [ 眼は横に並び、鼻は縦に並んでいる。悟りとは自然なことを当たり前やること。] |
| 悟りとは 道元禅師 (曹洞宗開祖) |
水鳥の ゆくもかへるも 跡たえて されとも 道はわすれさりけり |
| 悟りとは 小野小町 (歌人) |
あはれてふ事こそうたて世の中を思ひ離れぬほだしなりけれ。 |
| 慈愛とは ジード (小説家) |
金持のひとびとの軽蔑には容易に堪えられる。だが、一人の恵まれないひとの視線は私の心の底に深く突き刺さってくる。 |
| 死ぬとは ラブレ (人文学者) |
幕を降ろせ。 喜劇は終わった。 |
| 自由とは 芥川龍之介 (小説家) |
自由は山巓の空気に似ている。 どちらも弱い者には堪えることはできない。 |
| 自由とは ゲーテ (詩人、小説家) |
ひとはどれほど隠遁して暮らしていようと、いつのまにか、債務者か債権者になっている。 |
| 宗教とは ジード (小説家) |
死は、じぶんの一生をまっとうしなかったひとにとっては辛い。このようなひとにたいして、宗教は暢気な顔で言う、「心配しないでもよろしい。むこう側へいってから本当の生活がはじまるのです。かならずあの世であなたは償われます」 と。 |
| 宗教とは アンドレ・プレヴォ (批評家) |
宗教は大きな河に似ている。すなわち源泉から遠ざかるにつれて、たえまなく汚染してくる。 |
| 執着とは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
一切の執着から離れよとは、人間として不可能なことだ。不可能な教えだ。しかも敢えてそれを信じようとするところに、人間の深い叡知がある。 「不可能」を設定することによって、生の実体を見きわめる明晰の眼を開こうというこである。もし人間に可能なことだけを説いていたら、われわれはその可能なことを、可能であるという理由のもとに実行しないであろう。 |
| 執着とは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
「無為」 とは、まず行動における無執着を意味していると言ってよかろう。何もしないということではむろんない。もの事を判断する場合ならば、判断すると同時にその判断自体に執着しないということである。同時に世間体や他人の顔色にもとらわれない。(略) 「無執着」 を口にしながら執着していることがある。あるいは 「無執着」 も当為と化すれば一種の執着となる。(略) 自己の判断や行動に誤謬があると気づいた時には、直ちにそれを取消すという、極めて平凡な行為から始める以外にない。ところがこの平凡なことが出来ないのだ。
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| 羞恥心とは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
愛について羞恥心なく語る人がいるように、死についても羞恥心なく語る人がいる。 |
| 信仰とは 親鸞 (浄土真宗開祖) |
信じるほかに別の仔細なきなり。 |
| 信仰とは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
したがって、信仰を得るということは安心をもたらすことでなく、逆に今まで見えなかった人間の実態が見えてくることを意味する。だから救いという観念とは逆に、人間としての救いの無さという自覚の方が深まる筈である。 |
| 人生とは シェークスピア (劇作家) |
わたしはこの世をただこの世として見ている。 めいめいが何か一役ずつ演じなければならない舞台だと思っている。 (「ヘ゛ニス の商人」) |
| 人生とは ミュッセ (詩人) |
苦悩こそ人生の真のすがたである。 われわれの最後の喜びと慰めは、苦しんだ過去の追憶にほかならない。 |
| 人生とは ボードレール (詩人) |
人生には、真の魅力が、ただ1つしかない。それは「賭博」の魅力だ。 だが、もし、我々が、負けても勝っても、平気ならば、どうであろう。 |
| 人生とは 森鴎外 (小説家) |
ぼくは生まれながらの傍観者である。(略)どんなに感興のわき立った時も、ぼくはその うずまき に身を投じて、心から楽しんだことがない。ぼくは人生の活劇の舞台にいたことはあっても、役らしい役をしたことがない。
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| 人生とは 空海 (真言宗の開祖) |
生れ生れ生れ生れて生 (しやう) のはじめに暗く、 死に死に死に死んで死のをはりに冥 (くら) し。 |
| 人生とは 吉田兼好 (歌人) |
いのちながければ恥おほし。ながくとも四十にたらぬほどにてなむこそ、めやすかるべけれ。そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人にいでまじらはむ事を思ひ、夕の陽に子孫を愛して、さかゆく末を見むまでのいのちをあらまし、ひたすら世をむさぼる心のみ深く、物のあはれも知らずなりゆくなむあさましき。 |
| 人生とは 太宰 治 (小説家) |
生まれて、すみません。 |
| 人生とは チェーホフ (劇作家) |
僕は よく思うんですがね、もし人生を もう一度新しく、それどころか ちゃんと自覚して始めるとしたら? とね。すでに生きてしまった一つの人生は いわば下書きで、もう一つのほうが──清書だったらねえ! その時こそ、われわれは めいめい、まず何よりも自分自身を繰り返すまいと努力するだろうと思うんですがね。 |
| 人生とは ショーペンハウアー (哲学者) |
一日も小さな一生涯である。──毎日、目がさめて床を離れるのがその日の誕生であり、新鮮な朝ごとに短い青年期を経て、床について眠ると、その日は死んでしまう。 |
| 真理とは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
耶蘇は真理であっても、真理として刑されたのではない。ロ-マ 人の眼には二人の盗賊と同列に扱って然るべき罪人であった。最後にうけた この激しい屈辱、これが耶蘇の死の鮮かさであり、眠れる者を覚醒しむる衝撃となったにちがいない。
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| 真理とは 法句経 (大乗経典の一つ) |
美しく飾られし王の車も朽つ。われらが肉体もまたつひに老ゆ。されど、よき人の法 (のり) は老ゆることなし。よき人より よき人へと語り伝へて。 |
| 神話とは シオラン (哲学者) |
一箇の神話として生きよ。 |
| 生物とは 沢木興道老師 (禅僧) |
「鉄牛は獅子吼を恐れず」と言うが、そりゃそうじゃ。 生物の弱点がないから。 |
| 禅とは 沢木興道老師 (禅僧) |
ツクリモノ を一切ぶちこわして 中味を現 ナマ でやるのが 禅者の生活でなければならぬ。 |
| 善行とは トルストイ (小説家) |
善を行うまえに、悪を行うことをやめなければならぬ。 |
| 泰然自若 伊東静雄 (詩人) |
そんなことは みんな どうでもよいことであった。 ただ 巨大なものが 徐かに 傾いているだけであった。 |
| 罪とは シオラン (哲学者) |
自伝への題辞、 すなわち私は罪という口実をもたぬ ラスコ-リニコフ。 |
| 罪とは 芥川竜之介 (小説家) |
矜誇、愛慾、疑惑--あらゆる罪は三千年来、この三者から発している。 同時に又恐らくはあらゆる徳も。 |
| 罪とは ヤスパース (哲学者) |
私が他人の殺害を阻止するために命を投げださないで手をつかねていたとすれば、私は じぶんに罪があるように感じるが、この罪は法律的、政治的、道徳的には適切に理解することができない。このようなことの行われたあとでも まだ私が生きているということが、拭うことのできない罪となって私の上にかぶさるのである。 |
| 罪の意識とは 亀井勝一郎 (批評家) |
宗教問題の中でも最もむずかしいのは罪の問題である。(略) 罪が醜いものであることは言うまでもないが、その自覚そのものに、深い陥穽 (かんせい) がある。どういう陥穽か。罪についての自己計画から発する虚栄と打算である。宗教の最大の危険もここにある。人は罪の意識をもつことによって巧妙に自己を飾ることが出来るということだ。あるいは罪の意識を抱くことで安心するものだ。そして、これが直ちに救済観念に結びつくとき、どれほどの悪臭を放つか、想像されるであろう。同時に文学にとっては、罪の描写ほど誘惑的なものはない。 |
| 罪の意識とは 亀井勝一郎 (批評家) |
罪悪感を抱くことによって一層巧妙な誘惑者になることもありうる。それはこういうことだ。最も巧妙な誘惑者とは、誘惑の罪を知り、その点で自己を責めながら、自己を責めることに酔いながら女を誘惑するもののことである。そういう一種の知的要素が作家の中に存在する。(略) 神の名はこのとき、情欲をそそる薬味 (やくみ) のような作用をするだろう。 |
| 道心とは 最澄 (天台宗の開祖) |
道心の中に衣食あり。衣食の中に道心無し。 |
| 陶酔とは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
しかし不安なので、何ものかの力をかりて「陶酔」しようとする。 --これが病気になる前の病状である。 |
| 都会の生活とは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
大都会では自然は失われてしまった。新鮮な空気も、緑の樹木も、鳥や虫の声も消滅しつつある。しかし真の悲劇は、多忙と過労によって、人間の人間らしい声も失われつつあるということだ。我々は「叫んで」生きている。 |
| 徳とは スピノザ (哲学者) |
至福は徳の報酬ではなく、徳そのものである。われわれは快楽を抑えるから至福を楽しむのではなく、むしろ逆に至福を楽しむから快楽を抑えることができないのである。 |
| 徳とは 「書経」 (儒学の経典) |
人を玩(もてあそ)べば徳を喪(うしな)ひ、物を玩べば志を喪ふ。 |
| 涙とは シオラン (哲学者) |
一滴の涙には微笑よりもずっと深い根拠がつねにある。 |
| 日常生活とは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
日常生活とは平凡きわまるものである。そのなかで徐々に発芽しているものを慈しみ育てることを忘れているのだ。 |
| 人間とは スピノザ (哲学者) |
人間にとって、人間ほど有益なものはない。 |
| 忍耐とは ゴーリキー (小説家) |
すべてのものごとには終わりがある。したがって忍耐は成功をかちうる1つの手段である。 |
| 不安を鎮めるには シオラン (哲学者) |
狂熱や執拗な不安感を鎮めるには、自分の葬式の情景を思い描いてみるにかぎる。 |
| 不幸とは メーテルリング (詩人) |
人間の不幸は、すべて、自分が路上の人にすぎないことを理解しようとしない点に由来している。 |
| 不幸とは 亀井勝一郎 (批評家) |
平生健康なときは、我々は自分の生命力については無関心である。ところが一旦病気になると忽ち自分の生命に不安を抱く。全力を挙げて生きたいと願うし、同時に生命のもろさを実感する。あるいは死の恐怖を味わう。それまで抱いてきた自分の希望や信念を改めて思い出し、中途で倒れてはたまらないという深い焦燥感や憂いに陥るであろう。つまりこうした不幸が動機となっていままで自覚しなかった生命力がはっきり自覚されてくる。 |
| 仏像とは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
仏像は礼拝の対象であって、美術品ではない。 |
| 仏法とは 澤木興道老師 (禅僧) |
空手還郷でなければならぬ。 空手でなければ、何ぞ クセ がついているわけだ。 仏法の極意は、「何の手形もなしに出発せい」というこっちゃ。 |
| 仏とは 澤木興道老師 (禅僧) |
少住為佳 -- ちょっと一服すればいい。 人間をちょっと一服したのが仏じゃ。 人間が エラク なったのが仏じゃないぞ。 |
| 仏とは 白隠 (禅僧) |
衆生の外に仏なし。 |
| 煩悩とは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
あらゆる煩悩の中で最も捨て難いものは、自己に関する幻想である。 |
| 迷いとは 澤木興道老師 (禅僧) |
実相は始末がついておる。 迷う張り合いがない。 |
| 迷いとは 謡曲(「熊坂」) |
迷ふも悟るも心ぞや。 |
| 迷いとは 一休禅師 (禅僧) |
くもりなき一つの月をもちながら、浮世の雲に迷ひぬるかな。 |
| 迷いとは 亀井勝一郎 (批評家) |
矛盾は永続するだろう。矛盾なしに人間は生きられない。それは我々人間を永久に不安な状態におくことである。しかしこの不安な状態が人間の実際の状態であって、菩薩の大乗精神とは、「不安そのものの中に充満している生命力」 に没入することだと言ってもよい。(略) だから迷わないということが大乗の精神ではなく、迷いの中にあって、迷いそのものの生命力に自己を没入させることが大乗の精神である。言わば矛盾の連続と、未解決のもつ苦痛の中で忍耐することだ。この種の忍耐こそ真の認識能力というものではなかろうか。 |
| 満足とは 澤木興道老師 (禅僧) |
「よかった、よかった」 と、何がよかったのかといったら、「自分の思いどおりに行った」というだけのこと |
| 無常とは 松尾芭蕉 (俳人) |
やがて死ぬけしきは見えず蝉の声 |
| 名声とは 謡曲 (源氏供養) |
身は憂き世の土なれども、名をば埋 (うづ) まぬ苔の下。 |
| 名僧とは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
死に直面して、びくともしない名僧の話だけでは困る。死に直面して、悲歎し狼狽する 「名僧」 もいなければ凡人は救われない。 |
| 名誉欲とは 道元禅師 (禅僧) |
愛名は犯禁よりもあし、 犯禁は一時の非なり、愛名は一生の累なり、 おろかにしてすてざることなかれ、 くらくしてうくることなかれ、 うけざるは行持なり、すつるは行持なり。 |
| 妄想とは 澤木興道老師 (禅僧) |
意識に映った影を、また、蒸し返してみるのを妄想という。 |
| 妄想とは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
作者たちの悲しい妄想は、自分を埋もれてゆくもののなかにけっして数えないことである。農具のように容赦なく捨てられる自己を考えることができないことである。「高級」という妄想のしからしむるところである。 |
| 野心とは スピノザ (哲学者) |
貪欲、野心、贅沢は、苦患のなかに数えられてはいないが、明らかに狂気の一種なのである。 |
| 幽霊とは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
深夜に、ただひとり自分の顔を鏡にうつしてみることだ。自分の顔を眺めていると、ふと異様なものが、表情の底の方あらわれることに気づくにちがいない。それは表情とはちがう。自分の最も執着し思い悩んできたものが、顔にもたらした変形作用であり、あるいはその翳(かげ)である。実はそれがあなたの幽霊なのだ。 |
| 理解とは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
ほめられると、それが誤解からであっても、自分は理解されたと思いこむ。 けなされると、それが正しい理解からであっても、自分は誤解されたと思いこむ。 |
| 私とは 有島武郎 (小説家) |
広さと幅と高さとを点は持たぬと幾何学は私に教える。私は永劫に対して私自身を点に等しいと思う。永劫の前に立つ私は何ものでもないだろう。それでも点が存在する如く私も亦永劫の中に存在する。 |
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