思想の花びら 2019年 3月15日


 ●  アラン (哲学者) のことば

  理性の原理となると、一段と抽象的な段階にあるといわねばならぬ。すなわち、自然の支持が一段と薄弱なもので、精神はいわば健康上必要な規律として、おのれの好む原理に従うという具合だ。たとえば、既知の秩序では手にあまるような、しかもただ一度しか現れないような事件は、これを事物の気まぐれに帰すよりむしろ想像とか情熱とかの戯れに帰するという類である。(略) 要するになに一つ見のがすまいと注意して外界におこるさまざまな不思議のあとを追うよりむしろさまざまな情熱つまり感動的な意見をつつしむ側に理性の原理はあるのだ。   この種のおきては経験よりむしろ意志に由来するもので、だれもかくかくのおきてがあってどうにもならぬとは決して見なしはしないから、厳守されるというわけにはいかぬ。適切に言えば、判断なるものがこれで、広い意味で道徳上の秩序に属するものだ。したがってこの価値を感ずることのできるのは、情熱の陥穽とか言語の軽佻とかを充分に知った者に限る。言ってしまえば、堅くおのれを持するすることが精神に必要なのである。

 



 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  どうしてこんなに神さまが多いのだらう。そして人間はちつとも救はれない。何といふ奇怪な深さであらう。
  煩悩の深さか、知識の禍か、愛の不足か、信ずるとはどういふことなのか。確かに明らかになつてくる唯一のことは、信仰に一歩近づくとは、地獄に一歩近づくといふことだけだ。

 


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