思想の花びら 2022年10月 1日


 ●  アラン (哲学者) のことば

  世には、気のきいた侫人の嬌態というものがあり、ことのならぬまえに先決すべき判断を、ことがなってからとやかく言っては自由な態度をよそおう。勝ち誇った力が、常に他人を説得しようと試み、しばしばこれに成功したと信じこむのもそのゆえだ。だが、これはむちをふるって定理を証明しようとするにひとしい。自由な承諾と真の平和とを目的とするあらゆる誠実な説得の仕事はすべて、自分に敵対する精神に完全な自由を許すにある、これは、ユークリッド の精神が他の諸精神に話しかけるのと同様なやりかたで、つまり、承諾を盗もうとは思わないのだ。

 



 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  ところで、キリスト 自身も女に向って、「われも汝を罪せじ」 と言っている。何故か。この場合 キリスト 自身も一個の人間として罪の可能性を自覚し、その自覚によって自ら罪を負うという態度をとったからである。これを キリスト における内在化せる十字架と呼んでいいのではあるないか。(略) 宗教的に言って決定的な点は、その犯人の自発的な悔改にあるにちがいないが、これは至難なことである。そのために現実の法律と裁判が存在するわけだが、しかしさきにも述べたように、それを越えてなお深い宗教的態度のあることを常に念頭におかねばなるまい。根本は人間性に対する信頼の問題ではなかろうか。

 


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