思想の花びら 2022年 6月 1日


 ●  アラン (哲学者) のことば

  金持になったことで満足しているがいい、正しくなることはあきらめたまえ、と。この場合、諸君を処罰したのは諸君自身の判断だ。ここから次の鉄則が生ずる、だれも承知のものだが、「どんな交換や契約にあっても、相手の立場に自分が立ってみること、しかもできるかぎり自由な見地から、あらゆる君の知識に相談の上、相手の立場に立ったとして、はたして自分はこの交換なり契約なりを是認するかどうかを見きわめること」、人生はこの種のみごとな交換に満ちている、ただ人々はこれに注意を払わぬだけだ。しかし、明らかに富は、常に他人が価値を知らぬ物を買った、あるいは他人の感情や不幸を利用したところに由来する。僕は自分の畳句に還る、金持になっただけで満足しろ、と。

 



 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  キリスト の信仰、あるいはその理想精神は、敗北のかたちで最終の勝利を得たと云ってよい。悪魔の悪魔たる所以は、敗北することが出来ないということの裡にある。悪魔は永久に地上に残される、地上において不死なるものである。つまり現実的なるものはいついかなる場合においても地上的であり地衣類のように強烈に生きつづけるものだ。そして常に信仰を疑い、理想精神をためしてみるものなのだ。ところが人生において、試練という言葉がほんとうに生きるのは、この場をおいて他にない。「現実的なるもの」 と妥協し屈伏してゆくのが人間の実情にちがいないが、それだけであるか、それで満足かと問われるなら、誰でも 「否」 と答えるであろう。長いあいだには 「あきらめ」 ということもあるが、生きる意志はつねに何らかの形で理想を求め、信仰を求めている。それは挫折するかもしれない。恐らく挫折の方が多いであろう。しかし挫折のない人生とはどんなものであろうか。敗北の経験のないということはどういうことであろうか。

 


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