思想の花びら 2021年 3月15日


 ●  アラン (哲学者) のことば

  怒りは恐れから生れがちなものだ。(略) これは力いっぱいわめいている子供でも見ればよくわかることで、わめく苦しさと耳に はいるわめき声とにあおられていよいよわめくのである。いったいそこにあるものは怒りか、それとも恐れか、だれも知らない、おそらく両方の混合だ。これが大人となると、どんな怒りにでも常に自己に対する ある恐れがあり、同時に、怒れば救われるといったような安心への希望がある。(略) しかし、怒りにしても効果をおさめるには、明察がいるし、あるていどの自己統御もいるわけで、だから プラトン も、猟師に犬が役立つように、怒りは勇気の手助けをすると言った。
 しかし、怒りは、手足や言語のように、僕らの注文どおりになるものではない。怒りのために、思わぬところまで引きずられていくのはだれも承知している。また、怒りがもはやただ神経的な痙攣や発作ではなくなってしまうと、怒りのうちには、おそらく当人が白状する以上の粉飾があるものだ。人間は腹を立てることを学ぶ、腹立ちをどう持ってまわろうかを学ぶ、なにごとであれ学ぶように。自分を反省しながら行動をおこす、すなわち自在に力をふるいながら、しかもなにごとができるか正確に知らずに行動をおこすと、たちまちそこに怒りが現われるだろう。(略) だから、真の即興にはおそれが先立ち、常に怒りが伴うというわけになる。

 



 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  私の家へは小説の志望者はたくさん来るが、評論を書かうといふ人はめつたに来ない。何かむづかしく勉強して、むづかしい表現をとらねばならぬやうに考へてゐるらしいが、決してさういうものではない。私はさういふ人に、自分の精神生活の一断面を素直にかくこと、或は自分の尊敬する作家の作品論か、作家論をかくことをすゝめる。尊敬のあるところ必ず愛情があり、愛情のあるところ必ず人をうつものがある。

 


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