思想の花びら 2020年 6月15日


 ●  アラン (哲学者) のことば

  行為の発端というものはなにもおもしろいものではない、それは、僕らになにごとかを教えようと強いる必然にすぎないのだ。だから僕らに、将来所有する喜びが決められる道理はあるまい、まして幸福は決められない、幸福は僕らを強いはしないのだ。もし決めてしまえば万事がおしまいだ。「あそこに喜びが見つかるだろうと確信したい」 というのもむろん愚かだが、「喜びなどは決して見つからぬと信じる」 という人はあわれである。そこで、退屈している人間とは、まず、たくさんいろいろな物を苦もなく得ていて、苦労して得た人たちはうらやましがっているだろうと思っている人だ。ここに、「僕は幸福なはずなのだが」 といういたましい観念が生まれる。(略) こうしてある性格ができあがり、むろん、これに似合った経験が応ずる。彼の目はすべての喜びをからす。喜びが多すぎるからではない、喜びには人は倦きやしないから。食べすぎて食事を拒むような人間ではない、むしろみずから摂制の地獄におちた、想像力の病人である。

 



 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  兼好法師が、もし今の世に生きたならば、あらゆるものについて、その過剰性露骨さどぎつさに対して、毒舌をふるふであらう。この点からすれば、今日の都会風景や風俗の多くは、本質的に無教養そのものだと云つてよい。つまり 「いやしげなるもの」 が多いのだ。
 かういふ状態に抵抗するためには、繊細な感受性を養ふことが大切である。繊細な感受性とは、ニュアンス への鋭敏さとも云へるだらう。日本語でいふなら陰翳への愛だ。(略) 人間は、語り難いところで親しくなるものである。愛情とはさういふものだ。(略) 教養の真のあらはれは、その人の 「はにかみ」 にあると。

 


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