思想の花びら 2019年 6月15日


 ●  アラン (哲学者) のことば

  一般に論理学とよばれている純粋な修辞学の関するところは、ただ命題の等価というものである。いいかえれば種々さまざまな言葉における意味の一致という点である。またこうもいえる。純粋な修辞学は一つあるいは若干の命題から、対象を念頭におかず、ただ言語だけにたよって、新しい言いかたをどうしたら引き出すことができるかを調査するものだ。つまりすべての正しい人たちは幸福だ、という命題から、若干の幸福な人たちは正しい人たちだ、は引き出せるが、すべての幸福な人たちは正しい人たちだ、は引き出せない。しかし正しくない人たちはだれも幸福ではない、という否定体からは、幸福な人たちはだれも正しくない人たちではない、が引き出せる。

 



 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  人間の悲惨を己の外部にあるものとして眺め、戒律や道徳をもつて責める。そして必ず何らかの意味で善人と悪人とを区別断定しなければやまない。それが求信の行から得た当然の権利であり分別であるかのやうに振舞ふ。賭けた以上は元金 (もとで) をとらなければ損なのか。──かうしてかの無神論とは正反対の面から人間の悲惨をもてあそぶ。己は救はれたと思ひこむ幻想が傲慢な所作を生むのだ。凡そ古典を求むるものの先づ陥いる穽はこれなのである。主義の如何に拘らず指導者──先駆者意識もまた然り。

 


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