思想の花びら 2020年11月 1日


 ●  アラン (哲学者) のことば

  人間がだれでも、疲労から、気まぐれから、心配から、苦労から、退屈から、あるいは単なる光線のたわむれからでも、各自かってなごたくを並べているものだ。けわしい目つきだとか、なごやかな目つきだとか、あるいは焦燥の身ぶり、まの悪い微笑などというが、そういう記号くらい人をまどわすものはない。元来が生命というものの効果にすぎぬ、いわば蟻の運動のようなものだ。いったい人間は、他人のことなど心配する暇はまずないもので、相手が、同じ原因から、自分と同じくらいな疑心を当方に対してもいだいているという場合に限って、諸君には相手のことがとやかく気にかかる。この場合に現われる、さまざまな記号の上に孤独と反省とが働く、疑心暗鬼を生ず、ということになる、暗鬼を判じて腹をたてれば、暗鬼は本物になる、そして敵を作る。記号がどういうものであれ、そこには常に分別などはない。人間は、そう奥の深いものではない。

 



 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  人生をして人生たらしめる条件として、私は邂逅と謝念を挙げた。それを愛といふ言葉であらはしてみたが、それとともに死といふ事実のあることを忘れてはならない。人間は有限なるものだ。死によつて確実に限定されてゐるものだ。どんな人間もこれから免れることは出来ない。我々は平生健康なときには、死を忘れてゐるが死の方は一刻も我々を忘れてゐない。いついかなるとき、それがふいに襲ひかゝつてくるかわからない。我々が生きるといふことは、さういふ死に対して準備することだとも云へるだらう。邂逅のあるところ、やがて別離がある。愛のあるところ死がある。

 


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