2021年 3月 1日 「9.1.3 『事態 (できごと)』 に対立する 『存在 (行為者)』」 を読む >> 目次に もどる


 前説で述べたように、われわれが日常生活になかで 個人 および 「関係」 を考える場合、個人が行動を起こして他の個人とのあいだに 「関係」 が成立すると考えていますが、その考えかたはわれわれの実感として間違ってはいないと私は思っています、だから行動を起こす個体のことを主体とも云うのでしょう。ただ、人間 (個人) だけではなくて、机とか パソコン とか建物とか自転車とかをふくめて モノ (事物) を考える場合に問題となるのが、それらを モノ (事物) として汎化したときに、モノ の定義です──すなわち、「モノ とは何か」 という厄介な論点が出てくる。モノ の定義は、(文献が遺っている範囲では) ギリシア 時代から考察の対象になっていたようです── モノ とは、ギリシア 語では 「ousia」 であって、ギリシア 語の動詞 「存る」 の現在分詞から派生した名詞だそうです。そして、「生成 (成る モノ)」 に対立する 「存在 (存る モノ)」 という意味で使われていたそうです。実際に存在する モノ (「存る モノ」) を実体と云うとすれば──私個人は、この 「実体」 という ことば が大嫌いなのですが──、ギリシア 時代には、アリストテレス が彼の著作 「カテゴリー 論」 のなかで、実体を次の二つに分類しています──

    (1) 第一実体

    (2) 第二実体

 第一実体は個体に適用される概念であり、第二実体は個体の集まり [ 種類 ] に適用される概念 (現代で云う 「クラス」) です。そして、第一実体が主語になっていて、その実体が 「どういう モノ であるか」 を記述する述語を 「本質述定」 と云っています──たとえば、「佐藤正美は人間である」 という文において、「佐藤正美」 が第一実体であり、「人間である」 が第二実体を記述する本質述定となります (私は、「本質」 という語も大嫌いです)。このような 「実体」 分析は、論理の仕組み [ たとえば、仮言三段論法 ] を考えるうえでの装置として役立つ。命題論理と述語論理の起点 (原点) となっている分析ですね。

 ただ、「概念」 を分析するうえで、「定義」 (「モノ とはなにか」 という定義) は非常に厄介な論点になってしまう。たとえば、「鳥は飛ぶ」 という文があって、主語 「鳥」 および述語 「飛ぶ」 の それぞれの定義を考える場合、「飛ぶ」 の定義を 「地表から 10メートル離れて、滞空時間が 5分間以上である」 とすれば、次のような反例が出るでしょう──「そうであれば、ペンギン は海鳥とは云えないのではないか」 と。さらに反論として、「地表から 9メートル離れて、滞空時間が 4分間以上である」 というのは定義として不充分なのか、と。もし 「9メートル、4分」 を認めたならば、さらに 「8メートル、 3分」 では だめなのかという反論が出てきて、ついには、「飛ぶ」 という定義ができない。ちなみに、国語辞典 (「広辞苑」) では、「飛ぶ」 は次のように定義されています──「大地から離れ空に上がる。高く舞いあがる。空中を移動する」。他の例として、「愛の本質」 (あるいは、「愛は存るのか」 「愛は美しい」 というような形而上 (?) 的な論点) を哲学的な論点にすることは真面目くさった冗談だと私は思っています──そういう論議は、文学 (および修辞) で扱われるのであって、哲学の論点ではないでしょう。

 1980年代、日本に リレーショナル・データベース を導入普及する仕事に私はたずさわっていたのですが、同時に、コッド 関係 モデル と ER記法 (Entity-Relationship Diagram) も普及させる仕事に就いていました。Entity を 「実体」 というふうに訳すのが通説 (?) になっていたのですが、私は当初から その訳語に反対していました。私自身は、entity とか実体という訳のわからない語を使うのが嫌だったのですが、世間では それらの語が広まっていて、私が SE たちと話するときには それらの語を使わざるを得なかった──それらの語を聞くと不快感を覚えるので、私は頭の中で それらの語を 「無定義語 (あるいは、モノ)」 というふうに変換しています www. ちなみに、entity (実体) の定義について JIS の定義を読んでごらんなさい、訳わからないから www. なお、数学者たちは、モノ は関数のなかの変項としています。

 モデル TM では、「関係 (関数)」 のなかで無定義語として扱われる モノ を定義しています (次回 「9.1.4 解析 (analysis)」 参照)。私が モノ を定義する際に参考にした書物は、ホワイトヘッド 氏の次の書物です──

    「科学的認識の基礎」、ホワイトヘッド A.N. 著、藤川吉美 訳、理想社

 ホワイトヘッド 氏は、自然科学が取り扱う対象として、次の四つを挙げています。

    (1) 持続する現実的な事物

    (2) 生起する現実的な事物

    (3) 反復する抽象的な事物

    (4) 自然の法則

 モデル TM では、(2) が 「event (出来事、行為、取引)」 として定義され、(1) および (3) が 「resource (event に関与する モノ)」 として定義されています。ちなみに、事業分析のための モデル である TM は (4) を対象にしていない。「関係」 を 「関数」 とみなして事業構造を写像する モデル TM が、本来 「関数」 のなかで無定義語 (変数) として扱われる モノ を どのように定義したのかは、次回の エッセー 「9.1.4 解析 (analysis)」 のなかで述べます。「現実」(事業) を形式的構造として記述する モデル は、だれが記述しても一つしか存しない、なぜなら 「現実」 は一つだから──それが 「F-真」 ということです。そのためには、モデル を作成する だれもが モノ を認知するための同一の規準をもっていなければならない。「実体」 などという訳のわからない [ およそ 定義と呼べないような、個人の見かたによって揺らぐような ] 説明では困る。だから、TM は、個人の見かたによって揺らがない 「モノ の定義」 を用意したのです。

 

[ 備考 ]

ホワイトヘッド 氏は数学者ですが、哲学の考察にも大きく寄与しています。彼の 「形而上学」 に対して私は強い興味をもっていて彼の著作を読みたいと思っているのですが、彼の著作は (「全集」 として出版されていますが) 膨大であるうえに 「全集」 は高価です。私が彼の数学・哲学を研究していれば、貧乏な私でも彼の 「全集」 を買って読みたいのですが、私には他に学習研究したいことがあるので、「この書は読めても、あの書は読めない」──彼の著作を読むことを諦めている次第です。 □

 




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