2004年 8月 1日 作成 妥当性 と 真理性 >> 目次 (作成日順)
2008年 9月 1日 補遺  


 
 形式的体系では、論証の正しさのみが検討され、前提・結論の真偽は検討外とされる。
 正しい論証は、「妥当である」 といわれる。「妥当な」 論証というのは、もし、前提が真なら、結論も真でなければならない、ということである。

 妥当性 (validity) というのは、「命題の集合」 に帰属する性質であって、(集合の メンバー である) それぞれの命題に帰属する性質ではない。いっぽう、真理性 (truth) というのは、「それぞれの命題」 に帰属する性質であって、論証 (命題の集合) に帰属する性質ではない。それゆえ、(命題論理では、) それぞれの 「経験命題」 を検証する手続きのなかで、それぞれの命題が 「真である」 という言いかたをするが、(述語論理では、「一般的な検証手続き」 がないので、) 論証に対しては、「妥当である (整合的である)」 という言いかたをする。
 逆に言えば、それぞれの命題が 「妥当である」 という言いかたは、無意味であり、論証が 「真である」 という言いかたも、無意味である。

 真理性は、それぞれの対象 (事物) に関する概念 (対象と記号とのあいだに成立する指示関係) であり、妥当性は、(記号のあいだに成立する) 形式的構造に関する 「メタ 概念」 である、と言ってもよい。

 論証の結論が 「真」 であっても、論証が 「妥当である」 ことにはならない。
 たとえば、以下のように、真理値表の 「偽・偽・真」 を考えてみればよい。

 a )
  [ 前提 ] すべての パソコン は、四つ足である。(偽)
  [ 前提 ] すべての猫は、パソコン である。(偽)
  [ 結論 ] すべての猫は、四つ足である。(真)

 
 形式的体系では、論証のなかに代入される 「値」 が問われるのではなくて、「公理系 (形式的構造)」 が検討対象になる。妥当であるか、あるいは、妥当でないか、という点は、形式的構造に対する検証をいうのである。したがって、形式的体系では、対象 (事物) は、記号化され──無定義語とされ──、記号のなかに値を代入する際、同じ記号に対して、同じ値を代入さえすればよい。そして、形式の妥当性を、命題の真偽を使って言えば、「妥当性というのは、真なる前提から偽なる結論が導出されることはない」 ということである。

 上述した a ) のなかで、対象 (事物) を、それぞれ A と B と F というふうに記号化すれば、以下の論証になる。

 a )
  [ 前提 ] すべての A は、F である。
  [ 前提 ] すべての B は、A である。
  [ 結論 ] すべての B は、F である。

 
 ちなみに、この論証は、「演繹」 型である。というのは、[ 前提 ] の 2番目は、「B → A (B ∈ A)」 を示している。
 そして、「すべての A は、F である」 が真であり、「すべての B は、A である」 が真であれば、「すべての B は、F である」 は真でなければならない。「真」 は、それぞれの命題の性質である。a ) では、「すべての パソコン は、四つ足である」 は偽であり、「すべての猫は、パソコン である」 も偽である。したがって、論証は妥当ではない。

 さて、a ) の記号を、以下のように、入れ替えて、論証の形式を変えてみる。

 b )
  [ 前提 ] すべての A は、F である。
  [ 前提 ] すべての B は、F である。
  [ 結論 ] すべての B は、A である。

 
 そして、以下の値を代入してみる。

  A  哺乳類
  B  猫
  F  生物

 
 とすれば、b ) は、以下のようになる。

 b )
  [ 前提 ] すべての哺乳類は、生物である。(真)
  [ 前提 ] すべての猫は、生物である。(真)
  [ 結論 ] すべての猫は、哺乳類である。(真)

 
 b ) は、一見すれば、妥当であるように思われるが、以下のような値を代入してみる。

  A  人間
  B  猫
  F  生物

 
 とすれば、b ) は、以下のようになる。

 b )
  [ 前提 ] すべての人間は、生物である。(真)
  [ 前提 ] すべての猫は、生物である。(真)
  [ 結論 ] すべての猫は、人間である。(偽)

 
 したがって、b ) の論証は、「妥当ではない」。
 ちなみに、b ) の [ 前提 ] は、以下のように読み変えることができる。

 「もし、A が 『人間』 であれば、『生物』 としての性質をもつ。」
 「もし、B が 『猫』 であれば、『生物』 としての性質をもつ。」

 
 それらの前提は、集合論的に言えば、以下のように記述できる。

 人間(x) → 生物(z).   猫(y) → 生物(z).

 
 しかし、b ) では、「人間」 の集合と 「猫」 の集合とのあいだに成立する関係(参考)が検証されないまま、「A = B」 と、いっきに、結論が導かれている点が、論証の飛躍になっている。
 全称命題 (演繹) は、たった 1つの反対例があれば、崩れる。

 「メタ」 概念を扱う体系は、まず、妥当性を検証できる (かつ、具体的対象──真偽を問うことができる対象──を代入値として扱うことができる) 形式的構造 [ 公理系 ] になっていなければならない。そして、「対象と メタ」 を考える際、「形式的体系」 を作ることが、どれほど、むずかしいか、という点をご理解いただければ幸いである

 
(参考)
 2 つの集合 (二項関係) には、以下の 4つの関係が成立する。

 (1) A が B をふくんで、さらに、ひろがっている。
 (2) B が A をふくんで、さらに、ひろがっている。
 (3) A と B は、たがいに、一部、まじわっている。
 (4) A と B には、まじわりがない。



[ 補遺 ] (2008年 9月 1日)

 前回、「集合的と周延的」 について説明しました──物を考えるときには、「個体と関係」 として構成を考えるのですが、個体そのものは、「集合と、その元 (メンバー)」 を単位にして考えれば良いことを説明しました。

 本 ページ では、「妥当性と真理性」 について説明していますが、もし、2 値を前提にした第一階の ロジック であれば、集合的に対応するのが妥当性で、周延的に対応するのが真理性でしょうね。ただ、本 ページ のなかで、「論証が 『真である』 という言いかたも、無意味である」 と綴ったのは、少々、misleading になるかもしれない。というのは、もし、「真」 概念を 「(導出的な) L-真」 と 「(事実的な) F-真」 の ふたつに分ければ、「L-真」 は、妥当な推論に従って導出された項に対する 「真」 なので、「論証が 『真である』 という言いかたは無意味」 ですが、導出された構成物に対して 「L-真」 を適用することはできます。

 さて、日本語をしゃべることができるからと云っても日本語で 「正しい」 推論ができることにはならないのであって、推論は意識して学習しなければならない点を本 ページ で力説しています。本 ページ で示した例そのものは、具体的に説明しているので、取り立てて、補遺はいらないでしょう。私は、この例 (「すべての猫は人間である」 という例) を気に入っています──この例は、論理学の或る文献に記載されていた例に、少々、手を入れて変えました [ 盗作になるのが嫌だったので ]。ロジック など学習しても衒学趣味にすぎない という まぬけな自信家に対して、この例を示して正しいかどうかを問うことにしています。もし、そのひとが 「推論」 を使えば、ロジック の規則を使ったことになりますし (笑)、もし、ロジック の規則を使わなければ、「(A → F)∧(B → F)→ (B = A)」 の妥当性を調べることはできないでしょう。

 なお、(参考) で示した 「ふたつの集合のあいだの関係」 を つねに意識するようにして下さい。それを意識していれば、概念を整えるときに、きっと、役に立つでしょう。





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